厚焼玉子(事務局・中山佐知子)

地震 台風

今朝5時7分を皮切りに地震が11回ほどあった。
これを差別するならば、最初のが「地震」、
残りは「余震」というやつだろうか。
「余震」の最後はいまのところ震度1で
静岡県清水市あたりが多少揺れた程度らしい。

「地震」の震源地は駿河湾で、マグニチュード6.6。震度6だった。
横ズレ断層型だそうなので、
いわゆる「東海地震」ではないそうだが
なんにしろ東海地震の震源となるべきプレートに
なんらかの力が加わったことに変わりはないのだが
海の底のことなので調査も面倒と思われる。

さて、地震のおかげで影が薄くなってしまったが
台風9号も関東に接近しており、
すでにしてかなりの雨が降っている。
台風と地震がセットになるとろくなことがない。
土砂崩れも起こるし、
お盆の帰省ラッシュのときに通行止めになる道路も
あるかもしれない。

地震も台風も気象庁でニュースを見ることができる。
テレビよりも冷静に事実を伝えているので
みなさん、こちらをどうぞ。
http://www.jma.go.jp/jma/index.html

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真夜中のコンビニ

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「J-wave25時」という番組があります。
毎週日曜の25時から60分の放送枠です。
8月16日の日曜日、25時からの番組は
「CVSミッドナイト」というタイトルで
Visionの古田チームが書きました。
真夜中のコンビニを舞台にしたお話です。
聴いてね。

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腰痛を自分で和らげるコツ

「腰痛を自分で和らげるコツ」という記事を発見しました。
腰痛も肩こりも骨の歪みから起こることは知っていても
整体に行って治療するのは面倒で
ついそのままになってしまうのですが
これは整体師おすすめの腰痛をやわらげる方法です。
身に覚えのあるかた、やってみてください。
http://ameblo.jp/isis-chiro/entry-10309544180.html

*大元のHPはここです
http://www.isis-chiro.com/

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今村直樹監督のブログ




 いままで、ぼくたちが「広告の仕事」に向けてきた、
 情熱や、時間や、場所をコンパクトに。
 そして、広告以外の(正しくは、従来、
 広告の仕事と思われていたこと以外の)仕事に、
 その、情熱や、時間や、場所を広げていく
 時なのではないか?

http://www.liverary.com/new%20HP/newHOME.html

今村直樹さんと仲間たちのブログです。
ご一読を。

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厚焼玉子 09年7月11日放送



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漱石と子規と道後温泉

夏目漱石が松山中学に赴任すると
後を追うようにして正岡子規がやってきた。
明治28年の夏のことだった。

漱石は月給は80円の英語教師、
子規は30円の新聞記者だった。
子規は漱石が借りた家の一階に陣取って
食べるものも飲むものもすべて漱石にたかって暮らした。

朝6時、ドンドンと響く太鼓の音は朝風呂が開いた合図だ。
松山には道後温泉があって
漱石がやってくる前の年に立派な共同浴場ができていた。
ふたりは毎日のように温泉につかった。

やがて秋も深まり
毎日のように食べた出前のウナギの代金から
帰りの旅費まで漱石に払わせて
正岡子規はやっと松山を出て行った。

やれやれ….
漱石が温泉で手足を伸ばしている姿が目に浮かぶ。

*道後温泉:愛媛県松山市 アルカリ性単純泉 42℃
 http://www.dogo.or.jp/

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露伴と男鹿温泉

幸田露伴が温泉のことで愚痴っている。
明治30年、男鹿温泉に泊まったときのことだ。

夜の9時頃に宿に到着したところ
怪しまれて雨の中を入り口で待たされた。
風呂は大きかったがお湯は水のように冷たかった。
酒は酸っぱく、茶漬けを食べて寝た。

それでも露伴は新聞記者に語っている。
「男鹿島はなかなか素晴らしい景色でした」

温泉については
固く口をつぐんでいたようだ。

*男鹿温泉:秋田県男鹿市 ナトリウム塩化物泉 55℃
 http://www.e-ogaonsen.com/

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森鴎外と山田温泉

明治23年8月、
開通して間もない信越線に乗って
森鴎外先生は山田温泉においでになった。

鴎外先生の記録によると
当時の山田温泉は30軒ばかりの家が並ぶ山里で
それでも宿屋は7軒ばかりあった。
温泉までの道は野生の撫子が咲き
ところどころに冷たい湧き水があった。

秋になったら、と
鴎外先生はお湯のなかで考えていた。
秋になったら子供が生まれる。
それを待って、やはり妻と別れよう。

気の強い妻としっかりものの母の板挟みで
どれだけ自分が弱っているか
やわらかなお湯が教えてくれたのだろう。
その年の10月、本当に森鴎外は妻と別れた。

*山田温泉:長野県上高井郡 塩化物泉68℃
 http://members.stvnet.home.ne.jp/hin-nobe/html/

 
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藤村と中棚温泉(なかだなおんせん)

中棚温泉は「小諸なる古城のほとり」にある。
島崎藤村は明治32年から
英悟と国語の教師として小諸に6年を過ごし
中棚温泉に足しげく通った。
そこからは四季折々の千曲川が見えた。

藤村は「千曲川のスケッチ」の序文に書いている。


 もっと自分を新鮮に、そして簡素にすることはないか
 これは私が都会の空気の中から脱け出して、
 あの山国へ行った時の心であった。

はじめての詩集「若菜集」から3年
さらに自分を研ぎ澄まそうとする藤村の決意だった。

*中棚温泉:長野県小諸市 弱アルカリ性単純泉 37℃
 http://www.nakadanasou.com/







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志賀直哉と城崎温泉

大正2年、志賀直哉は山手線の電車にはねられ
生死の境をさまよった。

城崎温泉に滞在したのは療養のためであり
何かを書こうという意欲ではなかったが
死というものに出会ってしまってからの志賀直哉の心は
悟りに似た境地に達していた。

死はいつでもそばにある。

それでも死ななかった自分の命が
ゆらゆらとお湯のなかに浮かんでいた。

*城崎温泉:兵庫県豊岡市 塩化物泉 70℃
 http://www.kinosaki-spa.gr.jp/



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   左の写真は日本列島お国自慢より


森田草平の塩原心中

森田草平には何かと不祥事が多かった。

高校時代は従姉妹と同棲していることが
学校側の知るところとなって退学。
上京して東大に進学すると
こんどは下宿の娘とややこしいことになってしまった。

卒業して英語教師になると試験を忘れてクビになったし
夏目漱石の紹介でやっと他の学校に就職すると
こんどは心中事件を起こした。

明治41年、3月。
塩原温泉に泊まった翌日、死ぬつもりで山に入ったが
膝まで埋もれる雪に迷い
死ぬ気力もなくしていたところを捜索隊に発見された。

塩原温泉の心中事件は大スキャンダルになったが
森田草平はそれを逆手に取って小説を書き
一躍文壇に躍り出た。

こういう縁で、いま塩原温泉には
森田草平の文学碑が建っている。

心中の相手、平塚らいてふの碑はないようだ。

*塩原温泉:栃木県那須塩原市 塩化物泉、硫酸塩泉など11の温泉 40℃〜77℃
 http://www.siobara.or.jp/welcome.stm


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 上の写真は日本列島お国自慢より

智恵子の最後の温泉

高村光太郎が智恵子を連れて
塩原温泉に行ったのは昭和8年の夏の終わりだった。

それはすでに精神を病んでいた智恵子のための温泉めぐりで
塩原には最後に立ち寄って十日ほど滞在している。
宿の下には川が流れ、涼しい水音が聞こえていた。
晴れた日にはヒグラシも鳴いた。
宿に出入りする写真屋はふたりの写真を撮った。

この旅の前に、光太郎は婚姻届を出し智恵子を入籍している。
自由な結婚を19年つづけた末に
光太郎は病気の智恵子を一生背負っていく決心をしたのだろうか。

塩原温泉は智恵子が最後に旅した場所になった。

*塩原温泉:栃木県那須塩原市 塩化物泉、硫酸塩泉など11の温泉 40℃〜77℃
 http://www.siobara.or.jp/welcome.stm



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09

与謝野晶子の温泉めぐり

与謝野晶子が温泉めぐりをしていたことは
案外知られていない。
なにしろ子供は11人いるし、
来る仕事をことごとく引き受けても
家計は苦しかったし
今日の食べものにも事欠いているときに
石川啄木は切手を貼らないで原稿を送りつけてくるし。

それでも晶子は北海道から鹿児島まで
70ヵ所以上の温泉をめぐっている。

おかげで全国各地の温泉に
与謝野晶子の歌碑や色紙、ゆかりの宿がある。

これだけ働いた人が行った温泉は
さぞ疲れが取れるに違いない。

*川原湯温泉 栃木県吾妻郡 塩化物・硫酸塩温泉 71℃
 http://www.kawarayu.jp/
*湯宿温泉 群馬県利根郡 硫酸塩泉 63℃
 http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/onsen/yujuku.html

yosano

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THRILLER

THRILLER

(場合が場合だけに悪趣味ですみません。
 バイオハザードにも見えますね)

Earth Song

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鬼岳だっ



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鬼岳の動画を発見。貼っておきますね。
鬼岳は日本ではめずらしい火山涙の産地だそうです。
火山涙はマグマが飛び散って固まったガラス質の球です。
ひとつ欲しいです。(厚焼玉子)

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ストラディバリ

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アントニオ・ストラディバリ(Antonio Stradivari)
が制作したバイオリンは1200梃。
およそ半分が現存しているといわれる。
ストラディバリのバイオリンには
Antonius Stradivarius Cremonensis Faciebat Anno
という銘があるためにストラディバリウスと呼ばれる。

ストラディバリウスのバイオリンのなかで最上のものは3梃ある。
そのひとつはメサイアと名付けられ
いまはオックスフォードのアシュモリアン美術館に展示されている。
アラードと呼ばれるものは個人のコレクターが所有している。
ドルフィンは日本音楽財団が所有しており
これは日本のあるバイオリニストに貸与されている。

日本音楽財団はバイオリンだけでも
16梃を所有しており
内外のバイオリニストに無償貸与している。

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厚焼玉子 09年5月31日放送

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ラウカディオ・ハーンと日本の音1 ヘルン

日本に来て松江の英語教師になったラウカディオ・ハーンには
もうひとつの呼び名があった。

ヘルン先生

それはハーンをローマ字にしてそのまま読んだ
日本風の名前だったが
ヘルンという言葉の響きがすっかり気に入ったハーンは
違いますよ、と直すこともせずに
そのままヘルン先生で通してしまった。

名前だって呼ばれるときは音になるのだから
親しみやすい方がいいに決まっている。

おかげで21世紀になっても
松江に行くとヘルン先生の人気は高い。

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ラウカディオ・ハーンと日本の音2 怪談

お母さんや近所のおばあさんが
子供たちに話して聞かせる物語は
その土地土地の言葉で伝えられていく。

ラウカディオ・ハーンもまた子供のように
妻の節子にお話をせがんだ。
耳なし芳一、狢、雪女…
そうして一冊の本ができた。

その本のタイトルはローマ字で書かれた日本語で
「KWAIDAN」(くゎいだん)
「怪談」のKとAの間にWが入って「くゎいだん」
それは節子が口にしたままの音だった。

関西より西の地域では古い言葉がいまも残り
お年寄りの口から、古めかしく耳にやわらかい言葉の響きを聞くことがある。
「火事(かじ)」ではなく「くゎじ」
「けんか」ではなく「けんくゎ」

ラウカディオ・ハーンの「KWAIDAN」には
なつかしい言葉の響きが残されている。

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ラウカディオ・ハーンと日本の音3 山鳩

テテポッポー、カカポッポーと鳴くのは
山鳩だった。
ラウカディオ・ハーンが住んでいた松江の家の
裏の森で鳴く山鳩は
テテポッポー、カカポッポーと鳴いた。

幼いときから両親と離れて暮らし
家族にあこがれつづけたハーンは
その意味を知って涙した。

テテはお父さん、カカはお父さん
ポッポはふところ。

「お父さんのふところ、お母さんのふところ」と鳴く山鳩の声は
ハーンにとってもっとも心地よい日本の音になった。

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ラウカディオ・ハーンと日本の音4 下駄

It is a sound never forgotten,this pattering of geta over the Ohashi--rapid,merry,musical,1ike the sound of enormous dance;

それは忘れられない音だ。
大橋を渡る下駄は、足早で、ほがらかで、音楽的で、
大がかりな舞踏会の響きにも似ている。

ラウカディオ・ハーンが
松江大橋を渡る下駄の音を描いた原文と日本語訳を
お伝えしました。

足音まで音楽だった日本がかつてあったことを
ハーンは教えてくれています。

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ラウカディオ・ハーンと日本の音 5 エンジンの神楽ばやし

松江から出雲へ
いまならひと走りの距離も
ラウカディオ・ハーンの時代には
小さな蒸気船で宍道湖を渡る旅だった。

ハーンは日本に暮らすようになってから
文明を連想させる音を極端に嫌うようになっていた。
電信も電話も、蒸気船も…..。

けれども、青い湖水と緑の丘と
さらにその背後に霞む山々を見ていると
船のエンジンの音も
神の名を唱える神楽の囃子のように聞こえてくるのだった。

いま、日本の街には乗り物の音が
逃げ場なく充満している。

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ラウカディオ・ハーンと日本の音 6 土塀のなかの静寂

ラウカディオ・ハーンが住んだ松江の家は
土塀に囲まれた武家屋敷。
松江城のお堀のそばに建っていた。

その家には三つの庭があり、
ハーンが「音もなく流れていく静かな流れの岸辺」と書いた南の庭は
実際には水がなく、砂を水の流れに見立てた庭で
蜂の羽音まで聞こえる静寂にひたることができた。

北の庭には池があり、ハーンはこの庭で
蓮の葉をたたく雨の音やカエルの合唱を楽しんでいた。

三番めの庭は「野の花の荒れ地」とハーンは書いている。
夜明けから日暮れまで、小鳥の合唱が聞こえ
夜は夜でフクロウが鳴いた。

電信も電話も新聞も汽船もうるさすぎる。
近代化はどうして耳障りな音と一緒にやってくるのだろう。

ハーンは、そんなことをぼやきながら
松江の庭の土塀に守られて静かに暮らしていた。

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ラウカディオ・ハーンと日本の音 7 守られた静寂

ラウカディオ・ハーンが松江を去って十数年、
日銀に勤めていたある人物がハーンの本を読んだ。
それはドイツで発行された洋書で
「知られざる日本の面影」の英語版だった。

読んで驚いた。
ハーンが本の中で魅力あふれる庭と紹介しているのは
ふるさとの自分の家の庭だったのだ。

それから松江に帰ったその人は
建て増しした部屋を取りこわし
埋めてしまった池をもう一度掘って
ハーンが住んでいた当時の姿に復元してしまった。

自分の住んだ静かな家が工場に呑み込まれることを心配し
心を残しながら松江を去ったハーンの予想は
うれしくはずれ
お堀のそばの武家屋敷はいまでも静かに保存されている。

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ラウカディオ・ハーンと日本の音 8 八雲とハウン

小泉八雲、というのが
ラウカディオ・ハーンが日本に帰化し
日本人になったときの名前だ。

八雲を音読みするとハウンになるという事実は
多くのファンを喜ばせているが
本人にそんなつもりはなかったと
弟子のひとりは語っている。

けれども、繊細な日本の音を聞き分けるハーンの耳が
八雲がハウンになることに気づかなかったわけはないのだ。

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Vision の宴 写真集

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