厚焼玉子(事務局・中山佐知子)

厚焼玉子 18年9月29日放送

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松岡明芳
台風

9月は台風の季節。
台風の恩恵のひとつに「運ぶ」と言う役割がある。

土砂を運び、海に砂浜をつくる。
赤道の熱エネルギーを温帯地方に運ぶ。

身近なことで言えば、川沿いに咲く彼岸花。
彼岸花は必ず人里に咲く。
もし人里離れた川沿いに咲いている彼岸花があれば
上流の村から土砂に混じって流されたと思っていいそうだ。

木や草の種を思いがけない遠くへ運ぶのも台風だ。
海から顔を出したばかりの新しい島に
いつの間にか草が生えている。
虫も台風の風に乗ってやってくる。

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厚焼玉子 18年7月21日放送

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xanday
日本三景 天橋立

イザナギとイザナミが国づくりをすると、
天の神々はその美しい国へ行ってみたくなった。
そこで天から地上までハシゴをかけた。

地上には美しい人間の娘たちがいた。
娘たちは天にある神の国を見たがった。

 それなら内緒で連れて行こう。
 でも声をたてないようにね。

神さまたちは娘たちにさんざん注意したけれど、
ハシゴから下を見た娘たちは
「わあキレイ」と声を上げた。
とたんにハシゴは音を立てて崩れ、
いまではその一部が天橋立と呼ばれているそうな。

これは日本三景のひとつ天橋立にまつわる伝説のひとつ。
今日は日本三景の記念日。

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厚焼玉子 18年7月21日放送

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Hide
日本三景 松島

 松島や ああ松島や 松島や

松尾芭蕉の句と言われているが、
実は芭蕉は松島でひとつも俳句を作れなかった。
言葉にできない美しい風景を眺め、
眠れない一夜を過ごした。

「松島や」の句は
そんな芭蕉の気持ちを後世の人が代弁している。

ところで、物理学のアインシュタイン博士が
月を見るために松島を訪れたことがある。
1922年12月、
凍てつく空にかかった十三夜の月を見て
「おお、月が…」と言ったきり絶句したそうだ。

日本三景の松島は言葉を失うほど美しい。
今日は日本三景の記念日。

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厚焼玉子 18年7月21日放送

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wiennat
日本三景 厳島

厳島は日本三景のなかで
唯一世界遺産に登録された景勝地だ。
1996年に厳島神社と原始林が世界遺産に、
そして2012年には海岸の一部が
ラムサール条約に登録されている。

もともとこの島は神の島であり
人が住むことを禁じられていた。
人が住むようになってからも
土地を耕すことは禁じられていた。

現在も島全体が保護区として
日本古来の自然の姿を保ち続けている。

今日は日本三景の記念日。

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厚焼玉子 18年7月21日放送

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立命館大学アート・リサーチセンター所蔵
日本三景 林 鵞峰

江戸時代のはじめ、
日本全国を旅した儒学者林鵞峰(がほう)が
自らの著書に卓越した日本の三つの景観として
松島、天橋立、厳島を紹介した。
これが日本三景のはじまりである。

東北、近畿、中国に散らばる日本三景は
一見共通点がないように思えるが、
これをめぐる人は、太平洋、日本海、瀬戸内海の
三つの海を旅することになり、
日本が海に囲まれた島国であることを認識する。
日本三景は三つの海を代表する景色でもあるのだ。

林鵞峰は1618年7月21日に生まれ、
その日が日本三景の記念日になった。

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厚焼玉子 18年7月21日放送

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けびぃ
日本三景 雪雪花

三種なら雪・月・花。
四種あれば花鳥風月。
いずれも日本の風景に彩りを添える風物だが、
日本三景を雪月花に当てはめ他のはどこの風流人だろう。

それによると、雪は天橋立。
8000本の松の木々が雪化粧をした天橋立は
幻の景色とされている。
月は松島。
もともと松島は月の名所だった。
そして、花は厳島。
実は花ではなく花に見立てた紅葉だが
色づく秋の山を背景にした厳島神社の美しさは
必見だそうだ。

美しい風景があり、季節がある。
日本はいい国だ。

今日は日本三景の記念日。

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厚焼玉子 18年7月14日放送

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daniel.kakiuthi
パリ祭 その日

7月14日、パリ祭。
この日、パリでは花火が上がり、
軍隊のパレードはシャンゼリゼ通りを行進し
フランス空軍のアクロバット飛行チームが空で演技をする。

大統領はこの日のためにとっておきの演説をし、
ルーブル美術館はこの日入場無料になる。
エッフェル塔の下ではコンサートが開かれ
フランスの大部分の都市ではダンスパーティが開かれる。

おりしも観光シーズン。
街は観光客で溢れている。
まだパリに残っていた市民も
この日が終わるとバカンスに出発する。
演説のためにパリに残っていた大統領も
翌日から南フランスの別荘で
およそ1ヶ月の休暇を過ごすのが恒例らしい。

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厚焼玉子 18年7月14日放送

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パリ祭 名称

7月14日はパリ祭

パリ祭の正式名称はFête nationale française、
国民の祭りというような意味だ。
単にQuatorze Juillet、7月14日と呼ばれることもある。

日本でパリ祭と呼ばれるのは
1933年に封切られたルネ・クレール監督の映画
「Quatorze Juillet」が「巴里祭」というタイトルで公開されたことが
原因らしい。

英語圏ではBastille dayと呼ばれることもある。
この日はパリの市民がバスティーユを襲撃した日、
フランス革命の始まりの日でもあるからだ。

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厚焼玉子 18年7月14日放送

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パリ祭 亡命のパリ祭

1940年から1944年まで
ロンドンで開催されたパリ祭の記念式典がある。

ドイツ軍によってパリが陥落した1940年、
ナチスドイツに協力を表明した新政府に追われて
イギリスに亡命したフランス陸軍次官シャルル・ド・ゴールと
彼の亡命政権である自由フランス政府が行ったものだ。

このとき、ド・ゴールの亡命政権がなかったら
真っ先にドイツに降伏したフランスは
敗戦国になっていたと思われる。

ド・ゴールはイギリスからフランス本土へ向けて
徹底抗戦を呼びかけていた。
ロンドンで行われたパリ祭は
フランスは負けていないというアピールだったのかもしれない。

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厚焼玉子 18年7月14日放送

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パリ祭 歴史

1789年のこの日
パリの市民によるバスティーユの襲撃は
フランス革命につながった。
翌1790年の7月14日には大規模な記念式典が行われ
国民軍司令官のラ・ファイエット公爵とルイ16世が
憲法に忠誠を誓った。

革命の余波は長く続いた。
国王と王妃の処刑。
ナポレオンのクーデター。
王政復古。
多くの血が流された。
我々は本当に正しいことをしているのかと
疑いを持った人もいただろう。

そして1879年、7月14日を祝う祝祭が再び開かれ
1880年には7月14日を祝日にする法案が可決された。
最初のパリ祭から90年後のことだった。

市民の決起は正しかった。
あの革命は正しかったと思えるまでに
長い時間が必要だったのだろう。

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