厚焼玉子(事務局・中山佐知子)

厚焼玉子 18年7月14日放送

180714-05

パリ祭 由来

日本の国はいつから始まったのだろう。
誰も答えられない。
でもアメリカならわかる。
独立戦争からだ。

フランスも同じだ。
現在のフランス共和國はフランス革命に由来している。

そのフランス革命のきっかけとなったのが
1789年のパリ市民によるバスティーユ襲撃。
だから国民はその日を祝う。

その日は7月14日。
日本ではパリ祭として知られている。

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厚焼玉子 18年6月30日放送

180630-01

チャイカの日 選抜

1962年の春、当局は女性候補者を5人に絞り込んだ。
技術者2名、教師1名、タイピスト1名、
残るひとりは織物工場の工員だった。

それからおよそ1年、5人は教育を受け
トレーニングも積んだ。
ロケット理論、宇宙船工学、戦闘機による飛行、
120回のスカイダイビング。

1年後、織物工場の工員だった女性が選ばれ
そのミッションのコードネームが与えられた。
コードネームは「チャイカ」
世界初の女性宇宙飛行士の誕生だった。

1963年6月、
宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワは
ボストーク6号から
ヤー・チャイカ(私はカモメ)と呼びかけた。

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厚焼玉子 18年6月30日放送

180630-02

チャイカの日 心拍

例えば、面接。例えば初めてのデート。
さまざまな運動。
ドキドキする、つまり心拍数が上がるシチュエーションは
日常にいくらでもある。

安静にしている女性の心拍数は65から75。
20代の女性が運動をしているときの心拍数は
135ならラクな運動、
150で、ちょっときつい運動だそうだ。

1963年6月
当時26歳だった世界初の女性宇宙飛行士
ワレンチナ・テレシコワが
ボストーク6号に乗り込んだときの心拍数は140。
宇宙飛行を単に運動と考えれば決してきつくはない。

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厚焼玉子 18年6月30日放送

180630-03
Ωméga *
チャイカの日 ランデブー

宇宙のランデブーは
2機以上の宇宙船が速度を合わせ
同一の軌道を飛んで接近することをいう。

世界初の女性宇宙飛行士
ワレンチナ・テレシコワがボストーク6号で宇宙へ出ると
そこにはボストーク5号が待ち受けていた。

テレシコワのボストーク6号は
ブイコフスキーの乗るボストーク5号に5kmの距離まで接近し、
お互いに交信をし合った。

 (テレシコワのコードネームは「チャイカ(かもめ)」
  ブイコフスキーは「ヤーストレフ(鷹)」)

1963年6月のことだった。

当時はランデブーと騒がれたこのミッションだが
ランデブーには接近度が足りず
今では共同飛行と呼ばれている。

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厚焼玉子 18年6月30日放送

180630-04

チャイカの日 20年

1963年6月
世界初の女性飛行士として宇宙へ飛んだワレンチナ・テレシコワは
その年の秋に結婚し、娘を出産。
空軍大学を卒業し、博士号を取り
共産党中央委員会の一員に選ばれた。
それから離婚も経験した。

テレシコワが離婚した1982年、
世界で二番めの女性宇宙飛行士が二人の仲間とともに
宇宙へ飛んだ。
スベトラーナ・サビツカヤ、当時34歳。
アクロバット飛行チームで世界チャンピオンにもなったパイロットだった。

繊維工場の工員だったテレシコワ。
超優秀なパイロットだったサビツカヤ。
世界初と二番めの間にはおよそ20年の隔たりがあった。

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厚焼玉子 18年6月30日放送

180630-05

チャイカの日 秘密

1963年6月
ソ連のボストーク6号は
世界初の女性宇宙飛行士テレシコワを乗せて
宇宙へ向かった。

宇宙開発のミッションは極秘で進められていたので、
宇宙飛行士の候補に選ばれたことさえ
テレシコワは家族に打ち明けることができなかった。
打ち上げ当日も「パラシュートの競技会に参加する」と
家族に説明した。

テレシコワが無事に地球に帰還し
政府がそのニュースを全世界に発表したとき
テレシコワの母は娘の偉業を初めて知ったのだ。

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厚焼玉子 18年6月9日放送

180609-01

山田耕筰 声楽科

「赤とんぼ」「ペチカ」などの童謡で知られる山田耕筰は
東京音楽大学の声楽科を卒業している。

本当は作曲の道へ進みたかったのに
その当時、学校には作曲を担当できる教官がおらず
しかたなしに声楽科を選んだらしい。
「声楽なんか好きじゃなかった」という本人の言葉も
伝えられている。

その山田耕筰が、日本の歌曲の先駆者となり、
600を超える声楽の曲を作曲したのだから不思議だ。

ちなみに1908年の卒業演奏で
山田耕筰はバリトンでシューベルトの「菩提樹」を
歌った。

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厚焼玉子 18年6月9日放送

180609-02
関西学院大学
山田耕筰 校歌

駒澤大学、関西学院大学、武蔵野美術大学
これらの大学に共通するものがある。
それは、作詞北原白秋、作曲山田耕筰の校歌だ。

山田耕筰は小学校から大学まで、
全国の学校の校歌を数多く作曲した。
そのうちのおよそ100曲が北原白秋と組んだものだった。

関西学院大学では山田耕筰の直筆の楽譜を
いまも大切に保管している。

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厚焼玉子 18年6月9日放送

180609-03
Akira
山田耕筰 からたちの花

北原白秋作詞、山田耕筰作曲「からたちの花」
山田耕筰は、これをもっともむづかしい曲の一つに数え、
その歌いかたを細かく指示しているほどだ。

 「からたち」の「か」をやや抑えて漸弱(ぜんじゃく)し
  「らたち」はむしろ軽く流すようにする。
  叙事は淡々と、叙情は切実に。

からたちの花が咲いたよ
白い白い花が咲いたよ

山田耕筰の指示を読むと
この二行を歌うむづかしさがわかる。

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厚焼玉子 18年6月9日放送

180609-04
DX Broadrec
山田耕筰 甲子園

夏の甲子園。
選手の入場のときに使われる行進曲は
山田耕筰が作曲している。

この曲ができた1935年、
山田耕筰は甲子園で150人の学生ブラスバンドを率いて
自ら指揮棒を振った。

当時の新聞記事によると
山田耕筰はこのとき、
握力が余って指揮棒を曲げてしまったそうだ。

49歳の力強い指揮だったのだろう。

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