パリ祭 由来
日本の国はいつから始まったのだろう。
誰も答えられない。
でもアメリカならわかる。
独立戦争からだ。
フランスも同じだ。
現在のフランス共和國はフランス革命に由来している。
そのフランス革命のきっかけとなったのが
1789年のパリ市民によるバスティーユ襲撃。
だから国民はその日を祝う。
その日は7月14日。
日本ではパリ祭として知られている。
パリ祭 由来
日本の国はいつから始まったのだろう。
誰も答えられない。
でもアメリカならわかる。
独立戦争からだ。
フランスも同じだ。
現在のフランス共和國はフランス革命に由来している。
そのフランス革命のきっかけとなったのが
1789年のパリ市民によるバスティーユ襲撃。
だから国民はその日を祝う。
その日は7月14日。
日本ではパリ祭として知られている。
チャイカの日 選抜
1962年の春、当局は女性候補者を5人に絞り込んだ。
技術者2名、教師1名、タイピスト1名、
残るひとりは織物工場の工員だった。
それからおよそ1年、5人は教育を受け
トレーニングも積んだ。
ロケット理論、宇宙船工学、戦闘機による飛行、
120回のスカイダイビング。
1年後、織物工場の工員だった女性が選ばれ
そのミッションのコードネームが与えられた。
コードネームは「チャイカ」
世界初の女性宇宙飛行士の誕生だった。
1963年6月、
宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワは
ボストーク6号から
ヤー・チャイカ(私はカモメ)と呼びかけた。
チャイカの日 心拍
例えば、面接。例えば初めてのデート。
さまざまな運動。
ドキドキする、つまり心拍数が上がるシチュエーションは
日常にいくらでもある。
安静にしている女性の心拍数は65から75。
20代の女性が運動をしているときの心拍数は
135ならラクな運動、
150で、ちょっときつい運動だそうだ。
1963年6月
当時26歳だった世界初の女性宇宙飛行士
ワレンチナ・テレシコワが
ボストーク6号に乗り込んだときの心拍数は140。
宇宙飛行を単に運動と考えれば決してきつくはない。
Ωméga *
チャイカの日 ランデブー
宇宙のランデブーは
2機以上の宇宙船が速度を合わせ
同一の軌道を飛んで接近することをいう。
世界初の女性宇宙飛行士
ワレンチナ・テレシコワがボストーク6号で宇宙へ出ると
そこにはボストーク5号が待ち受けていた。
テレシコワのボストーク6号は
ブイコフスキーの乗るボストーク5号に5kmの距離まで接近し、
お互いに交信をし合った。
(テレシコワのコードネームは「チャイカ(かもめ)」
ブイコフスキーは「ヤーストレフ(鷹)」)
1963年6月のことだった。
当時はランデブーと騒がれたこのミッションだが
ランデブーには接近度が足りず
今では共同飛行と呼ばれている。
チャイカの日 20年
1963年6月
世界初の女性飛行士として宇宙へ飛んだワレンチナ・テレシコワは
その年の秋に結婚し、娘を出産。
空軍大学を卒業し、博士号を取り
共産党中央委員会の一員に選ばれた。
それから離婚も経験した。
テレシコワが離婚した1982年、
世界で二番めの女性宇宙飛行士が二人の仲間とともに
宇宙へ飛んだ。
スベトラーナ・サビツカヤ、当時34歳。
アクロバット飛行チームで世界チャンピオンにもなったパイロットだった。
繊維工場の工員だったテレシコワ。
超優秀なパイロットだったサビツカヤ。
世界初と二番めの間にはおよそ20年の隔たりがあった。
チャイカの日 秘密
1963年6月
ソ連のボストーク6号は
世界初の女性宇宙飛行士テレシコワを乗せて
宇宙へ向かった。
宇宙開発のミッションは極秘で進められていたので、
宇宙飛行士の候補に選ばれたことさえ
テレシコワは家族に打ち明けることができなかった。
打ち上げ当日も「パラシュートの競技会に参加する」と
家族に説明した。
テレシコワが無事に地球に帰還し
政府がそのニュースを全世界に発表したとき
テレシコワの母は娘の偉業を初めて知ったのだ。
山田耕筰 声楽科
「赤とんぼ」「ペチカ」などの童謡で知られる山田耕筰は
東京音楽大学の声楽科を卒業している。
本当は作曲の道へ進みたかったのに
その当時、学校には作曲を担当できる教官がおらず
しかたなしに声楽科を選んだらしい。
「声楽なんか好きじゃなかった」という本人の言葉も
伝えられている。
その山田耕筰が、日本の歌曲の先駆者となり、
600を超える声楽の曲を作曲したのだから不思議だ。
ちなみに1908年の卒業演奏で
山田耕筰はバリトンでシューベルトの「菩提樹」を
歌った。
関西学院大学
山田耕筰 校歌
駒澤大学、関西学院大学、武蔵野美術大学
これらの大学に共通するものがある。
それは、作詞北原白秋、作曲山田耕筰の校歌だ。
山田耕筰は小学校から大学まで、
全国の学校の校歌を数多く作曲した。
そのうちのおよそ100曲が北原白秋と組んだものだった。
関西学院大学では山田耕筰の直筆の楽譜を
いまも大切に保管している。
Akira
山田耕筰 からたちの花
北原白秋作詞、山田耕筰作曲「からたちの花」
山田耕筰は、これをもっともむづかしい曲の一つに数え、
その歌いかたを細かく指示しているほどだ。
「からたち」の「か」をやや抑えて漸弱(ぜんじゃく)し
「らたち」はむしろ軽く流すようにする。
叙事は淡々と、叙情は切実に。
からたちの花が咲いたよ
白い白い花が咲いたよ
山田耕筰の指示を読むと
この二行を歌うむづかしさがわかる。
DX Broadrec
山田耕筰 甲子園
夏の甲子園。
選手の入場のときに使われる行進曲は
山田耕筰が作曲している。
この曲ができた1935年、
山田耕筰は甲子園で150人の学生ブラスバンドを率いて
自ら指揮棒を振った。
当時の新聞記事によると
山田耕筰はこのとき、
握力が余って指揮棒を曲げてしまったそうだ。
49歳の力強い指揮だったのだろう。
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