厚焼玉子(事務局・中山佐知子)

厚焼玉子 18年6月9日放送

180609-05

山田耕筰 パブリックドメイン

山田耕筰といえば、「赤とんぼ」「ペチカ」などの童謡や
「からたちの花」に代表される歌曲がよく知られているが、
実は管弦楽曲も多く作曲している。

しかし残念ながら出版されていないものが多く、
自筆の楽譜は戦災で焼け、
筆写譜しか残されていないという状况では
出版も演奏もむづかしかった。

2015年、
山田耕筰の全作品は著作権の保護期間が満了した。
パブリックドメインの山田耕筰。
いまは日本人すべての知的財産として誰でも自由に
山田耕筰の作品を公開できる。

山田耕筰は1886年の今日、生まれた。

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厚焼玉子 18年4月28日放送

180428-01

アルハンブラ はじまり

711年4月28日
7000人のイスラム軍が海を渡って
イベリア半島に上陸し
アルハンブラの丘を占領した。

それから数年でイスラムの勢力はイベリア半島全域に及んだ。
イスラムは他の宗教に寛容だったため
土地のキリスト教徒も次第にイスラムの支配を受け入れ
後のスペイン文化の基礎を築くことになる。

イスラム建築の最高傑作といわれるアルハンブラ宮殿の土台は
こうして固まった。

イスラム軍の最初の上陸地点は指揮官の名前を取って
ジャバル・アッターリク「ターリクの丘」と名付けられ
のちにジブラルタルと呼ばれた。

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厚焼玉子 18年4月28日放送

180428-002

アルハンブラ 原型

スペインの古都グラナダの南東の丘に建つアルハンブラ宮殿は
もともと外敵を阻止するための砦からはじまる。

当時の首都はコルドバにあり、
イスラムの王のもとで
ヨーロッパでもっとも進んだ文化が花開いていた。
このイスラムの王国は宗教の自由を認め、
留学生を受け入れる一方で
外敵の侵入や農民の反乱に悩まされていたらしい。
砦は13世紀に拡張工事が行われ
兵士たちの住居のほか、
武器弾薬も収納する軍事要塞になった。
砦はアルカサーバと呼ばれた。

いまも残る砦の見張りの塔(ベラの塔)からは
グラナダの街が一望できる。

この砦がやがて
アルハンブラ宮殿と呼ばれる建築群に発展する。

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厚焼玉子 18年4月28日放送

180428-03
Tuxyso
アルハンブラ 建築

13世紀の後半、
キリスト教の勢力に追われたイスラム圏に残されたのは
グラナダを中心としたアンダルシア南部だけになっていた。
首都は当然グラナダで、
イスラムの王はこの土地をいつくしみ、
砦を広げ、水道を引き、庭園をつくり、宮殿を建てた。

皮肉なことに
アルハンブラが大きく拡張されたのは
イスラムの残照ともいうべきこの時期だったのだ。

1492年、グラナダは陥落し、
アルハンブラ宮殿はキリスト教徒の手に落ちる。

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厚焼玉子 18年4月28日放送

180428-04

アルハンブラ 水

アルハンブラ宮殿に水道が引かれたのは13世紀。
当時のイスラムの王ムハンマド一世とムハンマド二世の
二代にわたる大工事だった。

アルハンブラにはふんだんに水がある。
池、噴水、滝、水路。
ガイドの説明によると
これらの水はシエラネバダの雪解け水だそうだ。
シエラネバダはグラナダの南に連なる山脈で
標高3478メートル。
標高差を利用してサイホンの原理で水を運ぶ。

グラナダが陥落したとき
最後の王ムハンマド11世はシエラネバダに落ちのび
アルハンブラを振り返って惜別の涙を流したという。

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厚焼玉子 18年4月28日放送

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アルハンブラ 色

アルハンブラ宮殿の「アルハンブラ」は
アラビア語のアル・ハムラー「赤い城」が語源だという。
なぜ赤なのかについては諸説がある。
周辺の土が赤土だから。
宮殿はもともと赤い漆喰で覆われていたから。
そして、建築の際に
夜を徹してかがり火を焚いて工事をしたから
赤く見えたのだという説もある。

お天気のいい夕暮れ、
グラナダの展望台にはたくさんの観光客が訪れる。
そこで目にするのは夕日で赤く染まったアルハンブラだ。

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厚焼玉子 18年4月21日放送

180421-01

春の死 久松俊勝

久松佐渡守俊勝は徳川家康の母、於大(おだい)の
再婚相手だった。
結婚したとき、於大は19歳、俊勝は17歳だった。

30歳半ばで桶狭間の戦いがあり
それ以降は義理の息子である家康に与して戦国を生きた。

50歳のとき、義理の兄水野信元が信長に疑いをかけられ
家康によって殺害されてしまう事件があった。
このとき俊勝は大いに怒って引退してしまったというから
骨のある人物だったのだろう。
妻の於大は俊勝の死後、俊勝の菩提寺で髪をおろし
2年間その菩提を弔った。

久松佐渡守俊勝が亡くなったのは天正15年3月14日。
西暦になおすと1587年4月21日のことだった。

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厚焼玉子 18年4月21日放送

180421-02
ちいた
春の死 千利休

千利休の命日、利休忌は
表千家では3月27日、裏千家が3月28日に営まれるが、
実際に死んだ日の天正19年2月28日は
西暦になおすと1591年4月21日になる。

利休の死は謎に包まれている。
秀吉が利休に死を命じた原因は何か。
武士でない利休に、
なぜ武士の死にかたである切腹が命じられたのか。

利休が死んだ日、1591年の今日は
大雨が降り、風も強く、春の嵐が荒れていたそうだが、
利休の心は静かだったと思われる。

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厚焼玉子 18年4月21日放送

180421-03

春の死 浅野内匠頭

江戸の文化華やかなりし元禄14年の春、
江戸城松の廊下で刃傷事件が起こった。

被害者は吉良上野介吉央(よしひさ)
加害者は浅野内匠頭長矩(ながのり)
その日の午前11時40分、
加害者は被害者の後(うしろ)から切りつけ
額と背中に傷を負わせた。
これは江戸城で起こった4番めの刃傷事件だった。

午後6時10分ころ、内匠頭に切腹を告げる使者が来た。

この事件が起こったのは元禄14年3月14日。
西暦になおすと1701年4月21日である。

前日の雨と風で、桜は散っていただろうか。

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厚焼玉子 18年4月21日放送

180421-04

春の死 柳生十兵衛

柳生十兵衛三巌(みつよし)は
天才といわれた剣の使い手だった。
13歳で徳川家光の小姓として江戸城に勤めたが
一説によると、20歳のとき
剣術の稽古で家光を容赦なく打ち据えたために怒りを買い
謹慎を命じられた。

それから12年後、
32歳の十兵衛は書院番として再び江戸城に勤務するが
それまで何をしていたのか、
本人の言い分と記録に矛盾もあり、謎が多い。

慶安3年3月21日。
すでにお城勤めを退職して柳生に引退していた43歳の十兵衛は
鷹狩りに出かけた先で原因不明の死を遂げる。
検死をしても村人を尋問しても死因は明らかにならず、
死んだ場所も記録によって違う。

柳生藩二代目藩主 柳生十兵衛三巌は
そのとき本当に死んだのだろうか。

十兵衛の命日は慶安3年3月21日、
西暦になおすと1650年4月21日ということになっている。

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