蛭田瑞穂

蛭田瑞穂 13年3月23日放送



黒澤明と七人の侍⑤

映画「七人の侍」。
美術助手を務めた村木与四郎は黒澤明から
当時の家の生活感を完全に表現することを命じられた。

村木たち大道具係は古い家屋の資料を集め、
研究を重ねた結果、
「焼き板」という加工法を考案した。

板の表面を焼き、炭を鉄のブラシでこすって落とす。
そこに泥絵具を塗り、ワックスを書けたのちに
さらにタワシで磨く。こうして戦国時代の家そのままの、
古びた色合いと質感が生まれた。

ないものはつくるしかない。
そんな創造の魂が、黒澤映画の細部にまで宿っている。

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蛭田瑞穂 13年3月23日放送



黒澤明と七人の侍⑥

映画「七人の侍」。
そのクライマックス、侍たちと野武士との決闘シーン。

撮影がおこなわれたのは極寒の2月。
連日の降雪でオープンセットは一面雪に覆われていた。

雪をどけても地面のぬかるみは隠せない。
黒澤は大胆に発想を変えた。逆に大雨を降らせ、
決闘を雨中のシーンにしたのである。

雨と泥にまみれる戦場が予想外のアングルで映し出される
壮大なクライマックス。
映画史上屈指の名場面はそのようにして生まれた。

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蛭田瑞穂 13年3月23日放送



黒澤明と七人の侍⑦

映画「七人の侍」。
その台本をつくるために黒澤明は
脚本家の小国英雄、橋本忍とともに
熱海の旅館に籠った。

農民に雇われた侍たちが、団結して野武士と戦う
という筋書きはできたが、そこにはひとつ問題があった。
当時の厳しい身分制度では、農民と侍がひとつになる
などということはありえなかった。
台本づくりは暗礁に乗り上げ、
一行も進まない状態が丸三日続いた。

4日目の朝、小国英雄にアイデアが浮かんだ。
2つの身分の橋渡しをする役として、
農民でも侍でもない人間をつくればいいのではないか。

こうして、姿は侍だがじつは農民の出の、
菊千代というキャラクターができあがった。

映画では三船敏郎が演じた、あの破天荒な人物も、
苦悩の末に生まれたものである。

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蛭田瑞穂 13年2月17日放送



BAUHAUS 1限目「開校」

1919年、近代建築の巨匠ヴァルター・グロピウスが
ドイツに設立した、総合造形学校「バウハウス」。

「バウ」はドイツ語で「建築」を表す。
同じく建築を表す「Architektur」には
アカデミックなニュアンスがあるのに対し、
「バウ」にはより手工芸的な意味合いがある。

バウハウスの設立に際して
ヴァルター・グロピウスはこう宣言している。

 建築家、彫刻家、画家、我々は皆、
 手工業に立ち返らなければならない。
 芸術家は職人の延長上にあるのだ。

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蛭田瑞穂 13年2月17日放送



BAUHAUS 2限目「Futura」

ドイツの総合造形学校バウハウスの講師、
パウル・レナーがデザインした書体「Futura(フーツラ)」。

シンプルさとモダンさを兼ね備えたFuturaは
1927年に開発されると広く普及し、
現在でもルイ・ヴィトンを始めとする
多くのブランドのロゴで使用されている。

Futuraとは英語のFutureの意味。
名前の通り、そのモダンさは21世紀の今も褪せることがない。

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蛭田瑞穂 13年2月17日放送


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BAUHAUS 3限目「バルセロナチェア」

20世紀のデザインに多大な影響を与えた
ドイツの総合造形学校「バウハウス」の第3代校長
ミース・ファン・デル・ローエ。

ミースは世界的な建築家であると同時に、
優れた家具デザイナーとしても知られる。

1929年に開催されたバルセロナ万博で、
ドイツパビリオンの設計を任されたミースは、
館内にスペイン国王を迎えるための椅子を設置した。

当時では珍しいスチール製のフレーム。
真っ白な山羊革のクッション。
斬新なデザインの椅子だった。

ミースの椅子は万博の終了とともに取り壊されたが、
のちに市販品として復刻された。

現在では「バルセロナチェア」と呼ばれ、
モダンデザインの最高傑作と賞されている。

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蛭田瑞穂 13年2月17日放送



BAUHAUS 4限目「山脇巌」

1919年に設立されたドイツの総合造形学校
「バウハウス」には、日本からの留学生も学んだ。
建築家の山脇巌もそのひとりである。

1930年、妻の道子とともにドイツに渡った山脇は建築を専攻し、
世界的な建築家ミース・ファン・デル・ローエに学んだ。

帰国後、山脇は日本大学藝術学部の設立に尽力し、
多くの芸術家、クリエイターを育成する礎をつくった。

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蛭田瑞穂 13年2月17日放送


hugovk
BAUHAUS 5限目「ワシリー・チェア」

1919年にドイツに設立された総合造形学校「バウハウス」。

ハンガリー出身の家具デザイナー、マルセル・ブロイヤーは
1920年から4年間、バウハウスの家具工房に学び、
その後バウハウスの講師も務めた。

マルセル・ブロイヤーの代表作が1925年に製作した、
「ワシリー・チェア」と呼ばれるスチールパイプ製の椅子。
この「ワシリー・チェア」がパイプ椅子の原型といわれる。

簡単に持ち運べ、簡単に折りたためるパイプ椅子の登場は、
巨大なホールに人を集める国際会議やイベントの開催を容易にした。

椅子を単に座るための道具から、
人々のコミュニケーションを助ける道具にする。
デザインにはそのような力もある。

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蛭田瑞穂 13年2月17日放送



BAUHAUS 6限目「抽象画」

抽象画の始祖、ワシリー・カンディンスキー。

カンディンスキーは当初、風景画を描いていたが、
しだいに具象から離れ、単純化された形と色彩から構成される
抽象画に傾倒していった。

絵画とは、直接的に感情に訴えかける音楽のようなものでなければならない。
それがカンディンスキーの信念だった。

抽象画家としての地位を確立したのち、
カンディンスキーはドイツの総合造形学校バウハウスで教鞭を執り、
後進の育成に努めた。

バウハウスでのカンディンスキーの絵画クラスは
多くの学生を集める人気の講座だったという。

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蛭田瑞穂 13年2月17日放送


Marc Wathieu
BAUHAUS 7限目「芸術とは」

1919年にドイツに設立された総合造形学校「バウハウス」の講師に
モホリ・ナギというハンガリー出身の芸術家がいた。

写真やデザイン、彫刻など広範囲に渡って
先駆的な創作活動を行なうモホリ・ナギは、
バウハウスの教育理念を体現する人物だった。

芸術とは何の役に立つのか?
しばしば問われる疑問に対し、モホリ・ナギはこう述べている。

 芸術は感覚の研磨機であり、
 観察力や理性、そして感受性を強くする。

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