蛭田瑞穂

蛭田瑞穂 10年06月06日放送



ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ①

ビーチ・ボーイズのリーダー、ブライアン・ウィルソンと
ポール・マッカートニーにはいくつかの共通点がある。

才能あるメロディーメーカーであること。
ベースを担当していること。
そしてふたりとも1942年の6月に生まれていること。

互いに影響を与え合い、ロックの歴史を変えた
ブライアン・ウィルソンとポール・マッカートニー。

この一致は偶然か、それとも必然か。



ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ②

ビーチ・ボーイズのリーダー、ブライアン・ウィルソンは
初めてビートルズを見たときのことをよく覚えている。

それは1964年2月9日のことで、ビートルズはテレビ番組
「エド・サリバンショー」に出演していた。

ブライアンにとってビートルズのすべてが衝撃的だった。
音楽性もステージ衣装もファンの熱狂も。

このときの衝撃がブライアンとビーチ・ボーイズの音楽性を
大きく変えることになる。

それはカリフォルニアの陽気なポップスグループが
音楽史に名を残す偉大なロックバンドに変わった瞬間だった。



ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ③

1966年の初め、ビーチ・ボーイズのリーダー、
ブライアン・ウィルソンのもとに友人が訪ねてきた。

「このアルバムを聴いた感想を聴かせて欲しい」。
それはビートルズのニューアルバム『ラバー・ソウル』だった。

そのときのことをブライアンはこう振り返る。


 感想を言うのは簡単だった。
 ただただ感激した!

『ラバー・ソウル』を聴いた彼は
ビーチ・ボーイズの最高傑作をつくることを決意し、
すぐに制作に取りかかる。

そして1966年5月、ニューアルバムをリリースする。

ロック史に燦然と輝くアルバム、
『ペット・サウンズ』の誕生である。



ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ④

ビーチ・ボーイズの最高傑作『ペット・サウンズ』は
リーダーのブライアン・ウィルソンが、
ほとんどひとりでつくりあげたアルバム。

彼は言う。


 僕はそのアルバムに魂を注いだ。
 心の痛み、喜び、葛藤、悲しみ、愛を。
 その音楽は僕のすべて、生身の僕自身だった。

ブライアン・ウィルソンという人間のすべてが
むき出しで表れる『ペット・サウンズ』。
その音色は透き通るほどに無垢で美しい。



ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ⑤

1966年、ビーチ・ボーイズが発表したアルバム『ペット・サウンズ』。
その中に収録された「God Only Knows」というラブソング。

この曲にはポピュラーミュージック史上初めて、
「God」という言葉が使われたと言われている。

作曲をしたブライアン・ウィルソンは最初、
その言葉を使うのをためらった。

「神」という単語が入っている曲を、
ラジオ局が流さないのではないかと。

しかし、歌詞を書いたトニー・アッシャーは、
「アートとは妥協するものではない」と断固として譲らなかった。

のちにロックの名曲と呼ばれ、ポール・マッカートニーが
「実に偉大な曲」と賛辞を贈った「God Only Knows」。

もし、この曲に「God」という言葉が使われなかったとしても、
やはり同じような評価を受けただろうか?

それは、神のみぞ知る。



ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ⑥

ビーチ・ボーイズのアルバム『ペット・サウンズ』。

作曲を手がけたブライアン・ウィルソンは
作詞をトニー・アッシャーというコピーライターに依頼した。

彼だったら自分の感じていることを
的確に歌詞に表現してくれると思ったのだ。

承諾したトニー・アッシャーはアルバムの制作に参加する。
ただし、当時彼は広告会社の社員。
会社には3週間の休暇届けを提出した。



ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ⑦

1966年、ビーチ・ボーイズが発表したアルバム『ペット・サウンズ』。
作曲を手がけたブライアン・ウィルソンはアルバムの中で
「テルミン」という電子楽器を取り入れた。

それだけではない。
彼はなんと自転車のベルの音まで楽器代わりに使ってみせた。

天才の創造性。
それはあらゆるものの可能性を簡単に広げてしまう。



ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ⑧

1966年、ビーチ・ボーイズが発表したアルバム『ペット・サウンズ』は、
リーダーのブライアン・ウィルソンがほとんどひとりでつくりあげた作品。

レコード会社はそれまでのビーチ・ボーイズとは
イメージが違いすぎるという理由で「失敗作」と評価した。

しかし2003年、ローリングストーン誌は
史上もっとも偉大なアルバムの第2位に『ペット・サウンズ』を選ぶ。

ブライアン・ウィルソン。
彼は早すぎる天才、だったのかもしれない。

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蛭田瑞穂 10年05月02日放送



知られざる発明家たち①「ナイロン」

合成繊維「ナイロン」を発明したのは、
ウォーレス・カロザースという研究者。

しかし、1939年にナイロンが発表された時、
彼はもう、この世にいなかった。

「ナイロン」という名前の由来は“no run”。
「伝線しない」という意味。

ほかの候補に“ワカラ(Wacara)”という
変わった名前があった。

“a tribute to Wallace Carothers”を略して「ワカラ」。
「ウォーレス・カロザースに捧ぐ」
という意味が込められていた。



知られざる発明家たち②「合成ゴム」

1844年、アメリカ人の発明家、
チャールズ・グッドイヤーは合成ゴムを考案した。

しかし、彼の人生にとって、それは早すぎる発明だった。

合成ゴムの特徴は強い耐久性。
だが当時の社会にはその特徴を活かす製品がなかった。

1860年、グッドイヤーは多額の負債を抱えたままこの世を去る。

合成ゴムが本当に必要になるのはそれから数十年後。
自動車が発明されてから。

現在、世界有数のタイヤメーカーに
「GOODYEAR」という名前の会社がある。
しかし、それはチャールズ・グッドイヤーが
つくった会社ではない。

彼の功績を讃え、グッドイヤーの名を社名につけたのだ。



知られざる発明家たち③「ポスト・イット」

1969年、アメリカの化学メーカーに勤める技術者、
スペンサー・シルバーが接着剤の開発をしていると
粘着力は強いのに、すぐに剥がせてしまう
変わった性質の接着剤ができあがった。

完全な失敗作だったが、
不思議な可能性を感じたシルバーは、
サンプルをつくって社内に見せて回った。

そのサンプルを見た者の中に、
アート・フライという技術者がいた。

5年後のある日曜日。
フライが教会で賛美歌を歌っていると、
歌集に挟んであったしおりが床に落ちた。

その瞬間、フライの頭に浮かんだのが
シルバーのつくった接着剤。


 あの接着剤を使えば、落ちないしおりがつくれるはずだ。

こうしてできあがったのが「ポスト・イット」。
今やどのオフィスでも見かける世界的ヒット商品。

「失敗は成功のもと」というけれど、全くその通り。



知られざる発明家たち④「万年筆」

現在の万年筆の原型をつくったのは、
ルイス・エドソン・ウォーターマンというアメリカ人。

保険の外交員をしていた彼は、
ある時、ペンから漏れ出したインクで、
契約書を汚してしまう。

大口の契約を取り逃がした彼は、
これをきっかけにインクの漏れない
万年筆の開発に乗り出す。

そして1883年に毛細管現象を応用した
ペン芯を考案する。

「必要は発明の母」とは、こういうこと。



知られざる発明家たち⑤「ゼムクリップ」

第2次世界大戦中、ドイツ占領下のノルウェーでは
服に付けられたゼムクリップが
国民団結のシンボルだった。

なぜゼムクリップなのか。

それは、ノルウェー人ヨハン・バーラーが
ゼムクリップを考案したことに由来する。

ところが。

誰がゼムクリップを発明したのか、
実ははっきりしない。
古代ローマの時代にすでに存在していたという話もある。

しかし、それはそれ。

ノルウェーの人々にとって、
ヨハン・バーラーは特別な存在。
戦後、彼の功績を讃え、首都オスロの郊外に
巨大なゼムクリップのオブジェがつくられた。



知られざる発明家たち⑥「カッターナイフ」

戦後間もない大阪。

印刷会社の社員田岡良男は
いつものようにカミソリの刃で
紙を裁断していた。

しかし、カミソリの刃はすぐにボロボロになる。
ボロボロになった刃は捨てるしかない。

この無駄をどうにかできないか。

その時、田岡の頭に、
進駐軍の兵士からもらった板チョコが浮かんだ。


 駄目になった刃を、板チョコのように折って使えばいい。

こうして世界で初めて、
刃を折って使う仕組みのカッターナイフが生まれた。



知られざる発明家たち⑦「消しゴム」

1770年、イギリス人のジョゼフ・プリーストリーが、
ゴムに鉛筆の字を消す性質があることを発見した。

これが消しゴムの始まりといわれている。

消しゴムが可能にしたのは、
単に字を消すことだけではない。

人の誤りを訂正し、
書きなおせることも可能にしたのだ。

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蛭田瑞穂 10年04月11日放送

1 ヌーヴェル・ヴァーグの作家たち

ヌーヴェル・ヴァーグの作家たち①

ゴダール、
トリュフォー、
エリック・ロメール。

ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちは、
もともとは映画の批評家だった。

伝統的な映画づくりを否定し、
今までにない映画の在り方を主張した。

そうして実際、そのとおりに映画を撮ったのだ。

「有言実行」とは、つまりこういうこと。

2 ヌーヴェル・ヴァーグの作家たち

ヌーヴェル・ヴァーグの作家たち②

フランスの映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」。
その初代編集長、アンドレ・バザン。

彼はその雑誌に、
映画への情熱にあふれる若者たちを集め、
自由に批評を書く場を与えた。

のちに、その若者たちの中から、
ゴダールやトリュフォーといった
映画の歴史を変える監督があらわれる。

アンドレ・バザン。
彼こそが「ヌーヴェル・ヴァーグの父」である。

3 ヌーヴェル・ヴァーグの作家たち

ヌーヴェル・ヴァーグの作家たち③

1954年、フランスの映画批評誌
「カイエ・デュ・シネマ」に、
1本の評論が掲載された。

題名は「フランス映画のある種の傾向」。
執筆したのは21歳の若者、
フランソワ・トリュフォー。

評論の中でトリュフォーは伝統的な映画手法を否定し、
監督の作家性を押し出す「作家主義の映画」を主張した。

これがフランス映画界に波紋を起こす。
波紋はやがて大きな波へと変わり、
世界の映画人を飲み込むことになる。

「ヌーヴェル・ヴァーグ」。
日本語で「新しい波」を意味する
映画運動はこうして始まった。

4 ヌーヴェル・ヴァーグの作家たち

ヌーヴェル・ヴァーグの作家たち④

処女作にはその作家のすべてがある。

映画監督フランソワ・トリュフォーの処女長編は
家族愛に恵まれない不幸な少年の物語。

両親に見捨てられ、孤独な少年時代を過ごした
トリュフォーの自伝的作品といわれる。

タイトルは“LES QUATRE CENTS COUPS”

邦題は、「大人は判ってくれない」。

5 ヌーヴェル・ヴァーグの作家たち

ヌーヴェル・ヴァーグの作家たち⑤

ジャン=リュック・ゴダールの
長編デビュー作「勝手にしやがれ」。
ゴダールはこの作品で、
さまざまな新しい試みをした。

脚本のない即興演出。
手持ちカメラによる大胆な街頭ロケ。
「ジャンプカット」と呼ばれる革新的な編集技法。
そして映画史に残る衝撃のラストシーン。

批評家アレクサンドル・アストリュックはこう語る。

 それは爆弾のように炸裂した。
 たった1本の映画で、
 ゴダールは「明日の映画」を発明したのである。

「勝手にしやがれ」の封切りから今年でちょうど50年。
未だ古びて見えないのは、
フィルムに「明日」が映っているから。

6 ヌーヴェル・ヴァーグの作家たち

ヌーヴェル・ヴァーグの作家たち⑥

映画監督エリック・ロメールの
デビュー作「獅子座」。

その内容はというと。

事件はほとんど起こらない。
物語は淡々と進む。

興行的にも振るわなかった。

でも、それが彼のやり方。
ありきたりの手法を否定することで、
既存の映画に反抗した。

「獅子座」。
それはロメールが起こした、静かな革命だった。

7 ヌーヴェル・ヴァーグの作家たち

ヌーヴェル・ヴァーグの作家たち⑦

今年1月、
89歳で亡くなった映画監督
エリック・ロメール。

彼の映画はタイトルだけで
瑞々しい映像が浮かんでくるようだ。

「海辺のポーリーヌ」
「緑の光線」
「春のソナタ」
「夏物語」

ロメールが天国で、次の映画を撮るとしたら、
どんなタイトルになるのだろう。

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蛭田瑞穂 10年03月21日放送



サン・ジェルマン・デ・プレの人々

第二次世界大戦直後の
パリ、サン・ジェルマン・デ・プレ。

サルトル、ボーヴォワール、カミュ、
コクトー、ボリス・ヴィアンといった人たちが
夜な夜な狂騒を繰り広げた。

輝くような才能が
同じ時代の、同じ場所に集まったことを、
わたしたちは「奇跡」という言葉以外に
表現することができない。





ボリス・ヴィアン  日々の泡①

ボリス・ヴィアンはつかみどころのない男。
小説も書けば、トランペットも吹く。
歌も歌うし、俳優もこなす。
劇作家、ジャズ評論、エンジニア、
挙げればきりがない。

つかみどころのなさは彼の作品にもあてはまる。

「最も悲痛な恋愛小説」と評される、
代表作『日々の泡』。このタイトルは原題の
「L’Ecume des Jours」を訳したもの。

しかし、この「L’Ecume des Jours」という言葉、
読みようによってはこんな意味にも受け取れるという。

奇妙で不自然なつくり話

ボリス・ヴィアンという男、やはりつかみどころがない。



レーモン・クノー  ドゥ・マゴ賞

フランスの文学賞「ドゥ・マゴ賞」は
若者たちの反抗心から生まれた。

1933年、作家レーモン・クノーは
小説『はまむぎ』を発表する。
のちのヌーヴォー・ロマンの先がけとなる
前衛的な作品であったが、
フランスの文壇からは黙殺された。

クノーの友人たちはこれに憤り、
フランスでもっとも権威のある
「ゴングール賞」の発表と同じ日に
クノーただひとりに与える文学賞を新設した。
賞の名前は、そのとき集まったカフェの名前から。
1300フランの賞金は、
13人の友人たちがひとり100フランずつ
ポケットマネーを出し合った。

こうして設立された「ドゥ・マゴ賞」は
その後数々の若い才能を発掘し、
現在ではゴングール賞と並んで、
フランス文学の最高峰と讃えられている。

若者たちよ、反抗しよう。何かを創り出すために。



ボリス・ヴィアン  日々の泡②

最愛の恋人と結婚したばかりの少女。
その少女の肺に、ある日睡蓮の蕾が宿る。
その蕾が膨らみ、花を開かせるにつれて、
少女に死期が近づいてくる。

ボリス・ヴィアンは小説『日々の泡』で、
ヒロインにこんな悲しい運命を背負わせている。

彼は言う。


 人生で大事なのはたった2つしかない。
 ひとつはかわいい少女との恋愛。
 もうひとつはデューク・エリントンの音楽。

彼が描く愛は、儚く、そして美しい。



ジャン・ポール・サルトル  カフェ・フロール

時は1942年。
サン・ジェルマン・デ・プレのカフェ
「フロール」で黙々と原稿を書き続ける男。

その男こそが20世紀を代表する哲学者、
ジャン・ポール・サルトル。

そんな彼も、しかし、
店にとっては必ずしも上客ではなかったようだ。

1杯のコーヒーで閉店まで粘る。
分厚い資料を広げてテーブルを占拠する。
彼あての電話が店に頻繁にかかってくる。

サルトルは振り返る。


 店の主人はいつもぼやいていたよ。
 「できるだけまずい物を出すようにしているのに、
 それでも毎日やってくる」ってね。

『存在と無』。
世界中に実存主義ブームを巻き起こしたその哲学書が
カフェのテーブルで書かれたのならば、
わたしたちは今、店の主人に感謝しなければならない。



レーモン・クノー  地下鉄のザジ

『地下鉄のザジ』は1960年に制作された
ルイ・マル監督によるコメディ映画。

作家レーモン・クノーが書いた原作小説も
映画に劣らずユニークだった。とくにその文体が。

当時のフランスでは、
正統な文語体で書くのが正しい小説。
しかしクノーは文法に縛られない口語体で
自由に小説を書いた。

「実写化不可能」というキャッチフレーズは、
ハリウッド映画に限ったものではない。

『地下鉄のザジ』の文体を映像化するのも、
ある意味では不可能である。



サルトルとボーヴォワール  契約結婚

ジャン・ポール・サルトルと
シモーヌ・ド・ボーヴォワールは
ソルボンヌ大学を卒業後、
2年間という期限付きの結婚をする。

哲学に一生を捧げたふたりは、
男女関係の在り方についても考え続けた。

そのふたりは今、モンパルナスの墓でともに眠る。
もちろん、期限はなしで。

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蛭田瑞穂 10年01月31日放送



武田百合子 1

武田百合子を語る時、まずその職業から、と思うのだが、
困ったことに彼女は肩書を極端に嫌う人だった。

夫、武田泰淳の死後、富士山麓での生活を綴った
『富士日記』を発表し、鮮やかに文壇デビューした後も、
「文筆家」と名乗るのを拒んだ。

ある原稿の肩書が「故武田泰淳夫人」となっていた。
それでは困ると編集者が言うと、彼女は笑って答えた。


 じゃあ主婦にしてください

さて、武田百合子を何から語りはじめよう。



武田百合子 2

武田百合子夫妻が富士山麓に山荘を構えたとき、
夫泰淳は、百合子に日記を書くよう勧めた。

彼女は首を横に振って、それを渋った。
しかし泰淳はなおも説得を重ねた。


 どんな風につけてもいい。
 何も書くことがなかったら、
 その日に買ったものと天気だけでもいい。
 日記の中で反省はしなくてもいい。
 反省の似合わない女なんだから。

後年、武田百合子の名を世に知らしめた『富士日記』は
夫の説得の末に生まれた作品である。



武田百合子 3

戦後間もない東京、神田に
「ランボオ」という名の喫茶店があった。
作家武田泰淳はその店の常連客だった。

泰淳は店の女に恋をしていた。
しかし、その恋の進展ははかばかしくなかった。
女は美人で、まわりにはいつも彼女目当ての客がいた。

あるとき泰淳は、女にチョコレートパフェをおごった。
女はうれしそうにそれを食べた。
アメリカ製のチョコレートパフェは当時高級品だった。

それ以来、泰淳は店に来ると
女にチョコレートパフェをおごるようになった。

好きなものを食べさせて、
自分は黙って、はずかしそうに焼酎を飲んでいる。
そんな泰淳を女はいつしか好きになった。

女の名は、鈴木百合子。
のちに武田泰淳と結婚し、武田百合子となるその人である。

もし、チョコレートパフェがなかったら、
武田百合子という稀代の文章家は
生まれていなかったかもしれない。



武田百合子 4

「美しい」という言葉を簡単に使わない。
武田百合子はそう決めていた。

 景色が美しいと思ったら、どういう風かくわしく書く。
 心がどういう風かくわしく書く。
 「美しい」という言葉がキライなのではない。
 やたらと口走るのは何だか恥ずかしいからだ。

美しい文章を書こうと思ったら、
美しいものを美しいと書いてはいけない。

勉強になります。



武田百合子 5

戦後間もない頃、「ランボオ」という喫茶店で
武田百合子は働いていた。
作家たちの溜まり場として繁盛していた店の常連客に、
のちに百合子の夫となる武田泰淳がいた。

痩せて元気がなく、女に話しかけるのが下手な人、
というのが百合子の印象だった。

泰淳からの求婚を受けたときも、
それをありがたく思う気持ちはなかった。
戦争で焼け野原になって、
ずっと酒を飲んでいる百合子に、
先のことは何も考えられなかった。

しかし、ともかく、ふたりは結婚する。
以後泰淳の死まで結婚は25年間続くことになる。

結婚することを、俗にゴールインと呼ぶ。
だが百合子と泰淳、ふたりにとってそれは、
ゴールではなく、スタートだった。



武田百合子 6

武田百合子は戦争を経験している。
空襲で家が焼け、親類を渡り歩いた。
裕福だった少女時代から一転、生活は貧窮の底に落ちた。


 七月三十日(金) くもりのち晴れ、風涼し
 朝起きぬけに、花畑のまんなかで
 髪の毛をとかしているといい気持だ。
 朝 麦飯、じゃがいもベーコン炒め、さばみりん干し、のり
 夕食 麦飯豚ロース

『富士日記』に繰り返し綴られる、平凡な日々。
しかし、平凡な日々の中にこそ、幸せがある。



武田百合子 7

武田百合子の『富士日記』は、
富士山麓に山荘を建てた昭和39年に始まり、
夫武田泰淳が他界した昭和51年に終わる。

13年の間に、溜まった日記帳はじつに12冊。
「長い間よくあきずに書きましたね」
百合子はよくそう言われた。
その度に彼女は胸の内でつぶやくのだった。


 私だってキョトンとしているのだ。
 よくまあ、この私が書き続けたものだ。

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2010年 蛭田瑞穂くん参戦

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蛭田瑞穂くん、参戦です。
よろしくお願いいたします。

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