Drew de F Fawkes
リンキン・パークの話(リンキンの音)
移民の国、アメリカで生まれたロックバンド、リンキン・パーク。
彼らの音は、ラウドロックやヒップホップなど、様々なルーツをもつ。
だからだろう。生み出したアルバムには、そのつど異なる人格が宿った。
賛否両論こそ繰り返されたが、結局、世界はリンキンの音を無視できなかった。
これは「good goodbye」の一節。
暗闇に サヨナラを言わせてくれ
そして奴らに伝えてほしい
俺はむしろ星が瞬く この場所にいる
Drew de F Fawkes
リンキン・パークの話(リンキンの音)
移民の国、アメリカで生まれたロックバンド、リンキン・パーク。
彼らの音は、ラウドロックやヒップホップなど、様々なルーツをもつ。
だからだろう。生み出したアルバムには、そのつど異なる人格が宿った。
賛否両論こそ繰り返されたが、結局、世界はリンキンの音を無視できなかった。
これは「good goodbye」の一節。
暗闇に サヨナラを言わせてくれ
そして奴らに伝えてほしい
俺はむしろ星が瞬く この場所にいる
リンキン・パークの話(ピザ屋の写真)
リンキン・パークのボーカル、チェスターが自殺して半年。
メンバーのマイクは、チェスターが加入した日のことを、SNS上で語った。
97年か98年…
僕らはUCLAの近くのピザ屋に行って、
次に何をするのかを話し合ったんだ。
その当時バンド名はXeroで、曲も6曲くらいしかなかったと思う。
チェスターも、炎のタトゥを入れてなかったし、赤毛でもなかった。
投稿には、そのときピザ屋で撮った写真がそえられていた。
リンキン・パークという名前さえ持っていない頃、
いちばん隅ではにかむチェスターがいた。
リンキン・パークの話(復興ライブ)
2011年、8月31日。
リンキンパークは、シークレットライブを開いた。
参加条件は、東日本大震災への寄付金を500ドル以上集めること。
ボーカルのチェスターは、こう語った。
せわしない日常を送っていたり、異なる境遇にいる人たちは、
どうしても被災者の存在を忘れてしまう。
でも、自然災害は立ち直るのに長い時間がかかるわけで、
抱いた想いを風化させないために今回の企画を考えた。
日本のために、多くの人に呼びかけてくれたチェスターの死から、およそ半年。
彼の歌声は、この冷えきった世界で、今日も誰かを温めている。
リンキン・パークの話(死者のミュージックビデオ)
リンキン・パークの曲「not alone」。
そのミュージックビデオには、たくさんの死体が登場する。
すべて本物。2010年に起きたハイチ地震の惨状を
ありのままに伝えようと作られたからだ。
彼らは歌う。
あなたは進む 過去を手放し 故郷を捨てて
ゆけ 見ている人はいる あなたはひとりじゃない
情報は風化する。
けれど、彼らの曲が生きている限り、
あの日の真実が忘れ去られることはない。
Gansb
リンキン・パークの話(悪夢)
オマエが 俺のことを 所有物のように扱おうとも
オマエが俺とともに 戦ってくれていた頃を思うと
よくここまで こじれたもんだと驚くよ
リンキン・パークのボーカル、チェスターは、
7歳から13歳まで、年上の友達から性的虐待を受けていた。
その悪夢は大人になってもつきまとい、
チェスターはドラッグに溺れることになる。
必死にここまで頑張ってきた
でも最後には そんなことどうでも良いんだ
全てを失うには落ちるしかなかった
チェスターの自殺から半年。
悪夢と決別するために書いたとみられる「In The End」は、
Youtubeで4億7千万回以上も再生されている。
うれしそうですよね、伊藤健一郎くん。
伊藤くんは門田組です。
東海テレビの仕事でTCC新人賞を受賞しました。
なにしろ新人賞は一度しかもらえませんから、
うれしそうな顔も無理ないですが。
伊藤くんの作品はこちらからご覧いただけます。
https://youtu.be/RIgpykD-hrg
そして、同じ門田組の渋谷三紀さんは今年のTCC年鑑の編集員でした。
みなさん、がんばってますね (玉子)
臨終の話 チャールズ・チャップリン
チャールズ・チャップリン。
世の中を鋭く風刺しつつも
決してユーモアを忘れない彼は、
喜劇王と称された。
そんなチャップリンは1977年、クリスマスの朝に息を引きとった。
老衰による静かな死だった。
彼の訃報が日本に届いた、25日の夕刻。
東京有楽町のニュー東宝シネマ1では、
チャップリンの伝記映画「放浪紳士チャーリー」が上映中だった。
ラストシーンの途中、その死が場内マイクで伝えられると、
客席は一瞬静まり、やがて彼を称える万雷の拍手が起こった。
チャップリンらしい、見事な幕引きだった。
臨終の話 トーマス・エジソン
発明王、トーマス・エジソン。
彼は、1929年10月。白熱電灯発明50周年の祝典で、
フーバー大統領をはじめとする、多くの来賓から賛辞をおくられた。
けれど、エジソンは、彼らと満足に会話をすることができず、
短い感謝を述べると崩れるように椅子にすわった。
胃がんと糖尿病、さらに腎炎と高血圧を患い、ギリギリの状態だったのだ。
1931年10月18日、いよいよそのときが近づくと、
エジソンは昏睡状態から目を覚まし、妻のミーナにこう言った。
「いいお天気だね」まだ夜があけない暗い時間だった。
ミーナがエジソンに「苦しいですか」とたずねると、
彼は一言「いや、待っているだけだ」とこたえ、
ほどなくして、息を引きとった。
臨終の話 フランツ・カフカ
フランツ・カフカは、
労働局災害保険局で働きながら、小説を書いたという。
まじめで、自分にきびしいカフカは、
過労で体を壊すほど仕事にのめりこんだ。
彼は、34歳で、結核を発症する。
そして、壮絶な闘病生活をおくる中、41歳で生涯を終えた。
カフカの死後に発見された友人への手紙には、こう記されている。
「最後の願いだ。僕の遺稿のぜんぶ、日記、原稿、手紙のたぐいは、
ひとつ残らず、なかみを読まずに焼き捨ててくれたまえ」
カフカの死顔は、彼の精神があらわれたように、
きつく、きびしく、近寄りがたかったという。
臨終の話 魯迅
中国近代文学の父、魯迅。
彼はあるとき、自叙伝を書くことをすすめられると、こう答えた。
私の生涯には、とりたてるようなことは何もない。
私の伝記程度なら、中国では四億も集まり、図書館を満たすことだろう。
伝記として残ることを拒んだ魯迅だが、遺書をしたためたことはある。
そこには、こう記されている。
キリスト教徒は、臨終ですべてを許すそうだが、私には敵が多い。
恨むなら恨め。こちらも誰ひとり許しはせぬ。
一刻者だった魯迅の葬儀には、六千人の学生や労働者が参集したという。
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