門田陽

高田麦 12年11月24日放送


tigoespark
つづける人 旭天鵬

今年の大相撲夏場所。

史上最年長初優勝を飾った、
モンゴル出身の力士、旭天鵬。

今年、大島親方の定年退職により、
部屋が消滅。
5人の弟弟子とともに
友綱部屋に移籍したばかりだった。

優勝インタビューで、
この年齢でなぜ優勝できたのか、
と問われると、彼はこう答えた。

「新しい部屋には、若い力士たちがいて、稽古がよくできた。」

その言葉の裏には、
大変な努力があったのだろう。
でも、彼のこの飾りのない言葉には、
長く続けてこられたことに対する、
周りの人たちへの感謝の気持ちが現れている。

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高田麦 12年11月24日放送


Andy Heather
つづける人 小津安二郎

豆腐屋は豆腐しかつくれない。

映画監督・小津安二郎の言葉である。

いつも同じ作風の古くさいものしかつくれない、
という批判に対しての答えである。

戦後は、大きく変貌していく日本社会を投影するような
ダイナミズムにあふれた映画が多かった。
その中で小津は小市民の淡々とした日常を描き続けた。

日常というモチーフは、目立たない。
でも、それを追い求めると、個性になった。

小津の作品は、いまでも新鮮な魅力を放ち続けている。

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岡安徹 12年11月24日放送


Globovisión
ゴールを続ける人 リオネル・メッシ

世界最高のサッカー選手の一人、
リオネル・メッシ。

スペインのプロリーグ、リーガエスパニョーラ
でプレーするメッシは、今年これまでの
どのシーズンよりもゴールを決めてきた。

歴史が動いたのは、2012年11月11日。
今年76点目となるゴールを決め、サッカーの神様
ペレの持っていたリーガエスパニューラの
年間得点記録75点を抜いたのだ。

他の多くの選手で言えば7~8年分の得点を
1シーズンで獲得したことになる偉大な記録。

サッカーの神様をも鮮やかに抜き去り、
ゴールを続けて行くメッシ。

私たちは、歴史に残る選手の現役のプレーを
目の当たりにしている。

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岡安徹 12年11月24日放送



建築を続ける人たち サグラダ・ファミリア

サグラダ・ファミリア。
スペイン、バルセロナにあり、1882年の着工以来、
100年以上に渡り建造が続けられている教会堂である。
完成までに長い月日を要しているのには、理由がある。

建築家アントニオ・ガウディは、設計にあたって
いわゆる設計図をあまり描かなかった。
「美しい形は構造的に安定している。構造は自然から学ばなければならない」
と、自然の中に最高の形があると信じていたガウディは、
数学や方程式を使わず、力学的な実験に基づいた
模型の作成を重要視し、それに従って壮麗かつ丈夫な建造物を
生み出していったのだ。

予想外だったのは、スペイン内乱で当時の模型や資料が消失してしまったこと。
その後は、時代ごとの職人が伝承や大まかな外観のデッサン等を元に、
ガウディの設計構想を推測するといった形で建設が進められている。

いつまでも続く、職人たちの創意工夫。
もはや、それもサグラダ・ファミリアの魅力の一部になっている。

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岡安徹 12年9月29日放送



乗り越えてゆく男/ウィンストン・チャーチル

その男、学校の成績は後ろから3番目。
1番目と2番目が病気等の理由で退学した後は、
実質ビリ。

そんな落ちこぼれが、やがて英国首相となり、
人々を牽引するなど誰が予想できただろう。
男の名は、ウィンストン・チャーチル。

チャーチルは、後にこんな言葉を残す

「あまり先を読みすぎるのは誤りである。
運命の鎖の輪は一つずつ扱われねばならない」

今が、自分の思い通りにならなくても、
いつか、望みが叶うように生きていけばいい。

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岡安徹 12年9月29日放送



乗り越えてゆく男 ② / ウィンストン・チャーチル

学生時代、成績の振るわなかったチャーチル。
同級生がラテン語やギリシャ語を習得しエリートの道を行く一方、
彼に外国語は難しすぎると、
母国語の英語のみを徹底的に学ぶようすすめられたという。

しかし、この劣等生としての処遇が、後に功を奏した。

社会に出て、実務において英語を操る必要性が高まるにつれ、
かつての優等生にひけをとらない筆力で、人の心に語りかけられるようになれたのだ。

チャーチルは言う

「未来のことはわからない。
しかし、我々が生きてきた過去が未来を照らしてくれるはずだ」

すべての出来事に意味がある。心に力が欲しいとき、そう思ってみませんか。

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岡安徹 12年9月29日放送



乗り越えてゆく男/ウィンストン・チャーチル

その男、学校の成績は後ろから3番目。
1番目と2番目が病気等の理由で退学した後は、
実質ビリ。

そんな落ちこぼれが、やがて英国首相となり、
人々を牽引するなど誰が予想できただろう。
男の名は、ウィンストン・チャーチル。

チャーチルは、後にこんな言葉を残す

「あまり先を読みすぎるのは誤りである。
運命の鎖の輪は一つずつ扱われねばならない」

今が、自分の思い通りにならなくても、
いつか、望みが叶うように生きていけばいい。岡安徹 12年9月29日放送

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宮田知明 12年9月29日放送



乗り越える人/松井裕樹

今年の、夏の甲子園を沸かせた、
桐光学園の2年生エース、松井裕樹。

準々決勝までの4試合で積み上げた、
68個の奪三振は、板東英二・齋藤佑樹に次ぐ、
歴代3位。

準々決勝、猛打の青森・光星学園から、
毎回そして全員からの、計15奪三振。
しかし、惜しくも敗戦。

準々決勝で敗れた後のインタビューで、
泣き崩れながらも「来年は甲子園で優勝します」と誓った。
甲子園の土は持ち帰らなかった。

来年の夏の甲子園まで、まだあと10カ月。
彼が乗り越え、そして優勝を手にするのを
待ち遠しい人は、きっと多い。

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宮田知明 12年9月29日放送



乗り越える人/松井裕樹

今年の、夏の甲子園を沸かせた、
桐光学園の2年生エース、松井裕樹。

準々決勝までの4試合で積み上げた、
68個の奪三振は、板東英二・齋藤佑樹に次ぐ、
歴代3位。

準々決勝、猛打の青森・光星学園から、
毎回そして全員からの、計15奪三振。
しかし、惜しくも敗戦。

準々決勝で敗れた後のインタビューで、
泣き崩れながらも「来年は甲子園で優勝します」と誓った。
甲子園の土は持ち帰らなかった。

来年の夏の甲子園まで、まだあと10カ月。
彼が乗り越え、そして優勝を手にするのを
待ち遠しい人は、きっと多い。

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宮田知明 12年7月22日放送



草野マサムネとザ・ブルーハーツ

スピッツのボーカリスト、草野マサムネは、
大学入学当初、「チーターズ」というバンドを組んでいた。

もともと、そんなに
上昇志向があるわけではなかったが、
たくさんのバンドを見るうちに、
当時のバンドマンたちのあこがれだった「新宿ロフト」の
ステージに立ちたい、と思うようになっていった。

そんな矢先、草野は、ある曲と出会う。
ザ・ブルーハーツの、「人にやさしく」

「こんなバンドがやりたい」という、
草野の理想が、そこにあった。
このままでは、ブルーハーツの後追いになってしまう。
そう思うと、やる気がどんどんしぼんでいき、
結果、チーターズは自然消滅。

でも、その約1年後、草野の出した答えは、
「もう一回、バンドをやろう。
しかも、今度は新宿ロフトをめざせるようなバンドを。」

バンド名は、「スピッツ」。
草野が、高校時代から、バンドをやるならこれがいい、
と思っていた名前だった。


rockheim
草野マサムネとアコースティックギター

「ブルーハーツみたいな音楽をやっていても、
 この先、未来はないんじゃない?」

スピッツのインディーズ時代、
渋谷のライブハウス、「ラ・ママ」でライブを行った後、
草野が店長から言われた言葉。

真似をしているつもりはなかった。
でも、確かにブルーハーツの影響は受けていた。

このときから、草野はエレキギターを手放し、
アコースティックギターを持ってライブに出るようになった。
楽曲も、ビート系から、メロディアスな方向に変わった。

「スピッツらしさ」の原型が、できあがった。
そのきっかけは、ライブハウスの店長の、
ふとした一言。



草野マサムネと新宿ロフト

スピッツの、当初の目標。
それは、当時のバンドマンの憧れ、
「新宿ロフト」のステージに立つこと。

その機会は、意外と早くまわってきた。

バンド結成から2年後、
スピッツのデモテープを聴いたあるイベント会社の人が、
新宿ロフトで行うイベントに参加しないか、
と声をかけてくれたのだ。
そしてその5カ月後、スピッツは新宿ロフトで
ワンマンライブを果たす。

でも、草野は満足しなかった。

新宿ロフトは、日本のロックの歴史を作ってきた老舗のライブハウス。
その、ロフトの名前にふさわしいライブをやらないと。

目標にたどり着くと、また次の目標が生まれる。
そうやってスピッツは成長を続け、
結成から4年というスピードで
メジャーデビューを果たすのだが、
その後の苦労は、また別のお話。


NguyenDai
草野マサムネと売れないジレンマ

メジャーデビューし、3枚のアルバムを出したが、
まったく売れる兆しのなかったスピッツ。

アルバムの売り上げも、
出すごとに少しずつ落ちていた。

スピッツを、たくさんの人に聴いてほしい。
そうやって、真剣に努力してくれている周りのスタッフに、
草野は申し訳ない気持ちだった。

オリコンにチャートインして、
みんなに恩返ししたい。
そのためには、もっとポップな曲を…
4枚目の「Crispy!」は、そんな想いを
形にしたアルバム。

しかし、結果的に「Crispy!」は、チャートインしなかった。
売れようと努力したのに売れなかった。
草野の落ち込みは、相当なものだった。

でも、その影では、新しいファンが生まれ、
ラジオ局やレコード屋がプッシュするようになっていた。

そして次のアルバム、「空の飛び方」は、
オリコン・アルバムチャートで14位に入る。
「Crispy!」での努力は、次のアルバムにあらわれた。



草野マサムネと自分の声

「マサムネの歌は、高いキーで、
もっと張って歌った方が聴き手に届くよ。」

音楽プロデューサー、笹路正徳の言葉に、
草野は驚かされた。

今でこそ、草野のハイトーンの声の美しさが
スピッツの魅力のひとつであることは
誰もが認めるところだが、
当時、草野は、ハイトーンの自分の声が嫌いだった。

「ロックはクールに」という思い込みがあり、
わざとキーを低く設定して唄っていたのだ。

自分では気づかない魅力を
気づかせてくれる人がそばにいたことが、
草野にとって、幸運だった。

ハイトーンの声でそのまま歌う。
これをきっかけに、スピッツの音楽は、
より明るく、美しいものになっていく。



草野マサムネとスピッツバブル

「地味な曲だなぁ。」

そう、メンバーで話しながら作った曲が、
162万枚のミリオンセラーとなった、
「ロビンソン」。

その後のスピッツは、本人たちが
「スピッツバブル」と称するほど、
売れに売れ続けた。

ただ、当の草野は、頂点に立ちたいとか、
いい車に乗りたいとか、
スターの考えるようなことには興味がなかった。

これで、しばらく音楽を続けられる。
それだけで十分だった。

そんな当時の、草野のささやかな幸せとは。

 「CDを買うとき、前は5枚の中から1枚を選んで買っていた。
  でも今は、まとめて5枚、大人買いできることが幸せだ。」


uzaigaijin
草野マサムネと新しい壁

「いまだに、聴きたくないアルバムがある。」

スピッツのボーカル、
草野マサムネがそう言いきるアルバムの名前は、
「フェイクファー」。
音楽プロデューサー、笹路正徳から離れて
最初に作ったアルバムだった。

けれども、自立しようとしたはずなのに
どうやって曲を作ったらいいか、
どんな詞を乗せればいいか、わからなくなった。
ギリギリまで歌詞ができず、ブースの中にまで
ノートと鉛筆を持って入った。

しかし、そんな「フェイクファー」を、
いちばん好きだと言うファンも多い。
それを証明するかのように、『フェイクファー』ツアーは、
大きな成功を収める。
「ライブバンド」としてのスピッツが、確立しつつあった。

壁につきあたっていると感じているとき、
スピッツは、実は前に進んでいた。



草野マサムネと3人の男

「20年以上、同じメンバーで
続けてこられたのはなぜですか?」

そんな問いに、スピッツのボーカリスト、
草野マサムネは、
「4人が、同じ方向を向いていたから。」
と答えている。

しかし
チーターズの頃からずっと草野とともに歩んできたベーシスト
田村明浩は言う。

 スピッツの4人は、誰ひとりとして先のことを
 考えてやってきたわけじゃない。
 ただ、少なくとも草野以外の3人は、
 草野の曲がある限りスピッツは続くと思っている。

20年間、続いた理由は、
「大好きな曲がそこにあるから」

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