小林組・河田紗弥

河田紗弥 19年3月17日放送



ちいさなフルコース 中国のお弁当

同じアジア圏で、お米もよく食べるお隣の国、中国。

中国では一般的に冷めたご飯を食べる文化がない。
冷めたご飯は、お腹を壊すなど、
体に悪いという考えが古くからあるため、
朝昼晩問わず、あたたかいものを食べる人が多い。

そんな食文化が根付く中国では、
日本のコンビニチェーンのお弁当がオープン当初
全く売れずに苦戦した。

しかし、店内で出来たてのあたたかいお弁当を
買えるようにしたところ大ヒット!

食文化が違えば、お弁当も違う。
ただ、蓋をあけたときの笑顔は世界共通なのだろう。

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河田紗弥 18年10月13日放送

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Photo by AdamSelwood
ちょっと不思議な「いただきます」 〜トマト〜

時は、大航海時代。
ジャガイモやトウモロコシ、唐辛子などともに
新大陸から旧大陸に伝わったのがトマト。

しかし、猛毒をもつベラドンナに似ていたため、
当時、毒を持つ植物と信じられ、食用にされなかったという。

この誤解を解いたのは、

飢餓に苦しむ南イタリアの青年であった。

空腹に耐えかねた青年は、
トマトを食べてみたところ、
毒がないどころか、美味しいことを発見した。

こうして、トマトは、
地中海沿岸の南ヨーロッパを中心に広まっていき、
マルタの主要農産物のひとつになっていった。

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河田紗弥 18年10月13日放送

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ちょっと不思議な「いただきます」 〜トマト〜

南米原産のトマトが
北米で食べられるようになったのは、
ヨーロッパよりも更に200年以上後のこと。

1820年、
ニュージャージー州の農場主であった
ロバート・ジョンソン大佐は
当時信じられていたトマトには毒がある、という説を否定するために
自ら命を張ることを決めた。

町の裁判所前に、人々を集めて、トマトを食べてみせたのだ。
この様子を見て、気絶してしまう人もいたんだとか。

後に、このジョンソン氏の勇気ある行動をたたえ、
ジョンソン・デーというお祭りが開催されていたとも言われている。

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河田紗弥 18年10月13日放送

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ちょっと不思議な「いただきます」 〜ポテトチップス〜

19世紀半ば。
ニューヨーク州のリゾート地サラトガ・スプリングスでのこと。

この地でシェフをしていたジョージ・クラム氏は
ある客に苛立ちを覚えていた。
というのも、わがままな客が、
クラム氏が作ったフレンチポテトが分厚すぎて気に入らないと言ったのだ。

仕方なく、薄く切って揚げたフレンチポテトを出しても、
まだ気に入らないと、
何度もやり直しをさせられた。

頭にきたクラム氏は、
皮肉を込めて、フォークでさせないくらいに
思いっきり薄くスライスしたジャガイモを揚げて出したところ、
これが大好評!

いまやおやつの定番であるポテトチップスは
こうして生まれたのであった。

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河田紗弥 18年10月13日放送

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Photo by [puamelia]
ちょっと不思議な「いただきます」 〜肉じゃが〜

日本帝国海軍が広めた料理は、カレーライスだけではない。

日本海軍のリーダーのひとりで、
日清日露戦争で大活躍をした東郷平八郎は、
ある日艦上で
「イギリスで食ったビーフシチューの味が忘れられん!作れ!
牛肉、ジャガイモ、人参が入っておった。」
とコックに命じた。

しかし、コックにはビーフシチューの知識がなく、
また材料もなかったため、
あり合わせの材料で、コックのイメージするビーフシチューをつくりあげた。

こうして完成したのは、
ビーフシチューではなく、現在の肉じゃが。

リクエストした東郷の想いは叶わなかったものの、
洋食の味にへきえきしていた他の乗組員たちは、大層喜んだという。

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河田紗弥 18年10月13日放送

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Photo by GeoTrinity
ちょっと不思議な「いただきます」 〜シリアル〜

アメリカ人の朝食の定番とも言える「シリアル」
このシリアルは、あるひとりの男の失敗によって生み出された。

ウィル・キース・ケロッグは
医学博士の兄に頼まれ、
研究助手や患者の食事の調理を受け持っていた。

ある日、パン生地の主要な原料である茹でた小麦をほったらかしにして
数時間後に慌てて戻ってみると、
小麦がフレーク状になっていた。

興味を持ったケロッグ氏は、
フレーク状態になったその小麦を焼いてみたところ、
カリカリのスナックが出来上がったのだ。

患者たちに食べてもらうと、これが大好評!
ケロッグはこれを大量生産することを決め、
現在のケロッグ社が誕生したのであった。

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河田紗弥 18年9月9日放送

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Happy Wedding 〜婚約指輪〜

婚約指輪は婚約の証として男性から女性へと贈るもの。

この風習は、古代ローマではすでに行われていたといわれている。
当時は婚約の契約の印として、鉄製の指輪が贈られていた。

15世紀、
ハプスブルク家のマキシミリアン大帝と
ブルゴーニュ公国シャルルの娘であるマリアが婚約する際に、
ダイヤモンドの婚約指輪が贈られた。
これが歴史に残る最初のダイヤモンドが飾られた婚約指輪。

ダイヤモンドは美しい輝きだけではなく、
天然の鉱物の中で最も硬い物質で
「不屈の精神、永遠の絆、約束」を示すといわれ、
「永遠につづく愛のシンボル」として
婚約指輪にふさわしい宝石とされた。

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河田紗弥 18年9月9日放送

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tarale
Happy Wedding 〜婚約指輪〜

ダイヤモンドを飾った婚約指輪は長い間、
貴族など裕福な人々のものだったが、
19世紀のおわりになると一般の人々にも広まっていった。

広まった理由の一つに、
1866年に南アフリカでダイヤモンド鉱山が発見され、
ダイヤモンドを安定的に供給できるようになったことがあげられる。

日本に広まったのは、戦後になってから。
1970年代頃にダイヤモンドジュエリー社デ・ビアス社が
キャンペーンで流したCMがきっかけとされている。

「お給料の3カ月分」というキャッチフレーズとともに、
時代にあわせた様々なカップルのドラマが映し出されたCMは、
当時の日本人にとって印象に残ったことはもちろん、
婚約指輪にはいくらかければいいのだろうという疑問に
「お給料の3カ月分」という答えを提示したのだ。

その結果、多くの日本人が
「給料の3カ月分」のダイヤモンドが輝く婚約指輪を贈るようになった。

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河田紗弥 18年9月9日放送

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Happy Wedding 〜結婚指輪〜

婚約指輪を贈る慣習が古代ローマ時代にはあったのに対し、
結婚の際に、指輪を交換するという慣習ができたのは
9世紀ごろの話。

ローマ教皇ニコラウス一世が
指輪が結婚の証拠になると認めたとされ、
1027年には「花婿は花嫁に金の指輪を、
花嫁は花婿に銀の指輪を交換している」という記録も残されている。

その後、結婚指輪の交換が普及し、
13世紀のヨーロッパでは一般化していったといわれている。

そんなヨーロッパには、
結婚指輪に関する言い伝えもたくさんある。

結婚指輪を交換する際に、新郎が新婦の第2関節まで
指輪を一気に通すことができれば
結婚生活において、新郎が主導権を握れるとか。
結婚指輪が壊れると、
相手が不貞を働いた印であるとか。

そして、この言い伝えもその一つ。
結婚指輪は、左手にはめるべし。
左手の薬指には、心臓につながる太い血管がある。

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河田紗弥 18年9月9日放送

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Happy Wedding 〜ウェディングブーケ〜

結婚式の象徴ともいわれるウェディングブーケ。

古くから、
ヨーロッパでは、男性が女性にプロポーズをするときに
野の花を摘み、花束にして女性に贈り、結婚を申し込んでいた。

プロポーズの返事がYesなら、花束の中から一輪抜き取り、
男性の胸ポケットに差し込む。

この慣習が、現在のブーケとブートニアの元になったと言われている。

18世紀になると、
花言葉に関する書籍が多く出版されるようになり、
恋人たちは自分の想いにあった花を選び、
気持ちを花言葉に重ねて贈りあったんだとか。

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