小林組・河田紗弥

河田紗弥 18年9月9日放送

180909-05
Dovima-2010
Happy Wedding 〜ブーケトス〜

教会から出てきた花嫁が
後ろ向きで投げた花束をつかみ取ることができたら、
次の花嫁になることができるとされる結婚式でのブーケトス。

このブーケトスは、
14世紀ごろのイギリスでの風習からはじまったとされている。

当時の結婚式では、
花嫁の幸せにあやかろうと参列者たちが
花嫁のブーケや小物を取ったり、ドレスを引っ張ったり。

こういった行為が頻繁に行われるようになり、
花嫁にとっても、参列者にとっても、危険だと考えられ、
それなら、あらかじめ「次の幸せ」を分け与えるという意味で
持っていた花束を投げてしまおうということではじまったのだ。

多くの女性が目を輝かせ、
「絶対に、わたしが…!」と、
ブーケが投げられる瞬間に胸を高まらせている女性の姿は
14世紀も、今も、変わらないのかもしれない。

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河田紗弥 18年9月9日放送

180909-06

Happy Wedding 〜ウェディングケーキ〜

ウェディングケーキの歴史は、
古代ギリシャまでさかのぼると言われている。

古代ギリシャのケーキは、
生きていくのに欠かせなかった主食の小麦でつくられた
小さく堅いビスケットであった。

ひとかけらのビスケットを粉々に砕き、
良き収穫と子宝に恵まれるようにと願いを込め、
花嫁の頭上に撒いていたんだとか。

そして、花嫁の頭上で砕かれたビスケットのかけらには、
幸運が宿るとされ、
招待客は、その砕けたビスケットを競うようにして
拾い集めていた。

当時のウェディングケーキには、豊かで幸福な人生への願いと
それをみなで分かち合おうという想いが込められていたのだ。

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河田紗弥 18年9月9日放送

180909-07
shine oa  
Happy Wedding 〜ウェディングケーキ〜

私たちがウェディングケーキと聞いて
真っ先にイメージするのは、
「花嫁と花婿が入刀する白い3段重ねのケーキ」ではないだろうか。

18世紀のウェディングケーキは、
砂糖漬けのフルーツやナッツをパウンド生地に入れて焼いた
いわゆるフルーツケーキ。
19世紀半ばの1840年、
イギリスのヴィクトリア女王の結婚式でも
直径90cm、重さは136kgもある巨大なフルーツケーキが用いられた。

ケーキ表面は、
砂糖と卵白を練り合わせたアイシングで華麗な装飾がされていた。

この結婚式以降、
ケーキもドレスと同じように華やかで白いものという文化がうまれ
時を同じくして砂糖の値段も下がったため、
白いケーキが愛されるようなっていった。

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河田紗弥 18年9月9日放送

180909-08

Happy Wedding 〜ウェディングケーキ〜

1858年、ヴィクトリア女王の長女であるビクトリア王女が
プロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム王子との結婚の際に、
「ロンドンのセント・ブライド教会にそびえる鐘楼をモデルにした
円柱型のウェディングケーキ」を委託した。

高さ約2.1mにもなる巨大でエレガントなケーキは
一流の菓子職人が4人がかりで7日間の日数をかけて制作されたと言われている。

3段構造になっていて、
上の2段はすべて砂糖細工によってつくられ、
食べられるのは一番下の段だけであった。

この大きくて、華麗なウェディングケーキに憧れ、
一般市民もこぞってこのタワー構造のケーキを真似したため、
瞬く間に広まっていった。

こうして、現在「伝統的なウェディングケーキ」といわれる
白い3段重ねのケーキはうまれたのであった。

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河田紗弥 18年8月12日放送

180812-01

おやつの時間 〜紅茶はいかが?〜

イギリスで最初に紅茶が販売された1657年。
それはまだ”万病に効く東洋の秘薬”としてであった。

しかし、その5年後
チャールズ2世のもとに嫁いできたポルトガルの王女キャサリンが
中国の茶と
当時は貴重だった砂糖を大量に持参し、
宮廷に喫茶の習慣をもたらした。

貴重なお茶に、貴重な砂糖。
この贅沢な習慣は、次第にイギリスの貴族社会に広まっていった。

17世紀後半から19世紀にかけて、
イギリス東インド会社はお茶の輸入を独占し、
その取引の利益こそが
イギリス繁栄の基礎を築いたとまで言われている。

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河田紗弥 18年8月12日放送

180812-02

おやつの時間 〜贅沢の極み〜

17世紀の中頃。
当時、イギリスの貴族や文化人たちの社交場コーヒーハウスで
はじめて紅茶が商品として提供された。

コーヒーハウスでは、
コーヒーや紅茶、チョコレートなど高価な舶来品を
楽しむことができたという。

次第に、コーヒーハウスは大衆化していき、
一般人も通うようになった。
やがて、紅茶は各家庭でも楽しまれるようになり、
食料品店でも販売され、市場は拡大していった。

紅茶と砂糖を合わせて飲む「贅沢の極み」は
イギリス経済に大きな影響を及ぼしたと言えるのではないだろうか。

その後、世界に先駆けて産業革命を成功させると、
中産階級を中心に食生活にも大きな変化が生まれ、
紅茶はすっかり人々の生活の中に定着していく。

19世紀に入ってから、
イギリスが植民地のインドやスリランカでお茶の栽培に成功すると、
19世紀末には中国の紅茶をすっかり凌駕するようになった。

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河田紗弥 18年8月12日放送

180812-03

おやつの時間 〜日本人の最初の一口〜

日本で最初に紅茶を飲んだとされているのは、
伊勢の船頭「大黒屋光太夫」だと言われている。

1782年、伊勢の白子港を出港し、
江戸を目指した光太夫の輸送船は、駿河湾沖で暴風雨に遭遇した。

船はロシアとアラスカの間にある島に漂着し、
先住民族たちに助けられた。
船に積まれた陶器や金銀の豪華さから、
身分ある富裕商人と誤解された光太夫は賓客として扱われた。

ロシアの皇帝エカテリーナ2世は、
なんども宮中に招待し、その度に茶会を行なったと言われている。
当時のロシアでの茶の価値は、
「百匁にて銀一枚より五枚に至る」と言われるほどの高価なものであった。

帰国後の回顧談には、
「銀の壷にのみぐちをつけたる器に入れ、熱湯をさし泡茶(だしちゃ)にして飲む。
是にも多く砂糖、牛乳を加ゆるなり」と記されている。

やがて、日本に帰国することになった光太夫は、
金のメダルや金時計とともに
たくさんの茶と砂糖などの餞別をもらった。

旅の途中も、光太夫は、茶を嗜んでいたんだとか。

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河田紗弥 18年8月12日放送

180812-04

おやつの時間 〜ハイカラのシンボル〜

横浜や神戸の貿易港に、
イギリスやアメリカなどの商館が軒を連ねる頃のこと。

日本国内では、飲み慣れた緑茶への志向が強く、
高価な贅沢品の紅茶を飲むという習慣はしばらく根付くことはなかった。

しかし、そんな日本を変えたのが、文学だ。

夏目漱石や永井荷風、宮沢賢治らの日本文学の中に
紅茶が登場しはじめると、
次第に、広く国内で紅茶が飲まれるように。

文学の中に登場する紅茶好きの人々は、
決まってハイカラ好みの上流階級。

当時の文学の中では
優雅さや豊かさなど、ハイカラの記号として機能していたようだ。

この高級で優雅という紅茶へのイメージは
簡単に手に入るようになった今もなお、
残っているのではないだろうか。

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河田紗弥 18年8月12日放送

180812-05

おやつの時間 〜携帯食としてのクッキー〜

今では、おやつの定番として愛されるクッキー。

もともとは、旅行の携帯食として、重宝されていた。
なぜなら、高い栄養価を簡単にとることができ、
その割に長期間の保存ができ、持ち運びも楽だから。

船旅や海軍の航海において、
冷蔵庫などの設備が存在しない中で、
長期間、全員分の食料を保存するスペースを確保することは難しい。
そこで、手軽な携帯食であったクッキーが必需品だったのだ。

その証拠に、
1588年のスペイン海軍では、
水平や水夫の1日の手当は1ガロンのビールと
1ポンドのクッキーだった。

しかし、携帯食としてのクッキーの質感は硬く乾燥しており、無糖だった。
そんなクッキーが、お菓子として開発されはじめたのは
7世紀のペルシャと言われている。

ペルシャ帝国の料理家によって、
はちみつや果物を入れて、
甘くする工夫をしたことがはじまりだった。

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河田紗弥 18年8月12日放送

180812-06

おやつの時間 〜甘いクッキーのはじまり〜

14世紀になると、お菓子としてのクッキーは
ヨーロッパにおいて当たり前の存在にまで普及し、
あらゆるスタイルで製造され、
すべての階層の人が日常的に食べるお菓子にまで進化を遂げていた。

その大きなきっかけとなったのが
キリスト教国のイベリア半島奪還を目的に行われた700年にわたる戦い
”レコンキスタ”であったと言われている。

イスラム教の国が
スペインやポルトガルがあるイベリア半島を征服したことに対する
キリスト教国の奪還事業であった。

そのため、軍隊の遠征には携帯食として
クッキーが大活躍だったのだろう。

1620年ごろには、
船旅に強いというクッキーの強みを生かし、
オランダを経て、アメリカに持ち込まれ、全米に広まることとなった。

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