小林組・河田紗弥

河田紗弥 17年10月22日放送

171022-03

文房具のあれこれ 〜ボールペン〜

ボールペンは、
1884年にアメリカのジョンラウドが発明したと言われている。
しかし、彼が発明したものは、インク漏れがひどく、
とても文字を書けるようなものではなかった。

その後、新聞の校正に携わっていたハンガリー人のラディスラオ・ピロが
新聞印刷に使われるインクが素早く乾き、
紙が乾いたまま保たれ、滲みもないことに気がついた。

最初はそのインクを万年筆に入れて試したが、
粘性が強すぎたため、ペン先までインクが伝わらなかった。

そこで、彼は化学者であった弟ジョージとともに、
回転するボールを使ってインクを誘導するという
現在のボールペンの原型を1943年に完成させた。

日本にボールペンが入ってきたのは、
第二次世界大戦後、
進駐してきた米軍が持ち込んだことがきっかけだ。
これを手にいれた製造者らが、生産を開始し、
1947年には国産のボールペンが出回るようになっていたという。

topへ

河田紗弥 17年10月22日放送

171022-04
Pedro
文房具のあれこれ 〜付箋〜

1969年、アメリカの科学メーカー3Mに、
ある一つの失敗作が生まれた。

研究員スペンサー・シルバーは、
強力な接着剤を開発しようとしている最中に、
非常に弱い接着剤を作り出してしまった。

当初、この弱い接着剤は用途が見つからなかったが、
1974年に、3Mの研究員アーサー・フライが
本のしおりに応用できないかと思いついた。

1977年には試作品が完成し、
大企業の秘書課に配られた試供品が好評を博し、
1980年の全米販売につながった。

そう、これが
ポストイット誕生の瞬間だ。

topへ

河田紗弥 17年6月18日放送

170618-01

コーヒーはいかが? 〜魔法の木の実〜

現在のエチオピアにあたるアビシニアという地に
カルディという一人のアラビア人のヤギ飼いがいた。

ある日、彼は自分が世話をしているヤギが
灌木の実を食べると、
騒がしく興奮状態になることに気がつく。

そこで、近くの修道院を訪ね、
この不思議な話を伝えると、
院長は関心を示し、その実を茹でで飲んでみた。
すると、頭がスッキリするような不思議な感覚が院長が襲った。

驚いた彼は、
夜の儀式中に居眠りをする修行僧たちにも飲ませてみた。
すると、修行僧たちは居眠りもせずに、勤行に励むことができた。

この「魔法の木の実」の噂は、
瞬く間に国中に広まり、多くの人から求められるようになった。

そう、これがコーヒー誕生の瞬間だ。

topへ

河田紗弥 17年6月18日放送

170618-02

コーヒーはいかが? 〜賢者の学校〜

現在のイスタンブールにあたるトルコのコンスタンティノープルに
タクタカラと呼ばれる小さな街があった。
1554年。その街に、シェムジとヘケムという二人の男が
それぞれコーヒーハウスを開業した。

この二つの店舗が世界最初のコーヒーハウスと言われている。

どちらのお店も、装飾や調度品もこだわり、
居心地は抜群。
社交の場として、トルコ人の熱狂的な支持を集めていた。

この二つの店舗をきっかけに、
トルコではコーヒーハウスが急増し、
ますます豪華になっていった。

そんなコーヒハウスには、
様々な国の商人や旅人、裁判官を目指す若者、官邸の役人など
様々な人が訪れ、
別名「賢者の学校」とまで言われていたんだとか。

topへ

河田紗弥 17年6月18日放送

170618-03

コーヒーはいかが? 〜プチ・ノワール〜

1672年、サンジェルマンの博覧会で
アルメニア人のパスカルという男によって
パリではじめてコーヒーが販売された。

トルコ人の少年たちが給仕したり、
小さなカップを盆に載せて、人混みの中を売り歩いていたという。

コーヒーは、「プチ・ノワール」と呼ばれ、好評を博した。

その後、パスカルはコーヒーハウスを開業したが、
東洋風のカフェは
貧困階級の人々のためのものというイメージが当時はあったため、
売り上げは今ひとつで、結局店をたたむことに。

時は経ち、1689年。
それまで東洋風だったコーヒーハウスと一線を画した、
純フランス風のカフェ「カフェ・ド・プロコープ」が登場。

創業者であるフランソワ・プロコープは、
上流階級の人々を狙って、
新築間もない劇場コメディー・フランセーズの真正面に開業した。

それが功を奏し、大勢の人々の溜まり場となり、
多くの役者、作家、劇作家、音楽家などが集う文学サロンとなった。

革命期には、政治家やジャーナリストたちが、
コーヒー片手に激論を交わしていたんだとか。

時には、芸術を愛する者たちが集い語り合う場として、
時には、切迫した問題を激しく論じ合う場として、
コーヒーハウスは、人々の生活に密着し、愛されていった。

topへ

河田紗弥 17年6月18日放送

170618-04

コーヒーはいかが? 〜コーヒーカンタータ〜

1700年代、ロンドンやドイツでは
「コーヒーを飲むと体が黒くなる」
「コーヒーを飲むと子どもが産めなくなる」などの風説があり、
女性はコーヒーを飲むべきではないと言われていた。

これに反発する女性の声を代弁し、
ドイツでのコーヒー騒動を風刺したのが、
バッハの「コーヒー・カンタータ」だ。

歌詞は、当時の人気詩人であったピカンダーによるもの。
娘のコーヒー好きをなんとか止めさせようと奮闘する
古風な父親が描かれている。

もしおまえがコーヒーをあきらめないなら、結婚パーティーには行かせないぞ。
散歩に行くことすら許さない。
はやりのスカートも買ってやらない。
窓の中から、町を眺めることもできなくしてやる!
帽子につける金銀細工も、手に入らないぞ。

 かまわない、でも、私の楽しみだけは取り上げないでね。


topへ

河田紗弥 17年6月18日放送

170618-05

コーヒーはいかが? 〜コーヒー禁止令〜

現在のドイツのプロシアのフレデリック大王。
大のコーヒー好きで知られた彼は、
1781年に突然コーヒー禁止令を布告した。

当時、植民地を持っていなかったドイツにとって、
コーヒー消費量の増加は、
一方的な通貨の海外流出となってしまい、
国際収支のバランスが悪化してしまうのだ。

しかもドイツビールの消費量が減り、財政を圧迫していた。

そこで大王自ら、自分の好みを押さえて、ビールを飲むように奨励し、
コーヒーに重税をかけた。

しかし、それでもコーヒー愛好者は減らず…。
彼は、王室以外でのコーヒーの焙煎禁止に踏み切った。

その結果、貴族や将官といった
上流階級のみがコーヒーの販売を独占することとなり、
王室は莫大な利益を得たんだとか。

topへ

河田紗弥 17年6月18日放送

170618-06

コーヒーはいかが? 〜カウヒイ〜

1804年、日本初のコーヒーを飲んだときの体験記が
大田南畝によって残されている。

「紅毛船にて、”カウヒイ”というものを勧む、
豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、
焦げくさくて味ふるに堪えず」

当時の日本人の嗜好には合わなかったのだろう。

しかし、長崎の出島で医師として働いていたシーボルトをはじめとする
多くの蘭学者たちが
コーヒーは長寿をもたらす良薬として大いに宣伝したことをきっかけに
江戸時代末期にかけて人々のコーヒーへの関心は高まっていった。

その証拠に、
1858年には、正式なコーヒー輸入が開始され、
そのまた30年後の1888年には、
東京の下谷に「可否茶館」が誕生した。

その後も、浅草や大阪などに次々と、
コーヒー専門店がオープンし、
当時のハイカラな文化人たちが
文学や芸術、西欧の思想などを論じるサロンとなった。


topへ

河田紗弥 17年6月18日放送

170618-07

コーヒーはいかが? 〜幻の発明者〜

1899年、加藤サルトリ博士は、
コーヒーを一度液体化してから、
真空蒸発缶に入れて、水分を除去し粉末にするという、
真空乾燥法に成功し、
インスタントコーヒーを発明した。

ところが、当時の日本では、
インスタントコーヒーの販路がなかったため、
彼はアメリカのシカゴに加藤商会を設立した。

その後、ニューヨーク州バッファローで開催された
パンアメリカ博覧会に、
その製品を出品し、販売した。

しかし、加藤サルトリ博士は、特許を取得していなかったのだ。
そのため、1903年に別の方法でインスタントコーヒーを作った
ジョージ・ワシントンが特許をとってしまい、
幻の発明者となってしまった。


topへ

河田紗弥 17年6月18日放送

170618-08

コーヒーはいかが? 〜恋の苗木〜

1727年、海軍士官のフランシスコ・パルヘッタは、
ポルトガル領ブラジルに
コーヒーの苗木を極秘で持ち帰るという使命を受けて、
フランス領ギアナに向かった。

当時、特産品として国の経済を支えていたコーヒーの
国外持ち出しは禁止されていた。

そんな中、彼は滞在中に、
ギアナの首都カイエンヌのトルヴィエ総督夫人と恋に落ち、
自分の使命を夫人に話してしまった。

そして苗木を手に入れることができずに迎えた帰国の日。
使命を果たせず、途方に暮れていた彼に、
トルヴィエ総督夫人は、大きな花束を手渡した。

そう、その贈られた花束の中には、
5本のコーヒーの苗木が隠されていたのだ。

パルヘッタは、持ち帰った苗木をブラジルに植えた。
やがて世界の生産量80%を占めることになるブラジルコーヒーは
こうして生まれたのだ。

topへ


login