小林慎一

河田紗弥 20年2月15日放送



恋文のいろいろ。 〜坂本龍馬〜

 まことにおもしろき女

これは、坂本龍馬が、自分の姉である坂本乙女へ宛てた手紙の中で
自分の妻であるおりょうのことを紹介したときの言葉だ。

筆まめで知られる龍馬は、
残っているだけでも130通もの手紙を出していたとされる。

今でも、彼を題材にしたドラマや映画でも、
やたらと手紙を書くシーンが多いように思う。

そのときの時勢から人間関係、
金品の貸し借りなど、
なにからなにまで、詳細に書き記していて、
中には3メートルにも及ぶ長文の手紙もあったとか。

妻のおりょうにも多くの手紙を出しているが、
その手紙は、おりょうの死後、
遺言によりすべて処分されたと言われている。

龍馬の愛情が、文字から、文章から、伝わってしまう恋文を、
彼女は、誰にも見せず、独り占めしたかったのかもしれない。

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河田紗弥 20年2月15日放送



恋文のいろいろ。 〜谷崎潤一郎〜

近代日本文学を語る上で、
欠かすことができない小説家・谷崎潤一郎。

彼が「創作の源泉・女神」とまで崇めた
妻・松子に
彼はこんな恋文を送っている。

 「仏さまの足をかたどった墓石より、
 あなたが履いた靴の下に埋められたい。
」と。

彼の書く小説は、
変態的な性的嗜好を描いたものが多く、
共感することはあまりにも難しい。

それにも関わらず、彼の描く
「マゾヒズム」や「フェティシズム」に
惹かれてしまう人々が多かったことも確かだ。

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野村隆文 20年1月25日放送


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サマセット・モームの秘密

今から150年ほど前のこと。
パリのシャンゼリゼに、「美女と野獣」と噂された夫婦がいた。

大使館の顧問弁護士をつとめる教養人の夫と、
名家の出身で、たいそう美人な妻。
パリの社交界でも花形だったその夫婦に、1874年の今日、
六人兄弟の末っ子が生まれた。

少年の名は、サマセット・モーム。
のちに「月と六ペンス」を執筆し、
世界的なベストセラーとなる。

 思い煩うことはない。人生に意味はないのだ。

と語った大作家の、数奇な人生がはじまった。

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野村隆文 20年1月25日放送



サマセット・モームの秘密

サマセット・モーム。
数々のベストセラーを生んだ大作家には、
実は裏の顔があった。

語学が堪能で、旅行好きだったモームは、
あのジェームズ・ボンドと同じイギリスのスパイ機関
MI6に所属していた。
コードネームは“サマーヴィル”。

1917年には、革命の渦中であるロシアにも潜入。
後にその経験を下敷きに、
スパイ小説の古典『アシェンデン』も執筆している。

 矛盾だらけのさまざまな性質を
 束ねたものが人間だ

激動の時代に作家をつづけていくための、
一級の処世術だったのかもしれない。

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野村隆文 20年1月25日放送



サマセット・モームの秘密

イギリス人作家、サマセット・モームは、
旅行好きで有名。
ここ日本にも、生涯で4度訪れている。

「日本を題材に、なにか書くつもりは?」という質問には、
「わたしはもう死火山ですよ。フジヤマのようにね」と答えたが
実は、神戸を舞台に短編を残している。
その内容はなんと、人がときに見せる矛盾した一面について。

サマセット・モームの名言がある。

 ユーモアのセンスを持っていると、
 人間性の矛盾を楽しむようになる。

大作家は、自分の矛盾した一面さえも
楽しんでいたようだ。

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野村隆文 20年1月25日放送



サマセット・モームの秘密

 自分の四分の三は正常で、四分の一だけが変だと
 言い聞かせようとしていた。
 でも、実際の割合はあべこべだった。

作家のサマセット・モームは、
晩年、甥に向かってそう語ったという。

モームが生きた時代のイギリスでは、
同性愛は違法だった。
彼が二十一歳のときにも、
オスカー・ワイルドが投獄され、衝撃を与えている。

生前、公言は避けてきたモームだったが、
実はジェラルド・ハクストンというアメリカ人のハンサム・ボーイと、
繰り返し長旅に出ている。

社交家のハクストンは、
内気だったモームと、旅先で出会った人々の橋渡しをしたり、
真っ先に原稿を読んでアドバイスしたりと、
晩年までパートナーとして寄り添いつづけた。

いまや、同性愛への認識は、
世界中で大きく変わりつつあるが、
その裏側には、知られざる物語がある。

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野村隆文 20年1月25日放送



サマセット・モームの秘密

イギリス人作家、サマセット・モーム。

波乱万丈の人生を送り、
「人生に意味はない」と語った作家は、
91歳で没する、その晩年まで筆をとりつづけた。

彼の代表作は、「月と六ペンス」。
月は、幻想的な美。
六ペンスは、安っぽい日常のことを表しているという。

天才と凡人。善人と悪人を、公平に描きあげる。
そして、一人の人間のなかにも、矛盾があることを暴く。

矛盾した人間に呆れ、
先の読めない人生に諦めを覚えながら、
それでもそれをそのまま書き上げることで、
彼は人間を信じようとしたのかもしれない。

今日は、サマセット・モームの誕生日。

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山本貴宏 19年12月22日放送


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雪がふるとき ~ホワイトインパルス~

世界の降雪量ランキング1位は
青森県の青森市となっている。
そんな青森市でのある日、
積雪は29センチを記録したにも関わらず、飛行機の欠航はゼロだった。
活躍したのは、日本一の除雪隊と呼ばれる精鋭たち
通称「ホワイトインパルス」だ。
視界の悪い中、
全長3000メートル 幅60メートルの滑走路をたった16分で除雪する。
総勢110人 除雪車60台を指揮する隊長は、引き締まった表情でこう述べた。
「愛称をつけていただいて、励みになって士気も高まっていますので、
より一層降雪に専念したいと思います」
青森空港の展望デッキからは、彼らのプロ技を目にすることができる。

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山本貴宏 19年12月22日放送



雪がふるとき ~札幌を救った雪~

終戦から間もない1950年。
当時、札幌の街は石炭ストーブを使っていた影響で外は薄暗く、
衣服も汚れるという理由でほとんど外へ出歩かなかったそうだ。

これではいけない!札幌を活気づけよう!
そう考えた札幌市が呼びかけ、
雪像製作に協力してくれる学校をなんとか集めて始まったのが、
今では世界の人を魅了する「さっぽろ雪まつり」だ。

雪捨て場であった場所で、
学生たちが作るたった6基の石像から始まった
「さっぽろ雪まつり」は今年で70回目を迎える。

その精巧な仕上がりに
思わず白い息が漏れてしまう雪像のひとつひとつには
先人たちの想いと歴史が積み重なっている。
冬の北海道で、感動の雪像を眺めてみてはいかがだろう。

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山本貴宏 19年12月22日放送



雪がふるとき ~雪まろげ~

18世紀前後の江戸時代は小氷期といわれ
現代より寒い日が続き、雪の量も多かった。

そこで流行したのが、
雪玉を転がして丸い大きなかたまりを作る「雪まろげ」という遊び。

さらにその雪の塊を積み上げ
縁起物の「達磨」を再現したことから、文字通り「雪だるま」が誕生した。
「雪だるま」はSnowmanの語訳ではなく、は日本古来の言葉だったのだ。

歌川広景による「江戸名所道戯尽」の一葉にも
供え物が置かれた雪だるまが描かれており、
本来の「達磨」と同じく縁起物であったと考えられる。

雪が降ると、
子どもたちが外で雪だるまを作る風景が思い浮かぶが
江戸時代には、
子どもの遊びというよりも大人が作り、
朝起きた子供たちを驚かせるのが目的であったという。
炭の塊で目を付け、ひげなどを墨で描いていたという
本格的なつくりであった。

サンタクロースが西洋から伝わってくる前から
冬の日の朝に子どもたちを喜ばせる親心は、
変わらず存在していたのだった。

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