小林慎一

河田紗弥 19年8月4日放送



喉が渇いたなら。 〜スポーツドリンク〜

1960年代中頃、
ダムやプラントの建設現場で
炎天下のもと作業していた作業員が
脱水症状を防ぐために
自由に水を飲むことが許されていたにも関わらず、
相次いで倒れる事件が多く発生していた。

また同時期に、
アメリカではアメリカンフットボール選手の発汗による
脱水症状や熱中症による死亡者が
年間平均で約20名という数字を記録…。

この事態を受けて、調査と研究が行われ、
水を飲みすぎると体内の塩分濃度が薄まり、
体内の電解質バランスが崩れてしまうという
人体のメカニズムが明らかにされたのであった。

そこで、フロリダ大学のアメリカンフットボールチーム
「ゲータレード」全面協力のもと、
ロバートケード博士によって、
世界ではじめてスポーツドリンクが誕生した。

このスポーツドリンクをきっかけに、
水分だけではなく、ミネラルも同時に補給することが重要視され、
さまざまなスポーツドリンクが生まれることとなった。

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河田紗弥 19年8月4日放送



喉が渇いたなら。 〜ミルク〜

お釈迦さまがインドの小さな国の王子だった頃。
山奥に篭り、1週間に1食しか食べないという
厳しい絶食修行を行った。

弱り切った体で下山をした釈迦に
村の少女スジャータが
牛乳でつくられた乳粥を捧げた。

その乳粥を食べた太子は
これほど美味しいものが
この世にあったのかとたいそう感動し、元気を取り戻した。

そして、菩提樹のもとで瞑想し、
悟りを開くことができたと言われている。

そのため、釈迦は
牛乳や乳製品のことを
食料となり、気力を与え、
皮膚に光沢を与え、
楽しみを与えるものとして讃えている。

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河田紗弥 19年8月4日放送



喉が渇いたなら。 〜ミルク〜

日本人が牛乳の知識を得たのは、
6世紀中頃のこと。
朝鮮半島から帰化した智聡という男が
仏典や医薬書と一緒に
牛乳の効果や乳牛の飼育方法が書かれた書物を持って帰ってきたことが
きっかけと言われている。

大化の改新の頃、
天皇に牛乳を献上したところ、
「牛乳は体をよくする薬である。」とたいそう喜び、
牛乳を飲むという文化を日本に持ち込んだ智聡の子に
「和薬使主(やまとくすりのおみ)」の姓を与えた。

その後、
朝鮮からの渡来人が増えるにつれ、
次第に乳搾りや乳加工が広まり、
奈良時代には、当時の乳加工品が朝廷に献上されていたという。

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河田紗弥 19年8月4日放送



喉が渇いたなら。 〜ぶどうジュース〜

1869年、ニュージャージー州。
ひとりの医師が、教会で行われる聖餐式に
未発酵のワインを使うことはできないかと考えていた。

彼はある日、自宅のぶどう農園で、
絞った果汁を密閉した瓶に入れ、
発酵を防ぐために、瓶ごと沸騰したお湯の中へ入れ、
未発酵のワインづくりに挑戦。

数週間後に瓶をあけると
そこには、未発酵のワイン
つまり、ぶどうジュースが存在していたのだ。

そして彼は、牧師たちに聖餐式に使うことを薦め、
ニュージャージー州南部の教会へと販売を開始した。

その医師の名前は、
トーマス・ブラムウェル・ウェルチという。

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河田紗弥 19年8月4日放送



喉が渇いたなら。 〜ビール〜

紀元前4000年以上前。
メソポタミアで人類が農耕生活をはじめた頃、
放置してあった麦の粥に、酵母が入り込み、
自然に発酵したことで「ビール」は誕生したと言われている。

中世のヨーロッパでは、
「液体のパン」と考えられていたため、
キリスト教の修道士の間で盛んに作られていた。

当時の修道院は、知識と経験の宝庫。
彼らがつくるビールは、たちまち大人気!

醸造量も増え、
一般の人にも飲まれるほどに広まっていった。
そして、中世の末頃には、
民間でもビールづくりが開始されるようになっていったんだとか。

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河田紗弥 19年8月4日放送


foreverdigital
喉が渇いたなら。 〜ビール〜

1516年、
ドイツのバイエルン地方の君主
ウイルヘルム4世は
「ビール純粋令」を発令する。

修道院でつくられる美味しいビールを
見よう見まねでつくる民間企業が増え、
ビールの品質が全体的に低下したことが理由として言われている。

「ビール純粋令」の中身は、
「ビールは大麦とホップ、そして水以外のものを醸造してはならない。」
というものであった。

これにより、
その後のドイツビールの品質と人気の上昇はとどまることを知らなかった。

この「ビール純粋令」は、
ドイツでは今もなお、国内で製造される
下面発酵ビールにおいては守られている。

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山本貴宏 19年7月28日放送



キングオブポップ 出発点

1958年、アメリカはインディアナ州の工業団地。
そこで暮らす大家族の六男として、マイケルジャクソンは産まれた。

生後1歳半で、洗濯機の音に合わせて哺乳瓶を片手に踊っていた。と後に母親は語る。

デビュー後、当時まだ声変わりもしていなかったマイケルに
あるインタビュワーが少々意地悪な質問を投げかけた。
「声変わりしたらどうなるんだろうね?」

すると、11歳だった彼は臆することなく笑顔でこう答えた。

「it changes.(ただ変わるだけさ。)」

その言葉通り、彼は声変わりをしてもなお成功を重ね、世界中を魅了していった。

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山本貴宏 19年7月28日放送


Abi Skipp
キングオブポップの死

マイケルジャクソン。

人気が増すにつれて
根も葉もないニュースも増えていった。
その影響でしばらく活動を控えたのち、
2009年におよそ10年ぶりとなる「THIS IS IT」ツアーを発表する。

しかし、そのリハーサル期間中に自宅で息を引き取ってしまうのだ。

幻に終わった最後のツアーのリハーサル映像が、ドキュメンタリー映画として公開されたが
そこには、人間不信に陥っていた彼ではなく、
声も肉体も、50歳という年齢のハンディを感じさせない、輝く姿が映っていた。

彼が亡くなったのは、2009年6月25日。
先月で、10年になる。

人を信じていた彼を思い出しながら、
思い出の名曲を聞いてみてはいかがだろうか。

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山本貴宏 19年7月28日放送


Mexicaans fotomagazijn
キングオブポップ スリラー

マイケルジャクソン。

世界をアッと驚かす革新的な楽曲を次々と生み出してきた。
中でも「スリラー」は、ミュージックビデオとしては唯一アメリカ議会図書館に永久保存されるなど、多大な功績を残している。

人間の身体がここまで精密に動くのか。とまで思わせる彼のダンスや
音楽と芝居が共存する構成、そして伸びのある歌唱力に誰もがくぎ付けになった。

1980年代当時の音楽業界にとって
それがどれほどスリリングで、エキサイティングだったのか。

「全世界が圧倒されるエンターテイメント誕生。」
その瞬間をリアルに体験できた大人に嫉妬してしまう。
そんな若者がいても、不思議ではないだろう。

同アルバムは現在、「史上最も売れたアルバム」としてギネス記録に認定されている。

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山本貴宏 19年7月28日放送


house of bamboo
キングオブポップ ビリージーン

マイケルジャクソン。

ある日彼は、車の中で作曲をしていた。

あまりに無我夢中になってしまっていたマイケルは、
自転車に乗った通りすがりの子供が「車、燃えてるよ」と教えてくれたことで
乗っていたロールスロイスの下の部分が燃えていたことに気がついたという。

車が燃えていることにも気がつかないくらい、没頭して出来上がった曲。
それがご存知「ビリージーン」である。

「歌詞を書いている時から、これはヒットになると分かっていた。」とのちに彼は答える。

一つのこと以外考えない。
そんな時間や思考量が、素晴らしいものを生み出すのかもしれない。

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