imajou
いつまでも素敵な女性/宇野千代
今年も、山口県の岩国市に桜が咲いた。
作家・宇野千代の生家にある2本の桜。
生前、
私は幸福を撒き散らす、花咲かばあさんになりたい
と言った、宇野千代。
たしかに彼女は、
いつも春のなかを生きているような人だった。
次から次へと、恋をする。
新しい興味が、次々に湧く。
作家。編集者。着物デザイナー。
その肩書の多さは、好奇心の証し。
彼女の人生訓を、ひとことで言うと、こうなるのだという。
人生は、行動である
imajou
いつまでも素敵な女性/宇野千代
今年も、山口県の岩国市に桜が咲いた。
作家・宇野千代の生家にある2本の桜。
生前、
私は幸福を撒き散らす、花咲かばあさんになりたい
と言った、宇野千代。
たしかに彼女は、
いつも春のなかを生きているような人だった。
次から次へと、恋をする。
新しい興味が、次々に湧く。
作家。編集者。着物デザイナー。
その肩書の多さは、好奇心の証し。
彼女の人生訓を、ひとことで言うと、こうなるのだという。
人生は、行動である
いつまでも素敵な女性/ココ・シャネル
世界のファッションブランド
「シャネル」の創始者、ココ・シャネル。
彼女はデザイナーとして人生で二度、開花した。
その二度目は71歳、
誰もが引退を考える年齢になって
彼女はシャネルスーツという新しいスタイルを
世界に発表したのだ。
シンプルで動きやすい上着と膝丈のスカート
それは当時のミニスカートブームに挑戦するかのような
保守的なデザインにも見えた。
けれども、シャネルはこう考えていた。
誰もが15歳ではない、
40を過ぎてから似合うエレガンスもあるのだ、と。
その考えに賛同するかのように、
シャネルスーツは世界の女性のあこがれになり
ココ・シャネルはモード・オスカー賞を受賞した。
いくつになってもチャレンジする人は素敵だ。
Nathan Duckworth
いつまでも素敵な女性/原ひさ子
ほのぼのとした笑顔が印象的だった
女優・原ひさ子。
彼女には、実は、あるかたくなな一面があった。
8月6日。
広島の原爆投下と同じ日に生まれた彼女は、
自分の誕生日を決して祝わなかった。
すいとんで 反省の夜や 敗戦日
その生き方は、彼女からのメッセージ。
nico
言葉・2011/遠藤賢司
一年前の今日、
地面が大きく揺れたとき、
これでもう終わったんだな
やりたいこともあったのになあと思った
と語ったのは、ミュージシャン・遠藤賢司(えんどうけんじ)。
そんな、不安にくれる彼の気持ちを救ってくれたのは、
震災から数日後のとても些細なできごとだった。
郵便屋さんがバイクでやって来て
ポトッ、ポトッと、ポストに郵便物を入れる。
その音に、彼ははたと、
あ、いい音だな。
と、希望を感じたのだという。
人をいちばん安心させるのは、日常の美しい音なのかもしれない。
言葉・2011/和合亮一
福島在住の詩人、和合亮一(わごうりょういち)。
震災のあと、3月16日の夜から
彼は日々、ゆれ動く自分の気持ちをことばに託して、
ツイッターで発信してきた。
和合は、震災以来
自分の暮らす街の空気がどこか変わってしまったと感じ、
「空気が恐い顔をしている」と綴った。
さらに、彼のことばはこう続く。
恐い顔をしないでおくれ。
きみがそんな顔をしていると、みんなだって、頑なになるしかない。
福島よ。風よ。優しく笑っておくれ。
涙と微笑みとが入り混じったようなそのことばに、
いまも多くの人からの反響が寄せられているという。
言葉・2011/ウルトラマン
一年前の震災の日、
たくさんの子どもたちが眠れない不安におそわれた。
その姿を見て、黙っていられなかったのだろう
あのウルトラマンからメッセージが届いた。
それは、すべてひらがなで、ツイッターに優しくつぶやかれていた。
震災から14時間後の明けがただった。
きみのことは、ぼくや、みんながまもるよ。
きょうはゆっくりおやすみ。
寿
野球をおもしろくした男たち/高畠導宏
落合博満選手、イチロー選手、小久保裕紀選手。
プロと呼ばれる人たちは
何か特別な才能に恵まれているように見える。
けれども、
彼らをずっと育ててきたバッティングコーチ
高畠導弘(たかばたけ みちひろ)は
「才能」というものについて、ただひと言、こんなふうにあらわした。
才能とは、決してあきらめないこと。
野球をおもしろくした男たち/ある少年
異なる野球リーグの人気選手同士が
一晩限りのドリームチームを結成するオールスター戦。
このイベントは
1933年、シカゴ万博のスポーツ記念行事としてはじまった。
そのきっかけは、ある一人の少年のこんな手紙だったとされている。
カール・ハッベルが投げて、ベーブ・ルースが打つ。
そんな夢のような試合が見たいのです。
この手紙に心を動かされた
当時の担当者アーチ・ウォード氏は、実現に向けて尽力。
結果、5万人もの観客を集める大イベントになった。
少年の素直な願望は、野球の世界に
新しいたのしみをもたらしたのだった。
野球をおもしろくした男たち/嶋田宗彦
和歌山県・箕島(みのしま)高校出身の野球選手、
嶋田宗彦(しまだ むねひこ)。
彼が出場した、1979年 夏の甲子園は
歴史にのこる名試合だったと言われている。
対戦相手は、石川県の名門・星稜(せいりょう)高校。
両者同点のまま迎えた、延長12回。
星稜高校が1点を追加、箕島高校は窮地においこまれる。
敗戦ムード一色の中、打順がまわってきた嶋田選手。
彼は、ベンチじゅうに聞こえる声でこう叫んだ。
「カントクーッ、ぼく、ホームラン、狙ってもええですかー!」
そのことばに、誰もがハッとおどろいた。
次の瞬間、チームメイト達が顔をあげると
レフトスタンドをめがけてホームランボールが飛んでいた。
男たちは旅をする/椎名誠
本場のラーメンを求め、中国へ。
プロレスを観に、メキシコへ。
犬ぞりをしに、アラスカへ。
海を見に、ベトナムへ。
さまざまな理由を見つけては
あちこちに旅へと出かけてしまう作家、椎名誠(しいなまこと)。
自らを「旅する作家」と称するほど旅好きの彼に、
いままで行った中でいちばん好きな場所を聞いてみた。
いちばん好きなところは
やっぱりパタゴニアと新宿の居酒屋だなあ
あたらしい場所であたらしいものと出会えるのも、旅のいいところ。
いっぽうで、いつもの場所の大切さに気づけるのも、
旅のいいところかもしれない。
旅と男/倉岡裕之
山岳ガイド、倉岡裕之(くらおかひろゆき)。
世界の山々を旅した彼だが、
何度登っても山への不安は消えないのだという。
けれど、この不安感こそが大切なのだという。
心配するからこそ、
すべての危険を乗り越える解決策を見出す
不安は、試練を大胆に乗り越えるために必要なものなのだ。
男たちは旅をする/沢木耕太郎
「深夜特急」などの代表作で知られる作家、
沢木耕太郎(さわきこうたろう)。
彼は、あるときユーラシア大陸を旅した。
目的をもたず、期限も設けず。
いつを旅の終わりにするかは自分次第だった。
沢木は、旅を終えるにふさわしい場所を探していた。
そこが夢のような景勝地や桃源郷である必要はないが、
どこか心に深く残る土地であってほしい
そう思っていた。
そして、沢木の旅は
ユーラシア大陸のいちばん端、
ポルトガルのサグレスという町で終わりをむかえる。
水平線にはいままさに昇ろうとする朝日が輝いていて、
そこで朝食を食べていたときに、
ふと「帰ろう」と思ったのだという。
言葉のはじまり/ある映画の翻訳チーム
1953年公開のハリウッド映画『Terminal Station』は
恋愛映画の名作として知られている。
この作品が日本で公開になる際、
原題の雰囲気にふさわしい日本語が当時見あたらなかった。
そこで翻訳チームの面々が頭をひねって、
こんなことばをつくりだした。
Terminal Station.
“終着駅”。
映画らしい情感あふれるその言葉は、
のちに歌謡曲や小説のタイトルとしても
多く使われるようになる。
言葉のはじまり/吉田松陰
自分のことを“僕”と呼び、
相手のことを“君”と呼ぶ。
この“僕”と“君”ということばを最初に使ったのは、
松下村塾をつくった吉田松陰であると言われている。
「下僕」ということばがあるように、
“僕”は自分のことをへりくだって言う表現。
いっぽう“君”は、
「君主」ということばがあるように、相手を立てた表現。
松下村塾出身の高杉晋作は、
奇兵隊を結成した際、この考え方を導入した。
ひとりひとりがどんな身分であろうと、
自分のことを“僕”と呼び、相手を“君”と呼ぶことでお互いに敬意を表す。
武士と町人、農民が
身分にとらわれず共に戦う奇兵隊にとって
身分を超えた呼びかたはぜひとも必要なものだった。
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