大友美有紀

大友美有紀 18年12月2日放送

181202-05
Peter Forret
「アルゼンチン」タンゴ

日本とアルゼンチンの外交関係が始まって
今年で120周年。アルゼンチンといえば「タンゴ」だ。
日本では、タンゴは官能的なダンスだと思われているが、
現地では少し違うようだ。
ブエノスアイレスのタンゴサロンでは、
年配の男女が、自然な動きでステップを踏んで楽しんでいる。

タンゴは、もともと場末の酒場で演奏されていた音楽であり、
不満や希望、失恋や恋物語が歌われる、貧困階級の音楽だった。
喧嘩のかわりに、男同士で踊ることもあった。

それが1913年頃、フランスで紹介され、
ヨーロッパで高い評価を受けた。
そして世界中に広まっていったのだ。

タンゴの、どこかしら哀愁のある響きには、
その歴史が隠れていたのだ。

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大友美有紀 18年12月2日放送

181202-06

「アルゼンチン」ガウチョ

若い女性たちが好んで穿くガウチョパンツ。
裾が広がった七分丈ぐらいのワイドパンツ。
南米のカウボーイが穿いていたパンツに由来するというが
そのルーツはアルゼンチンにある。
正確に言うと「ガウチョ」はカーボーイではない。
18世紀末に大草原地帯バンパに住んでいた、農村の人々。
一般的な社会生活に反抗し、馬の扱いが上手で
定着を嫌い、移動生活をしていた人々のこと。

ガウチョは、南米の在来言語・ケチュア語のワッチュ、
流浪の民や孤児という意味の言葉が変化した呼び名。

アルゼンチンの大草原で馬を走らせていた人々の呼び名が
2世紀を経て、日本ではつらつと生きる女性たちの
最先端のファッションとなった。

日本とアルゼンチンの外交関係が樹立されて、
今年で120周年。

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大友美有紀 18年12月2日放送

181202-07
Du Monde Dans L’Objectif
「アルゼンチン」マテ茶

アルゼンチンの国民的飲み物、マテ茶。
近年、その健康効能が注目され、飲むサラダとも呼ばれている。
アルゼンチン人は肉食が多い。野菜不足を補うために
200年ほども前からマテ茶を飲んでいたと言われている。
けれど、健康を意識して飲んでいたのかは定かではない。

アルゼンチンでは、家に遊びにいくと
金属製のストロー「ボンビージャ」で飲むマテ茶を出してくれる。
友情のしるし、信頼の証として、
ボンビージャで回し飲みをするしきたりがある。

日本のハーブティーショップでもよく見かけるマテ茶。
今年は日本とアルゼンチンの外交関係が始まって120周年。
ボンビージャで回し飲みをするような友情は生まれただろうか。

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大友美有紀 18年12月2日放送

181202-08

「アルゼンチン」パタゴニア

南米大陸にあるアルゼンチン。
その中部から南部にかけて広がる地域が
パタゴニアだ。
高級アウトドアブランドの名としてなじみ深い。
大航海時代、この地を訪れた冒険家マゼランが
先住民族の足の大きさにおどろき
「パタゴネス」と呼んだのが始まりだった。
年間を通して、強い風が吹く地域。
氷塊や氷壁がくずれおちる氷河、
フラミンゴやペンギン、アシカなどの野生の動物。
切り立った山岳地帯、希少な植物も見ることができる。
遠い、地図にも載っていない、架空の国のような場所。

日本とアルゼンチンの外交関係樹立から、
今年で120周年。
パタゴニアは確かにそこにある

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大友美有紀 18年11月4日放送

181104-01

「泉鏡花」金沢生まれ

今日は小説家、泉鏡花の誕生日。
1873年、明治6年の11月4日に
石川県金沢に生まれた。本名は鏡太郎。
生家は今、記念館になっている。
主計茶屋街、ひがし茶屋街にほど近い場所。
父は金細工の職人、母は江戸、下谷の生まれ。
能楽に関係のある家の出だった。

 鏡花が数えで10歳の時、
 母が28歳で亡くなる。
 この母の死が鏡花の文学に
 大きな影響を与えている。
 
彼の物語には、母の面影を感じる女性が多く描かれる。
そして、能や狂言をモチーフにした小説も多い。
明治から昭和に生きた作家の
雅で妖艶な作品の源流を感じる。

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大友美有紀 18年11月4日放送

181104-02

「泉鏡花」謡(うたい)

今日は小説家、泉鏡花の誕生日。
金沢に生まれた鏡花の父は、
金細工の職人だった。
金沢は、今も昔も能が盛んな地。
加賀藩の藩祖、前田利家も能に傾倒していた。
能楽を武家の式楽として育成し、保護し、
武士のたしなみとした。
そして庶民、職人にも身につけるよう奨励していた。

 ひがし茶屋街を歩くと
 高いところで作業する大工や
 植木職人が謡(うたい)を口ずさむ声が聞こえ
「空から謡が降ってくる」と言われたほどだった。

鏡花の父も職人だった。
謡のたしなみがあったのかもしれない。
鏡花の作品には謡曲や、謡が登場するものも多い。

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大友美有紀 18年11月4日放送

181104-03

「泉鏡花」尾崎紅葉

数え10歳で母親を亡くした、泉鏡花。
幼少期から、母が残した江戸後記の小説類、
草双紙(くさぞうし)を読んでいた。
そして長じて尾崎紅葉の小説に出会い、耽読した。
尾崎紅葉のように小説家になりたいと
志を決め、上京するのである。
1919年、明治23年、鏡花18歳のときのことだった。
しかし紅葉を訪ねる勇気はない。
知り合いを頼って、居候のような生活をし、
1年ほどは、東京のあちこちをさまよっていた。

 万策尽き果てて、金沢に帰ろうとしたが、
 せめて帰る前にひと目でも紅葉先生に会いたいと
 牛込の尾崎宅を訪ねた。

玄関先で、鏡花は紅葉に挨拶をした。
先生の小説を読んで小説家になりたいと思って上京したのだが、
もうとてもやっていけないので、これから帰郷すると告げた。
紅葉は、そんなに小説家になりたいのなら
俺のところにおいてやると即座に答えたという。
なぜ、尾崎はそんなことを言ったのか。
鏡花の中になにか、ただならぬものを感じたのか。
ともあれ、鏡花はそのまま尾崎紅葉の内弟子となったのだ。

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大友美有紀 18年11月4日放送

181104-04

「泉鏡花」母の面影

今日は、小説家・泉鏡花の誕生日。
生涯で300余りの作品を残した。
そのほとんどが男女の物語。
それも女が中心の物語だ。

 遊女や芸者のような美しく幸薄い女、
 伯爵夫人のような可憐な女、
 しかしながら心の奥底に
 強さや、やさしさをも備え持っている。
 
鏡花の母は、28歳で亡くなっている。
彼にとって母親は、いつまでも若く美しい。
彼の物語に登場する女には、どこか母親の面影がある。
泉鏡花の中には、お母さんを求める少年が
ずっとずっと生きていたのだろう。

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大友美有紀 18年11月4日放送

181104-05

「泉鏡花」すず

今日は、小説家・泉鏡花の誕生日。
鏡花の筆名は師匠であった尾崎紅葉が名づけた。
紅葉の内弟子だった鏡花は、やがて
新進小説家として認められ尾崎の家を出る。
そして神楽坂の芸妓、桃太郎と出会い、恋に落ちてしまう。
先生には内緒で一緒に住むようになった。
その師匠の紅葉は、胃がんを患っていた。
 
 紅葉は病床で烈火の如く怒った。
 まだ結婚できる分際ではないと言うのだ。
 鏡花は桃太郎と別居せざるを得なくなる。

紅葉はその叱責のあと、38歳で亡くなってしまう。
このときの苦しみが小説「婦系図(おんなけいず)」となる。
芸妓・桃太郎の本名は「すず」といった。
鏡花の母と同じ名前だった。

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大友美有紀 18年11月4日放送

181104-06

「泉鏡花」うさぎ

今日は、小説家・泉鏡花の誕生日。
鏡花の生家は、今では記念館になっている。
そのロゴマークは鏡花とうさぎのイメージが
一筆書き風に騙し絵のようにデザインされている。
鏡花はうさぎグッズのコレクターでもあった。
彼は酉年である。
自分の干支から7番目の干支、
つまり十二支を時計のように並べたとき、
向かい側に来る干支の動物を集めると縁起がいいと
言われている。酉年の向かい干支は「うさぎ」だ。
 
 鏡花は最愛の母から水晶の兎の置物を
 お守りとして授けられた。
 それをきっかけとして、兎のものを
 熱心に集めていた。

ここにも母への渇望を感じる。
自分の干支と向かい干支は、正反対の性質を持つという。
鏡花の師匠である尾崎紅葉の干支は、うさぎだった。

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