大友美有紀

大友美有紀 18年5月6日放送

180506-02

「日本美の再発見・ブルーノ タウト」旅館

ドイツの建築家ブルーノ タウト。
ナチスの嫌疑から逃れるため日本へやってきた。
最初についたのは駿河湾。
その夜、タウトは夫人とともに旅館へ泊まる。

 宿の玄関では女中や番頭が
 驚くばかりていねいにお辞儀をして
 私たちを迎え入れた。
 私たちはそこで靴を脱ぎ、
 畳の上に座って夕食をとった。

このような幸福は、夢のような想像でしか
描くことができなかったと語る。

タウトは、しばらく日本に滞在したのち、
アメリカに渡る予定だった。
しかし手続き上の問題でその後3年半、
日本にとどまることになる。
それは日本の美にとっては幸福だった。

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大友美有紀 18年5月6日放送

180506-03

「日本美の再発見・ブルーノ タウト」桂離宮

ドイツ人建築家ブルーノ タウトは、
その著書の中で
桂離宮はギリシャのアクロポリスから受ける印象が
実に良く似ていると断言している。
両者ともに数世代を経て洗練を重ねた結果、
特殊なもの偶発的なものをことごとく脱却した
純粋な形式であると。
 
 障子を閉め切った部屋は深い静けさを湛えているのに、
 障子をあけると「絵」のような庭が
 あたかも家屋の一部ででもあるかのように、
 突然私たちの眼の前に
 圧倒的な力をもって現出する

タウトが著した「ニッポンーヨーロッパ人の眼で観た」は、
空前の桂離宮ブームを起こすこととなる。

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大友美有紀 18年5月6日放送

180506-04

「日本美の再発見・ブルーノ タウト」伊勢神宮

ドイツ人建築家ブルーノ タウトは、
1933年に来日後、精力的に各地を巡り、
日本への認識を深めていく。
桂離宮と並んで、感銘を受けたのは伊勢神宮だった。

 日本が世界に与えた一切のものの源泉、
 まったく独自な日本文化を開く鍵、
 完成せる形のゆえに全世界の賛美する日本の根源
 それは外宮、内宮、および荒祭宮(あらまつりのみや)をもつ
 伊勢である。

そこには日本文化のすべての優れた特性が
渾然と融合して見事な結晶をなしているのだという。
80年以上前にここまで言い切るドイツ人がいたことに
感銘を受けてしまう。

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大友美有紀 18年5月6日放送

180506-05

「日本美の再発見・ブルーノ タウト」旧日向別邸

ナチスから逃れて日本へやってきた建築家ブルーノ タウトは、
当初3ヶ月ほどの滞在だと考えていた。
だが旅券の手続きがなかなか進まず
建築の仕事をすることができなかった。
日本唯一のタウトの作品は、
熱海の旧日向別邸だ。

大阪の実業家、日向利兵衛は、
タウトに依頼して、
熱海の邸宅の地下に居間と社交場を作った。

 全体として明快厳密で、ピンポン室あるいは舞踏室、
 洋風のモダンな居間、日本座敷および日本風のヴェランダを、
 一列に並べた配置は、すぐれた階調を示している。

桂離宮の面影も感じるこの建物は、
重要文化財に指定され、公開されている。

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大友美有紀 18年5月6日放送

180506-06
小池 隆
「日本美の再発見・ブルーノ タウト」洗心亭

ドイツ人建築家ブルーノ タウトは、日本各地を旅したのち、
1934年8月、夫人とともに
高崎市郊外の少林山達磨寺の洗心亭に移り住む。
蝉の声が鳴り響き、樹々が生茂り、
村の人が気軽に訪れる住処。

 此処こそ私が去りがてに思った最初の土地である、
 私たちはできることならこの清閑と質素な生活、
 また私たちを取りまく諸人の親切を味わいつつ
 秋の更けるまで滞在したいとねがっている

ここで、日本文化に関する本の多く読み著述も行った。
方丈記で鴨長明の庵が1丈しかないことを知ると
「私の洗心亭の方が少し広い」と書いた。
そして日本を去る日まで、居留していた。

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大友美有紀 18年5月6日放送

180506-07
chrissam42
「日本美の再発見・ブルーノ タウト」カマクラ

ドイツ人建築家ブルーノ タウトは、ナチスから逃れて
日本へやってきた。日本文化を学ぶ旅で、農村にも興味を持った。
冬の横手である景色に出会う。

 夕食後、町を散歩する。素晴らしい美しさだ。
 こんな美しいものを私はかつて見たことはなかったし
 またまったく予期もしていなかった。

それはろうそくが灯ったカマクラだった。
コンロの上では汁がグツグツと煮えている。
小さな男の子と女の子が
年上の少年少女をお客に迎えている。

雪の中の静かな祝祭。
土地の人にとってはごく普通の日常かもしれない。
タウトは、ここに美しい日本があると感じた。

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大友美有紀 18年5月6日放送

180506-08
Video
「日本美の再発見・ブルーノ タウト」別離

1936年、日本は戦時体制がすぐそこに迫っていた。
ドイツ人建築家ブルーノ タウトは、建築の仕事ができないまま、
日本に来て3年半の月日が経っていた。
友人も日本を去ることを勧める。
トルコから国立芸術大学の建築科主任教授にと要請が来る。
タウトはそれを受けることにした。

 日本よ!
 私が日本を去ったらどんなにか君に
 あこがれることであろう。

最後の日、東京駅で大勢の人がタウトを見送った。
タウトは「日本文化万歳!」と微笑みながら、
涙がこぼれていた。

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大友美有紀 18年4月7日放送

180407-01
sniggie
日本の色 春はあけぼの

 春はあけぼの。
 やうやう白くなりゆく山ぎは、

有名な「枕草子」の冒頭部分。
日が昇り、光の変化とともに
色味が変わっていく様子が描写されている。
日本の色の名、「アカ」「クロ」「シロ」「アヲ」は
光の色から生まれたとする説がある。

アカは、夜明けの赤く染まる空。
クロは、太陽が沈んだあとの闇。
シロは、夜が明けてあたりがはっきりと見えること。
「顕著」の「ちょ」が転じた言葉とされる。
アヲは、夜明けと闇の間の状態からきている。

太陽の移り変わりを見つめていた古代人が
生み出した色の名だという。

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大友美有紀 18年4月7日放送

180407-02

日本の色 禁じられた紅(アカ)

「庄屋惣百姓共に
 衣類紫紅梅に染間敷候」
しょうや、そうびゃくしょう ともに
 いるい むらさきこうばいに そめまじきこと

これは寛永20年の禁止令。
庄屋、農民などが、紫根染めの本紫、(しこんぞめのほんむらさき)
紅花染の紅梅色を着ることを禁じている。(こうばいいろ)

江戸時代、幕府は町人の経済的発展を懸念して、
頻繁に「奢侈禁止令(しゃしきんしれい)」を発令し、
町人の贅沢を禁じた。

ところが江戸町人は法の目をかいくぐり、
表地は地味色の木綿縞を使い、
裏地に絹織物を使い、
偽紫や偽紅梅などの色をつくり出して染めていた。
これぞ、江戸町人の意気込み、「粋」だった。

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大友美有紀 18年4月7日放送

180407-03

日本の色 異世界との境界の色、黒

 粋な黒塀 見越しの松に
 仇な姿の 洗い髪

春日八郎が歌った「お富さん」の歌詞。
くろべいとは、黒い塀のこと。
江戸では、料亭、小唄の師匠、
お妾さんの住まいなどは黒塀で囲まれていた。
吉原の大門には黒い瓦屋根があった。
江戸城の鬼門にあたる上野寛永寺。
その表門も黒かったという。
闇から生じた「黒」は境界の色であり、
特別な存在を意味する色であった。

江戸末期に来航したペリーの黒船は、
偶然とはいえ「異世界からの来訪」を象徴したのだろう。
文明開化で日本に取り入れられた蒸気機関車、自動車、
人力車も鉄製で黒い色をしていた。
当時はポストでさえ黒かった。
西洋の黒いものたちを使うことで、
無意識のうちに異世界を日常に
取り入れようとしたのかもしれない。

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