大友美有紀

大友美有紀 18年4月7日放送

180407-04

日本の色 フジタの白

 グラン・フォン・ブラン
 すばらしい肌の白

1920年代パリに渡った日本人画家、
藤田嗣治が描いた「寝室のキキ」に寄せられた賛辞だ。
フジタは、浮世絵で表現されている
肌の白さや黒の輪郭線を再現することが、
日本人画家としての独自性になると考えた。
浮世絵の白を表現するために、
キャンバスに木綿のシーツのような
やわらかな生地を張り、
何種類もの顔料を使って白を描き出し、
最後にてかりを抑えるために
タルカムパウダーを用いた。
独自性を出すには、独自の方法が必要だった。

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大友美有紀 18年4月7日放送

180407-05

日本の色 紺屋

「紺屋の明後日」
 約束が当てにならないこと
「紺屋の白袴」
 他人のことに忙しくて自分のことができない状態

江戸時代、幕府によって贅沢が禁じられた町人は、
絹や錦、金糸銀糸、紅花や本紫の染め物などを
使うことができなかった。
着ていたのは、藍染木綿の縞の着物。
農民も藍染の木綿や麻の野良着を着ていた。
藍は丈夫で汚れが目立たない。
においが強く、蝮や害虫がよりつかない。
洗えば洗うほど色が冴える。保温効果もある。
大工、左官、職人たちも仕事着として着るようになり、
商家ののれん、風呂敷、布団、座布団、手ぬぐい、
漁師の晴れ着にまで使われるようになる。
町には数多くの藍染屋「紺屋」や「青屋」が登場する。
大繁盛したために「紺屋の○○」などという言葉までできた。
幕府が贅沢を禁じてくれたから、
今の時代の私たちも藍の良さを知り、
藍を楽しむことができているのだ。

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大友美有紀 18年4月7日放送

180407-06

日本の色 藤色

 森に咲く小さな花々の模様を飾った
 えもいわれぬ似つかわしい色合いの
 たいそう淡くたいそう地味な藤色の
 朱子織の長い衣裳が
 とりどりの真珠をちりばめた
 硬い縫取りにおおわれている。

明治時代の外相、井上馨の夫人が
舞踏会で着ていた衣裳だ。
フランス海軍将校の観察日記に記されている。

 ほっそりとした鞘型の胴着、
 ようするにパリに出しても
 通用するような服装

と続く。
不平等条約の解消を目的とした鹿鳴館での饗応。
「たいそう地味な藤色」もパリで通用するならば、
舞踏会の開催はあながち間違いではなかった。

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大友美有紀 18年4月7日放送

180407-07

日本の色 柿色

 ああ綺麗な柿だ。
 あの柿のような色を出したいものだ。

江戸時代前期の陶工、
酒井田喜三右衛門は、仕事に疲れて縁側に座っていた。
ふと見上げると柿の実が輝くように夕陽に照らされていた。
それから5、6年取り付かれたように
柿色の焼き付けにのめりこんでいった。
そうして作りあげたのが、
九州有田の「赤絵」といわれる色絵磁器である。
時の藩主、鍋島光茂がこの「赤絵」を見て、
まるで柿のような色なので、柿右衛門と名乗るように
と言ったと伝えられている。

これが酒井田初代柿右衛門、誕生の物語である。
太陽と自然からもらった色と名だった。

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大友美有紀 18年4月7日放送

180407-08

日本の色 ピンク

 はしきやし、吾家(わぎへ)の毛桃、本しげみ
 花のみ咲きてならざるめやも

万葉集、詠み人知らず。
桃の花がこんなに茂っているのに
実を付けないわけがないでしょう。
実とは恋を指し、桃が恋愛成就の象徴として詠われている。
桃色は少女の色であり、恋の色である。
日本語で使われる「ピンク」にも、
愛情や性的な意味合いがある。
けれども、元来英語のPINKは、
撫子やナデシコ科の植物・石竹(せきちく)の意味。
艶っぽい含みはない。
色に意味を見いだし、感情を重ねる。
日本の色は奥深い。

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大友美有紀 18年3月4日放送

180304-01
Rob Dammers
「映画監督」クリント イーストウッド 15時17分、パリ行き 本人役

3月1日から、日本で公開されている、
クリント イーストウッド監督の映画、
「15時17分、パリ行き」。
35本目の監督作品だ。
実際に起った銃乱射事件を題材にしたこの作品は、
現実にこの事件に巻き込まれた本人たちが
自分の役を演じている。

 ある日、彼らに
 君たち、自分自身を演じることができると思うかね?
 と問いかけてみた。
 うまくいくかどうかはわからなかったよ。
 ただこの3人と一緒に歩みたいと感じただけだ。

クリント イーストウッドは、
演技は知性的な芸術ではなく感情的な芸術だと考える。
実在の事件を映画にすることの多い監督は、
その場の感情を見つめたいと思っているのかもしれない。

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大友美有紀 18年3月4日放送

180304-02

「映画監督」クリント イーストウッド 1992年、許されざるもの

クリント イーストウッドはテレビドラマ出身の西部劇俳優だった。
1980年代後半、出演作はことごとく失敗。
アクション俳優としての実力が、歳とともに衰えていくのは、
仕方のないことだった。
そして1992年、「許されざる者」を監督する。
年老いたガンマンが、賞金稼ぎのために
再び銃を手にする映画だ。

 善人はすべてが善でなく、
 悪人はすべてが悪でないというのが好きだ。
 だれでも欠点をもち、誰でも自分のすることに
 対して理屈をつけたり正当化したりする。

 
1982年か83年に、この映画のオファーがあった時、
クリントはもう少し歳を取ってからの方が、
この役にふさわしいと感じた。
だから「宝物としてしまっておいた」という。
自分の状況をしっかり分析していたのだ。

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大友美有紀 18年3月4日放送

180304-03
Giube
「映画監督」クリント イーストウッド 2013年、許されざる者

クリント イーストウッドが宝物としてしまっておいた映画、
「許されざる者」は、2013年、日本で再び映画となった。
監督、李相日(りさんいる)、主演、渡辺謙、
佐藤浩市と柄本明が共演した。
幕府崩壊後の刺客の物語だ。
作品の完成を祝して、クリント イーストウッドから
メッセージが届いた。

 私の長い映画人生の中で最も大切で、
 自分の人生に大きな影響を与えた作品『許されざる者』が、
 最愛の国・日本で、日本映画として甦ったことをとても幸せに感じています。
 かつて、私は黒澤明監督の『用心棒』に感動し、
 『荒野の用心棒』に出演したのを思い出します。
 そして今、日本映画界の最高のスタッフとキャストが、
 私の「許されざる者」に感銘をうけてくれたと聞いています。
 これにも何か深い縁や絆を感じざるを得ません。
 日本を舞台に 滅びゆく者たちの生き様を壮大に描いただけでなく、
 激しくも美しい魂が詰まっているこの作品に
 日本映画の新たな時代の幕開けを感じました。
 私の愛する日本の美しい風景や文化を通じて、
 見るもの全ての人々に驚きと優しさを与えてくれます。


日本版「許されざる者」は、日本映画界、世界の映画の歴史に残る
素晴らしい映画になることを期待している、と結んだ。

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大友美有紀 18年3月4日放送

180304-04
adrperez
「映画監督」クリント イーストウッド グラン・トリノ

主人公は、朝鮮戦争の従軍経験を持つ気難しい男。
近所に引っ越してきたアジア系の移民一家との交流を通じて、
自分の偏見に直面し葛藤する。映画「グラン・トリノ」だ。
脚本家ニック・シェンクが昔働いていた工場にアジア系の移民が大勢いた。
彼らを映画に取り上げるのは、いい方法だと思った。
クリント イーストウッドは主演・監督を務めた。

 この主人公は、私と同じぐらいの年齢だし、
 同じような性格だからかな。
 でも私はあそこまで気難しくはないし、
 あのキャラクターほど、物事に対して否定的でもないよ。

 
クリント イーストウッドは、カメラの前に立った理由を話し、
見ている人にどこかで主人公と同じような感情があることに
気づいてもらえると思う、と語った。

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大友美有紀 18年3月4日放送

180304-05
DVIDSHUB
「映画監督」クリント イーストウッド アメリカン・スナイパー

〝伝説のスナイパー〟と言われた、実在の狙撃兵の家族との絆、
葛藤を描いた「アメリカン・スナイパー」。
クリス・シールズの自伝「ネイビー・シールズ 最強のスナイパー」を
映画化した作品だ。
監督であるクリント イーストウッドは、
主人公は、弱者のために戦う意義を信じている、
大柄で強い少年だったと語る。

 戦争がひとりの人物に与えるダメージが明らかになるが、
 家族全体に与えるプレッシャーも描かれている。
 戦場に送り込まれるときに、どれだけの危険があるかを思い出し、
 そして、彼らが払う犠牲を再認識することは大切だ。
 だからこそ私は、このストーリーを語ることが
 特に意味深いものだと思ったんだよ。

「アメリカン・スナイパー」には、緊迫したアクションが満載だ。
けれど、ストーリーを展開させていくのは人間関係。
戦争や犯罪を多く描いてきた映画監督、クリント イーストウッドは、
暴力を描くのではなく、人間を描く。
彼の映画が多くの人に影響を与え続ける理由が、そこにある。

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