大友美有紀

大友美有紀 18年3月4日放送

180304-06
roger jones
「映画監督」クリント イーストウッド デジタル

クリント イーストウッドは、デジタルカメラで映画を撮る。
なぜなら、すごく昔にフィルムの映画に出ていたから、
フィルムに偏見があるからだという。

 デジタルはついに、すごくいいところまできたんだ。
 そして、ほとんどの映画館は、99%はデジタル映写なんだ。
 だから、フィルムで撮影して、それを編集するために
 デジタルの変換するような・・・・ なぜ、そんな面倒なことをするんだい?
 今はデジタルの技術がすごく良くなった。そこから立ち去るのは難しいよ。
 ある人々は今も伝統主義者だ。理解できるが大変だ。
 なぜなら今のデジタルカメラは、
 カットせずに26分間続けて撮れるんだ。

クリント イーストウッド、86歳のときの言葉だ。
なんという柔軟な考えだろう。

topへ

大友美有紀 18年3月4日放送

180304-07
Greg L
「映画監督」クリント イーストウッド ハドソン川の奇跡

制御不能となった旅客機をハドソン川に不時着させ、
乗客全員を救った機長のその後を描いた映画、「ハドソン川の奇跡」。
クリント イーストウッドは、実話に基づき、
ストーリーに不必要なものをすべて取り除いて、
シンプルに簡潔に映画化している。

 僕は不必要なものがたくさんある映画を、以前作ったことがある。
 でも、人生が進むにつれて、
 もっと要領を得たものを作るようになってきたと思う。
 多分、僕が以前よりせっかちになってきているからかもしれない。
 早く本題に入れるなら、観客はじっと待っていなくても
 いいことにしようと決めたんだ。

「ハドソン川の奇跡」で彼が付け足した唯一のことは、
飛行機が墜落する最初の悪夢のシークエンスだけだった。
観客を映画に引き込むためのプラスアルファだった。

topへ

大友美有紀 18年3月4日放送

180304-08
andrewasmith
「映画監督」クリント イーストウッド 15時17分、パリ行き 実話

数多くの実話を元にした映画を撮り、
リアル・ヒーローの信念と葛藤を描いてきた
映画監督クリント イーストウッド。
3月公開の「15時17分、パリ行き」も現実に起きた事件を描いている。

 大きな英雄劇だし、すべて真実だし、
 信念もあるし、我々が知らないことがたくさんあって
 ぜひ皆が知るべきだと思ったから
 
事件解決にあたった人物が本人役で出演。
撮影も事件現場で行った。
クリント イーストウッドは、
他の人間のフィルターを通して、この映画を描きたくなかったという。
リアリティを追求し、観客に追体験させる。
映画に関わるすべての人に「気づき」があるように。
それが、クリント イーストウッドの、最新のヒーローの描き方だ。

topへ

大友美有紀 18年2月4日放送

180204-01

「カオス トゥ クチュール」ヴィヴィアン ウエストウッド 私がやりました

ファッションデザイナー、パンクの女王、
ヴィヴィアン ウエストウッド。
学生時代、食事の時間、
先生がお喋りしていた生徒は立つように命じた。
ヴィヴィアンは、しゃべってもいないのに
「わたしです」と立ち上がった。

 名乗り出たことをほめられるんじゃないかと
 思ったの。案の定、先生はほめてくれたわ。

 
ヴィヴィアンは他の子も立ち上がると思ってた。
でも名乗り出たのは彼女だけ。
その時、自分が変わり者だと自覚した。
自ら危険にとびこもうとするところがある。
二度とこんなことはしない。
でも、そうはいかなかった。

topへ

大友美有紀 18年2月4日放送

180204-02
CucombreLibre
「カオス トゥ クチュール」ヴィヴィアン ウエストウッド キリスト像

ファッションデザイナー、パンクの女王、
ヴィヴィアン ウエストウッド。1941年生まれ。
今年77歳。最近は環境保護活動にも力を入れている。
5歳のとき、生まれて初めてキリストの磔の像を見た。
キリスト誕生のことは知っていた。
釘で十字架に磔にされたことは知らなかった。

 世の中にあんなひどいことをできる人間が
 いるなんて信じられなかった。
 自分なら絶対人にやらせないし、
 自分にやれと言われたら命を絶つだろう。

 
ヴィヴィアンは自分の反応が特別だったことはわかっていた。
でも、世の中には悪意に満ちた人がいることを知り、
そうなりたくないと思っている自分に気づいた。

topへ

大友美有紀 18年2月4日放送

180204-03
Sulgenau
「カオス トゥ クチュール」ヴィヴィアン ウエストウッド 美術学校

ファッションデザイナー、ヴィヴィアン ウエストウッドは、
第2次世界大戦後のイギリスで10代を過ごした。
当時、ヴィヴィアンが通っていた学校で
女の子が思いつく職業は4つしかなかった。
教師か美容師か看護師か秘書。
そんな時代、美術のベル先生との出会いがヴィヴィアンの人生を変える

 ベル先生と出会うまでわたしは美術館というものがあるなんて
 知らなかった。絵画の図録だって一度も見たことがなかった。
 先生がマンチェスターに美術館があることを教えてくれたの。
 もちろん画家のことは知っていたわよ。
 ミケランジェロとか。でもそういうものは個人が所蔵しているか
 教会にあるものだと思ってた。

先生は、ヴィヴィアンにスケッチをさせ、印象派の画法を教え、
スーラの点描画を見せた。無難な絵を描こうとしちゃダメとも教えた。
ヴィヴィアンはのびのびと自由に絵を描いた。
彼女が洋服のスケッチを描いていたとき、ベル先生は
才能があると言い、美術学校に進むべきだとアドバイスした。

そしてヴィヴィアンは、ハロー美術学校の試験を受け、合格した。

topへ

大友美有紀 18年2月4日放送

180204-04
themostinept
「カオス トゥ クチュール」ヴィヴィアン ウエストウッド 弟の友だち

ヴィヴィアン ウエストウッドはハロー美術学校でたくさんのことを学んだ。
けれどすぐに学校を辞めてしまう。
芸術家として食べていけるはずがないと思い込んでしまった。
お金を稼げる仕事につくために学校に入りなおし、教師となった。
そして結婚し、子どもを授かり、離婚する。
ヴィヴィアンは実家に戻り、子育てをしながら働いていた。
弟の部屋には友だちがよく遊びにきていた。
それがマルコム マクラーレンだった。

 マルコムに会って、わたしは恋に落ちた。
 素敵な人だと思った。
 ハチャメチャなところがあったけれど、
 それでも彼のことをもっと知りたいと思っていた。

 
この出会いが、この二人が、パンクを誕生させることになる。

topへ

大友美有紀 18年2月4日放送

180204-05
brizzle born and bred
「カオス トゥ クチュール」ヴィヴィアン ウエストウッド パンク

 わたしとマルコムがいなければパンクは決して生まれなかった。
 そして、もうひとつ知っておいてほしいのは、
 パンクとは完全なる爆発であること。

始まりはキングス・ロード430番地の知り合いの店だった。
マルコムは50年代のロックンロールのレコードを売っていた。
ヴィヴィアン ウエストウッドは50年代のスーツのレプリカを作って売った。
やがてアレンジを加えたTシャツを売りはじめる。
マルコムは音楽とアートが共存する場がファッションだと言った。
古いものを壊して新しいものをつくる。思想としてのファッション。
ヴィヴィアンは、Tシャツにチェーンやジッパーをつけ、
タバコで焦げ目をつけ、過激な図案や扇動的な文章をデザインした。
Tシャツは、カンバスだった。性と政治と芸術が出会う場所だった。

 当時のわたしの仕事は、そしてわたしが常にやってきたのは、
 体制と対峙して、自由はどこにあり、
 自分にはなにができるかを模索することだった。
 その取り組みを一番わかりやすく実践できたのが、
 Tシャツづくりだった。

閉塞的なムードに包まれていた当時のイギリスにとって、
憤怒と非道と怠惰が融合した表現は、若者たちの心に何かを訴えかけ、
やがてパンクとなっていった。

topへ

大友美有紀 18年2月4日放送

180204-06

「カオス トゥ クチュール」ヴィヴィアン ウエストウッド セックス・ピストルズ

マルコムとヴィヴィアンが生み出す
体制に対抗するアナーキー思想のファッションは
若者をとりこにした。
さらにマルコムは、音楽をセックス・ピストルズを
通じて体制をぶっ壊そうとしていた。
ヴィヴィアンは創作活動を通じてメッセージを伝えることに夢中になった。

 当時わたしがアナーキーの活動を支持したのは、
 若者たちに物事に立ち向かう勇気を与えられると
 思ったからよ。

反社会的なメッセージを込めた扇動的なファッションと音楽は
パンクという現象を生み出した。
その時、確かにカルチャーの潮目が変わった。

topへ

大友美有紀 18年2月4日放送

180204-07
UK in France
「カオス トゥ クチュール」ヴィヴィアン ウエストウッド ファッションデザイナーとして

パンクは、イギリス、アメリカだけでなく、遠く日本にまで影響を及ぼした。
今でも、あらゆるカルチャーにパンクの名残を見つけ出すことができる。
その中心にいたセックス・ピストルズは、たった2年で燃え尽きてしまった。
そしてヴィヴィアンは、マルコム マクラーレンと訣別。
自覚を持ってファッションデザイナーへの道を歩みだした。
ネイティブアメリカン、アフリカ、18世紀フランスなどの要素を
取り入れたデザインを発表する。

 わたしの作る服には物語がある。
 アイデンティティがあるの。
 個性もあるし、目的もある。
 だから定番として長く愛されるのよ。
 わたしの服は時を超えて自分の物語を伝え続ける。

ヴィヴィアン ウエストウッドはパンクの女王から
クチュリエとしての地位を確立した。

topへ


login