大友美有紀

大友美有紀 17年11月5日放送

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「猫は一生の伴侶/大佛次郎」15匹まで

 猫が15匹以上になったら、
 おれはこの家を猫にゆずって
 別居する。

 
文筆家。大佛次郎は、猫好きだったが
あまりに多いのも困ると、15匹までの制限を付けた。
あるとき、数えてみたら16匹いたことがあった。

 「おい、1匹多いぞ。俺は家を出るぞ」と言ったら
 「それはお客様です。ごはんを食べたら、
  帰ることになっています」と女房が言う。

「通い」の猫にも餌をやっている。
妻の方も、大佛に輪をかけて、猫好きだった。

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大友美有紀 17年11月5日放送

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「猫は一生の伴侶/大佛次郎」スイッチョ猫

 私は物など書かないで
 ネコのように怠けて日だまりで寝ていたい。

文筆家・大佛次郎は、
若い時分からネコになることを望んでいたという。
別に書きたいものなく筆を執っていたともいう。
自分の一代の傑作は、ほんとうは終戦後に書いた
「スイッチョ猫」という童話だと。
子猫が庭で遊んで、あくびをしたら、
虫がとびこんでしまい、しばらくお腹の中で鳴くお話。
一緒に暮らす猫を見ている間にできた。

 うずくまっているねこを見まもっていて、
 かれが今、何を考えているのか
 人間のわたくしが想像すると楽しいのでした。

「スイッチョ猫」は珍しく、書いたものではなく
生まれたものだったと言った。

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大友美有紀 17年11月5日放送

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TKY
「猫は一生の伴侶/大佛次郎」風呂の猫

文筆家・大佛次郎の家にはつねに10匹以上の猫がいた。
そのなかで、どうしても他の猫と一緒にいない女猫がいた。
離れて浴室に住んでいる。
寒い時分は、湯船の蓋の上に寝ている。
大佛が「おい、どけよ」といってもどかない。
蓋を2枚ほど開けても座ったまま。
仕方がないので、大佛は小桶で湯を汲んで浴び、
結局は、湯船に入らずに出てきた。

 あとで考えて、おれもおかしな男だ、
 猫に遠慮することもないのに、と思った。

優しい猫好きさんが、
湯冷めしたかどうかは、
わからない。

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大友美有紀 17年11月5日放送

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「猫は一生の伴侶/大佛次郎」荷札

猫好きの文筆家・大佛次郎は、
家で飼う猫は15匹まで、という制限をつくっていた。
それ以外は、外猫、「通い」の猫だ。
庭に猫が捨てられていることもよくあった。
鈴をつけた子猫がよく庭に遊びにきていた。
どこから遊びに来るのかと思って、ある日、

 君ハドコノネコデスカ

と荷札に書いてつけてやった。
3日ほどたってまだ札をさげているから取ってやると

 カドノ湯屋の玉デス、ドウゾ、ヨロシク

と返事が書いてあった。
捨て猫ではなかった。
よかった。

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大友美有紀 17年11月5日放送

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「猫は一生の伴侶/大佛次郎」遺言

猫好きの文筆家・大佛次郎は、
75歳でこの世を去った。
亡くなる4日前、妻と養女とを
病室に呼び遺言を伝えた。
その際、大佛家の今後の猫の飼い方に
注文をつけた。
 
 猫は5匹以上に増やさない。
 贅沢をさせない、
 十分に食べられない人たちもいるのだから

 
猫についての遺言は守られなかった。
大佛の妻が亡くなった時、
12匹の猫が残されていた。
大佛と一緒になる前は、猫に少しも興味はなかったのに。

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大友美有紀 17年10月6日放送

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「プラネタリウム解説員/河原郁夫」104歳まで

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86歳で現役プラネタリウム解説員の河原郁夫。
星空解説を60年以上続けてきた。

 私の健康がゆるす限り、この仕事を続けていたいと
 思っています。希望は104歳まで。

2035年の9月2日、10時5分から10分にかけて、
新潟の糸魚川と茨城の水戸を結ぶ線上付近で
皆既日食を見ることができる。
皆既日食は1年に一度、地球上のどこかで
見ることができるが、日本で見えるのは、
そのタイミングだ。

 美しいコロナを肉眼で見るチャンスです。
 それまでは元気でいるつもりですよ。

河原は、いまでもプラネタリウムに入るとわくわくする、という。

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大友美有紀 17年10月6日放送

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「プラネタリウム解説員/河原郁夫」大事なもの

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 私は、人間が生きていくために大事なものが
 プラネタリウムの中にあるんじゃないかと
 思っているんです。
 すぐに何かの役に立つというものでは
 ないですけれど。

 ときには星の光のことを考えてみる。
 七夕の織女星の光が地球に届くまで
 25年ほどかかります。
 はくちょう座のデネブという星にいたっては
 1424年もかかります。
 今いる人間が誰も生まれていない時代の光を
 今晩見ているんです。なんてすごいこと。
 人生がいかに短いか、わかってきます。

86歳の現役プラネタリウム解説員、河原郁夫は、
小学校4年生のときに「プラネタリウム」という仕事を
見つけられて、本当に幸運だったという。
一生続けられるものがあると、短い人生が豊かになるから。

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大友美有紀 17年10月6日放送

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「プラネタリウム解説員/河原郁夫」天文好きで有名

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「かわさき宙(そら)と緑の科学館」で
プラネタリウム解説員を務める河原郁夫。86歳。
小学生の時から天文好きで有名だった。
あるとき、家で日食を観察するために、
学校をさぼったことがある。
それでも先生からはおとがめなし。
 
 河原、日食は見えたか。
 じゃあ観測結果を発表しろ。
 と怒りもしなかった。

「好きだ、好きだ」とやっていると、
周りが認めてくれる。
黙っていたら誰にも助けてもらえない。
好きなことはどんどんやること。
すると道が開ける。
意志あれば道ありだ。

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大友美有紀 17年10月7日放送

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「プラネタリウム解説員/河原郁夫」ボール紙の望遠鏡

86歳の現役プラネタリウム解説員、河原郁夫は、
幼い頃、貧しくて食べるものもない時代、
星がきれいだったことが救いだった。

 あの星の光が地球に届くまで何年かかるのだろう。
 あの惑星には生物はいるだろうか。
 そんな想像をしながら星を眺めていると
 辛いこともみんな忘れられました。

小学校5年生になると河原少年は、
自分で望遠鏡を作って星の観察を始める。
筒はボール紙、三脚はカメラのもの。
合計10台ぐらい。
家の物干し台を「河原天文台」と呼んで
観測基地にしていた。
夢中になれるものがある。
それは幸運だと、河原はいう。

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大友美有紀 17年10月7日放送

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「プラネタリウム解説員/河原郁夫」プラネタリウムとの出会い

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昭和15年、河原郁夫は小学4年生、
父親に連れられて、有楽町に出来たばかりの
プラネタリウムにでかけた。
こんなに素晴らしいものがあるのかと思った。
星空を映す大きなドーム。
真ん中にはドイツ製の大きな投影機。
BGMは「ツィゴイネルワイゼン」。
河原少年はその空間すべてが気に入ってしまった。

 当時、戦時中で灯火管制をしていましたから、
 空が真っ暗で、星がよく見えたものです。
 本当にプラネタリウムで教わったとおりに見えた。
 おかげでたちまち星座を覚えました。

河原郁夫、86歳。
「かわさき宙(そら)と緑の科学館」で
プラネタリウム解説員を務めている。

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