大友美有紀

大友美有紀 17年8月6日放送

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「軽井沢ソサエティ」避暑地のはじま

明治19年、軽井沢を訪れたカナダ人宣教師、
アレキサンダー・クロフト・ショーは、
スコットランドに似たこの地の寒冷な気候と雄大な景色に魅了される。
自ら山荘を建て、東京の西洋人コミュニティに
軽井沢の素晴らしさを広めていった。
ショーの友人の宣教師たちも軽井沢に別荘を持つようになった。
やがて避暑のために軽井沢を訪れる西洋人が増えてくる。
万平ホテルをはじめ西洋式ホテルが次々と開業する。
旧華族など日本の上流階級や政財界の人々も軽井沢に別荘を建てる。
夏の間、軽井沢の自然を愛する人々が集まり、交流し、娯楽を楽しむ。
軽井沢ソサエティと呼べる「集まり」が誕生する。

 時間と約束を守ること
 ウソを言わぬこと
 生活を簡素にすること

西洋人宣教師たちが住み始めた頃の軽井沢は、
キリスト教的風潮の強い町だった。
「善良な風俗を守り、清潔な環境を築こう」という精神が
軽井沢の歴史と伝統の根底にあり、軽井沢を支えている。

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大友美有紀 17年8月6日放送

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「軽井沢ソサエティ」じろじろ見てはいけない

旧軽井沢銀座の土屋写真店には、皇族の写真をはじめ
この地を訪れた著名な人物の写真が飾られている。

 軽井沢生まれの地元民は、小さい頃から
 「皇族の方々など別荘に住んでいる偉い人たちを
  見かけても、じろじろ見てはいけない」と
 親からきつく言われていた。

1950年代から亡くなるまで毎年、
ジョン・レノンが万平ホテルに長期滞在していた。
通りを散策するレノン一家を見かけても
まとわりつくファンや写真を撮る人はいなかったという。
著名人を特別視しない自由な雰囲気がかつての軽井沢にはあった。

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大友美有紀 17年8月6日放送

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「軽井沢ソサエティ」吉川英治の軽井沢の家

軽井沢には作家や文化人たちの別荘も数多くあった。
国民大衆作家、吉川英治が別荘を手に入れたのは
行きがかり上のことだった。
昭和22、3年頃、知人に「このままでは年が越せない、助けてほしい」と
拝み倒され、軽井沢の一軒家を購入した。
間取りも場所もよくわからない、どんな家かも下見もせずに
成り行きで買ってしまった。
数年後、夏場涼しいところで執筆したいと考えた吉川は、
軽井沢に家があることを思い出した。
いざ探してみると、とても住めたものではなかった。
大掃除をし、仕事場を建て増しし、ようやく腰を落ち着けると
いっぺんで気に入った。以来毎年、夏になると軽井沢を訪れた。
夏休みが終わり家族が東京に帰っても10月半ばまで滞在した。
その時期には知人の作家たちも引き上げてしまう。
残ったのは吉川と画家の梅原龍三郎ぐらいになる。

 秋たけてのこる浅間と画家一人

大作家も寂しさに素直になれる。
それも軽井沢の魅力なのかもしれない。

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大友美有紀 17年8月6日放送

170806-06
663highland
「軽井沢ソサエティ」夏の美容室

銀座で100年以上も店を開いている美容室が
夏の間、軽井沢にも店を出している。
旧華族、政財界の著名人が避暑に訪れていた頃、
その奥様、お嬢様たちも一夏、軽井沢に滞在した。
みな銀座の美容室の常連のお客様だった。

 軽井沢には美容室がなくて、
 困っているのよ。

昭和36年、銀座にいらしているお客様の
アフターケア、という位置づけで出店した。
スタッフはすべて東京から派遣。
以来、毎年営業を続け、
この夏も万平ホテルにオープンする。

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大友美有紀 17年8月6日放送

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663highland
「軽井沢ソサエティ」軽井沢会

天皇陛下と美智子皇后の「テニスコートの恋」の
舞台となったコートは、旧軽井沢の別荘族を中心に
組織された「軽井沢会」が所有している。
大正2年に設立された「軽井沢避暑団」が
発展してできた親睦団体だ。
入会にあたっては一定の制限が設けられている

 会員は、品行方正で節操の人でなければならない。

軽井沢ゴルフ倶楽部は政財界の人間が中心だったが、
軽井沢会は学者肌の人が多かった。
軽井沢でテニスが盛んになったのは
初期にこの地を訪れた外国人たちに由来する。
聖職者が多く、清貧の人たち。
入会に制限を設けた理由がわかるようだ。

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大友美有紀 17年8月6日放送

170806-08
ジゼル1043
「軽井沢ソサエティ」塀のない別荘

かつて軽井沢では友人知人を介して土地を買い、
家を建て、家族ぐるみで交流していた。
誰それの敷地跡に何々さんが家を建てるらしいという話が
自然と耳に入ってきた。
昭和の頃まで「塀」というものもなかった。

 どの別荘も敷地と敷地の間には低く石垣を積んでいるか
 苔むした林によってゆるやかな境界線が引かれているだけ。
 
今や塀はおろか防犯カメラも備え付けられている。
時代が変わった、といえばそれまでのこと。
緩やかにつながり、人となりを知り、交流する。
かつての軽井沢のようなソサエティは、
もうファンタジーなのだろうか。

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大友美有紀 17年7月2日放送

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「抒情画家・漫画家・そして/松本かつぢ」少女雑誌

松本かつぢ、少女漫画の先駆けとなる
「くるくるクルミちゃん」の作者。
昭和のはじめ、少女雑誌が華やかだった時代に、
中原淳一と人気を二分した抒情画家でもある。

 ヨーロッパ的なおすまし屋の夢見る少女は、 中原淳一派。
 アメリカ的なお茶目で明るい少女は、 松本かつぢ派。

かつぢの活躍は、抒情画だけでなく、漫画、
童話画、幼児向けのグッズと、実に多彩だった。

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大友美有紀 17年7月2日放送

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komehachi888
「抒情画家・漫画家・そして/松本かつぢ」いたずらっ子

松本かつぢは神戸に生まれた。
小学校に上がる前から絵を書くことは好きだった。
そして、いたずらっ子でもあった。
外に遊びにいくと、空き家に忍びこんだり、
あちこちで苦情がくるようなことを、しでかした。

 勝ちんや、これをやるから外へ出るんじゃないよ。

母親は、数枚の紙と鉛筆と、
かつぢの大好物のあん巻きと焼き餅を渡す。
すると、かつぢは夢中になって絵を描き、
外へ出なくなるのだった。
夢中になれる、というのは大きな才能だ。

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大友美有紀 17年7月2日放送

170702-03
Rubber Soul
「抒情画家・漫画家・そして/松本かつぢ」カット描き

抒情画家、漫画家、童話画、多彩な仕事を手がけた
昭和のマルチアーティスト、松本かつぢ。
小学4年生の時、父親の仕事の関係で上京する。
中学は全寮制だった。勉強は苦手だった。
特に代数は大きらい。えい、めんどくさいと
放っておいて絵ばかり描いていたら、落第してしまった。
そのうえ、かつぢは、夜な夜な寮を抜け出していた。
よからぬ遊びにふけっているのではないかと、噂になった。
 
 舎監に呼び出されて、
 あわや放校になりかけるんですが、
 じつは、それがわたしを挿絵画家の道に
 進ませるきっかけになるんですな。

当時、かつぢの家は貧しかった。
学費のために、夜間、新聞運びのアルバイトをしていた。
それを知った担任は、雑誌の挿絵を描くように勧めてくれた。
それが博文館の「新青年」。
才能ある新人画家の発掘に力を入れていた雑誌だった。

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大友美有紀 17年7月2日放送

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「抒情画家・漫画家・そして/松本かつぢ」なんでも描いた

挿絵画家、松本かつぢは、西洋、東洋に関わらず、
老若男女の顔を魅力的に描くことができた。
抒情的な絵とコミカルな絵、両方を描くことができた。
漫画というジャンルでも成功することができた。
これは類を見ない才能だ。

 頼まれるから何でも描くので
 自分の画風なんてものはありはしませんでした。

アルバイトで挿絵を描いていた頃、何でも描いた。
自分のタッチがないことに悩んでもいた。
でもそれがのちの才能を開花させるのだ。

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