大友美有紀

大友美有紀 17年7月2日放送

170702-05
Okinawa Soba
「抒情画家・漫画家・そして/松本かつぢ」顔が大事

アルバイトで雑誌に挿絵を書いていた当時、松本かつぢは
大人気の抒情画家・蕗谷虹児(ふきやこうじ)の
渡仏送別記念の写真記事を目にする。
送別会場や横浜港にあふれる、蕗谷のファン。
船の看板で手をふる蕗谷。泣きながら手を振る少女たち。
かつぢは、感激し、格好いい!と、のぼせ上がり、
俺もこんな風になりたい!抒情画を描こう!と決意する。
 
 ある時ひょいと気がついたんです。
 有名な人たちの絵を一目見ただけで、
 誰々の絵だとすぐわかるけれど、
 そのポイントは・・・そうだ顔だ、と。

かつぢは「かつぢの描く少女の顔」というのを一所懸命描き続けた。
今までの抒情画家はオセンチが売り物だから同じ傾向ではいけない。
明るくて可愛い抒情画を工夫しはじめる。
ようやく「かつぢの少女の顔」と自信が持てたのは、それから2年後だった。

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大友美有紀 17年7月2日放送

170702-06

「抒情画家・漫画家・そして/松本かつぢ」クルミちゃん

「かつぢの少女の顔」として自信の持てる絵が描けるようになると、
松本かつぢは抒情画家として活躍しはじめる。
当時流行の雑誌「少女の友」に多数の挿絵を描いていた。
人気も高くなってきた。そんな時、かつぢは少女漫画へ移行する。

 どうしてかといえば・・・。
 それは、ひとくちに言えば、
 もとのびのびと絵が描きたかったからですよ。

そうして生まれたのが「くるくるクルミちゃん」。
お茶目なクルミちゃんはたちまち人気になり、
グッズも生まれ、35年もの間、連載された。

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大友美有紀 17年7月2日放送

170702-07

「抒情画家・漫画家・そして/松本かつぢ」笑ってさよなら

少女漫画「くるくるクルミちゃん」の作者、
松本かつぢは、抒情画も描き続けていた。
毎月毎月、締切に終われ、編集者の催促、泊まり込み、
徹夜での作業が続く。つらかった。
50歳のとき、決心をして「少女雑誌からの引退」を
各出版社に声明する。

 売れているのになぜやめるんだ、ぜいたくを言うな、と
 ずいぶん引き止められましたが、そういわれるうちが
 花なのよ、って笑ってさよならをしました。

少女雑誌は引退しても、絵本の絵を頼まれる。
ベビー用食器やベビーバスなどにも絵を描く、
ベビー用品の製作までする。
物を作ることは、楽しい楽しい仕事なのだ。

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大友美有紀 17年7月2日放送

170702-08
備忘録 旅人
「抒情画家・漫画家・そして/松本かつぢ」伊豆

抒情画家、漫画家、童話画家、松本かつぢには、
7人の子どもがいた。長じて世帯を持ち、次々と孫も増える。
元来子ども好きだったかつぢ。一家はとても仲が良かった。
ただ、子どもたちだけの時よりも、家はもっと賑やかになっていった。

 ウヘッ、わしゃもうかなわんわで、
 伊豆の修善寺の山奥に玄関もない天井もない
 つつ抜けの山小屋を建てて、
 私一人だけは、そこで暮らしています。

 
畑を耕したり本を読んだり、気が向けば絵筆をとる。
一人静かに孤独を楽しむ毎日。
最後の仕事として、草花と2人の幼子をの姿を描いた
「ハームとモニーの12ヶ月」を残していった。

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大友美有紀 17年6月4日放送

170604-01

「激情の人/ゴッホ」 怒りっぽいこども

フィンセント ファン ゴッホ。
数々の激情のエピソードが残る稀代の画家。
13歳の時に寄宿学校に入学するも、
年とともに強情に、怒りっぽくなっていく。
ついに友だちといさかいをおこし、
小学校を退学になってしまう。

 この子は、ものごとを
 あまりにも真面目に考えすぎるのではないか。

牧師だった父は、反抗心の強い我が子に
手を焼きながらも愛情を失わなかった。

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大友美有紀 17年6月4日放送

170604-02

「激情の人/ゴッホ」 牧師への道

小学校を退学になったゴッホは、
画商、寄宿学校の教師、書店勤めと
職につくが、長続きしない。
父の後を継いで牧師になりたいという
気持ちが抑えられなくなる。

 古くからクリスチャンの家系であるわが家には、
 代々いつも神の福音を説く人間がいた。
 僕がいまこの役割を継いだとして、
 なんの不思議があるだろう。

ゴッホは、24歳のとき、アムステルダムで
神学大学に入学するための受験勉強を開始する。

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大友美有紀 17年6月4日放送

170604-03

「激情の人/ゴッホ」 街角の伝道師

24歳の時、ゴッホは、アムステルダムで神学大学に入るための
受験勉強を始める。けれどもギリシャ語の動詞でつまずいてしまう。
オランダでは伝道師になるために6年間学ばなければならない。
ベルギーなら3年でいい。ゴッホは、ブリュッセルの伝道師養成学校に入る。
3か月の実習を受ければ、伝道師として派遣される。
3ヶ月の間ゴッホは努力した。けれど、また失敗に終わってしまう。
他人をかえりみない生活態度や乱暴な言葉遣い。
注意されても改めることはできなかった。
ゴッホはまたしても学校をやめざるをえなかった。
それでもゴッホは落胆しない。
ベルギー南部の炭鉱地の街角で神の言葉を説いた。
 
 坑夫と付き合うには坑夫のようにならなければならない。
 気取ったり、傲慢だったり、知識をひけらかしてはいけない。
 そんなことをすれば、かれらと理解しあえないし、信頼もされない。

最初は馬鹿にされていたが、
ゴッホは次第に町の人から支持されるようになった。

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大友美有紀 17年6月4日放送

170604-04

「激情の人/ゴッホ」激しすぎる自己犠牲

ゴッホは、ベルギーでの説教活動が認められ、
試験的に伝道師の資格を与えられた。
そして貧しい人々の中に飛び込んでいった。
自分の衣服を分け与え、事故がおきればすぐにかけつけ、
チフスが流行すれば献身的に看病した。
まさにキリストのように人々のために働いた。
ゴッホ自身の衣服はボロボロ。
あばら屋で藁の上で寝ていた。

 行いそのものは正しいが、
 とても正気の沙汰とは思えない。

激しすぎる自己犠牲。
ゴッホは伝道師を解任されてしまった。

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大友美有紀 17年6月4日放送

170604-05

「激情の人/ゴッホ」うさんくさい人間

牧師への道を断たれたゴッホは、家族のもとに戻る。
待っていたのは容赦のない非難だった。
大工でもパン屋でも図書館の司書でもいい、
なんでもいいからまともな仕事についてほしい。
でもゴッホにはできなかった。
 
 知らず知らずのうちに僕は家族のなかで、
 手のつけられないような
 うさんくさい人間になってしまった。
 確かに僕は情熱家だから、
 いくらか非常識なことをやらかしてしまう。
 そして後になっていくらか後悔もする。
 もっと我慢して待ったほうがいい時でも
 すぐに言葉に出したり、行動してしまう。

ゴッホは、この情熱から、いかにして良いものを
引き出そうとして努力するかと考える。
そして、絵を描くことこそ救いになると気づくのだ。

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大友美有紀 17年6月4日放送

170604-06

「激情の人/ゴッホ」アルル

画家を志したゴッホは、パリで日本の浮世絵に出会う。
そして日本とよく似た南仏へ、
日本の浮世絵にあるような明るい光を求めてアルルへと
やってくる。

 僕の失われた青春がいくらかでも
 取り戻せるような、若々しい作品が
 いつか描けるような気がする。

南仏の輝く太陽のもと、ゴッホは色彩を獲得した。
黄色い家、ゴッホの寝室、夜のカフェテリア。
ゴッホは、アルルで200点もの作品を生み出した。

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