大友美有紀

大友美有紀 17年3月5日放送

170305-03
meenaghd
建築家たち 丹下健三

世界のTANGE。丹下健三。
世界のモダニズム建築家たちと同列に評価された建築家。
代々木競技場では、鉄骨とケーブルを用いた
吊り構造を世界で初めて実現した。
構造研究家の考えをあえて否定した、
より高度な形態原理の発明への挑戦だった。
その一方で、プロデューサーとしても優れていた。
大阪万国博覧会の基幹施設を任された時、
菊竹清訓(きくたけきよのり)、磯崎新、黒川紀章など
ひと世代下の建築家たちと議論を重ね、
岡本太郎という異才と格闘しつつ、お祭り広場を作り上げた。
 
 WILLという言葉には意思という意味のほかに
 遺言という意味がある。
 先生が残された数々の建築はWILL/遺言になるだろう。
 そしてもう一つの意味、建築を構築しようとする意思。
 それを忘れてはいけない。

 
磯崎新の弔辞である。
丹下のWILLは日本のそこかしこに残されている。

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大友美有紀 17年3月5日放送

170305-04
kuromeri
建築家たち 西岡常一

法隆寺「昭和の大修理」を手がけ、
鬼と呼ばれた宮大工、西岡常一。
大木を使った伝統的な建築技法が途絶えそうになった時、
渾身の力を振り絞って木造の伽藍を作り続けた。
鉄の補強材を使うことには猛反対した。

 鉄は百年もてばいい方で、
 その後は錆びてボロボロになる。
 周囲の木材を腐らせて力を受けられない状態にする。
 千年もつ木の寿命を、わざわざ鉄を使って
 百年、百五十年に短くすることはない。

古建築の修理を多く手がけた宮大工の言葉は、
千年先にも伝えたい言葉だ。

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大友美有紀 17年3月5日放送

170305-05
Osbornb
建築家たち ピーター・ライス

アイルランド出身のピーター・ライスは、
パリのポンピドー・センターを手がけた構造エンジニアだ。
建築デザイナーと組んで、
建築物の構造に関わる部分を設計する技術者である。
1972年、ライスは大阪万博の「お祭り広場」の大屋根を見学した。
スペースフレームで作られた屋根の
ボール型鋳鋼ジョイントを見て、いたく感激したという。
ポンピドー・センターは、ガープレットと呼ばれる鋳鋼の大梁の
構造フレームが使われている。その重さは10トンもある。
 
 構造に驚きや意外性を持たせる。
 身近なスチールの鋳物をつかって
 常識はずれの方法で組み立てたら、
 建物は近づきやすく親近感のあるものに
 なるに違いない。

意外性がどう親近感になるのか、
それはポンピドー・センターや
ライスがその後手がけた
ルーブル美術館のガラスのピラミッドを見れば、
感じ取れるだろう。

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大友美有紀 17年3月5日放送

170305-06
soho42
建築家たち 黒川紀章

かつて「メタボリズム」という建築運動があった。
建築や都市の計画に時間的な概念を導入し、
可変性や増築性を提示した。
その一つが黒川紀章設計の中銀カプセルタワーだ。
各部屋はカプセルで理論上は交換できるシステム。
黒川紀章は晩年、都知事選や参院選に出馬し、
ちょっと変わった人だったと思われがちだ。

 自分は建築家としては残らないが、
 思想家としてはのこる。

その言葉のように、
黒川紀章を語るとき、
カプセルタワーが語られ、
彼の思想もまた語られる。

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大友美有紀 17年3月5日放送

170305-07
Hiroyuki Tsuruno
建築家たち 吉阪隆正

汽車の窓越しに見える自然は、
すでに原始状態ではない。
長い年月の間、人間が加工してきた結果、
半人工的になったものしか見られない。
人工と自然を対立するものととらえない建築家、
吉阪隆正は探検の旅を重ね、独特の視点を育んだ。

 人間が土地の上で建築を作るのではなく、
 土地が人間をして建築を作らしめている。

1965年の伊豆大島の大火の後、すぐに現地に飛び、
島を歩き、島の素晴らしさを発見した。
古い墓場などを残すまちづくりにつなげていった。

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大友美有紀 17年3月5日放送

170305-08
Yawatahamangcc2016
建築家たち 松村正恒

 外観から設計してはいかん
 
 建築を作ること、
 それ自体は大きなことではない。
 建築はしょせん器にすぎないのだから

市役所で設計活動を行っていた松村正恒。
1954年、全国で初めてクラスタータイプの学校となった「新谷中学校」を、
1958年、ベランダやバルコニーが川に突き出している
「日土(ひづち)小学校」などを手がけた。
子どもたちの目の高さを考慮した設計、
内部で使う人のこと思い、作られた学校は、
今の時代にこそ必要かもしれない。
松村の作品は1960年発刊された雑誌の
「建築家ベスト10 —日本の10人— 」の
企画で取り上げられた。

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大友美有紀 17年2月5日放送

170205-01

「愛の手紙」夏目漱石

 おれのような不人情なものでも頻りに御前が恋しい。

ロンドン留学中の夏目漱石が
妻・鏡子に送ったラブレターは有名だ。
このとき鏡子は何を思っていたか。

 いろんな男の人を見てきたけど、
 あたしゃお父様がいちばんいいねぇ。

もし船が沈没して漱石が戻って来なかったら、
 
 あたしも身投げでもして死んじまうつもりでいたんだよ

悪妻と言われる鏡子だけれど、
彼女なりの愛し方で漱石を思っていた。

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大友美有紀 17年2月5日放送

170205-02

「愛の手紙」川端康成

川端康成は、執筆のため逗留していた群馬の旅館から
妻・秀子に、怒りに満ちた手紙を出した。

 新潮と文藝7月号送れ、
 なぜ報告の手紙をよこさんのだ、馬鹿野郎、
 手がくさつたつて代筆されることも出来るだらう、
 さういふ投げやりな、きちんと片付けない、
 ずるずる延ばしの性質が、とても助からん気をさせるのだ。

 
罵倒の言葉が延々と続く。
怒鳴りに帰ろうかと思った、とか、
仕事の疲れで気もまぎれないので
「婆さんのような顔」になった、とか。
怒ってはいるが、どこかしら可愛げのある文章だ。
妻に甘えているのかもしれない。
そんな文豪の素顔が垣間見える。

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大友美有紀 17年2月5日放送

170205-03

「愛の手紙」梶井基次郎

宇野千代をめぐって梶井基次郎と尾崎士郎が決闘をした。
という噂があった。
このとき尾崎と千代は結婚していた。29歳と30歳。
それぞれ作家としてすでに世に出ていた。
梶井は「檸檬」をはじめいくつかの短編を同人誌に発表していたが、
まだ無名の存在だった。伊豆の湯が島で千代に出会い恋をした。
では、千代はどうだったのか。

 私は梶井を尊敬していたのでせうか。
 或ひは梶井を恋ひしていたのでせうか。

 
あるインタビューでは、
面食いの私が梶井基次郎に惚れるはずもない、
と言っている。
梶井は妻をめとらず、恋人ももたず、
女性との情交を小説に書くこともないまま、
独特の世界を作り上げ、31歳で早世してしまった。
千代に大量の手紙を書いているが、
千代はそれらをすべて捨てたという。
ほんとうのところは、もう誰にもわからない。

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大友美有紀 17年2月5日放送

170205-04

「愛の手紙」森鴎外

森鴎外は日露戦争のとき、約2年の間に
出征先の満州から妻・しげ子や
家族に宛てて、140通におよぶ手紙を送っている。

 茉莉ちゃん。お前は病気の時
 かあさんにくツついてこまらせたというふことだね。
 親だものをくツつくのはあたりまへだ。
 病気でない時もくツついてこまらせておやりよ。あばよ。

小説とは違うやわらかな言葉。おどけた文章。
当時、妻と鴎外の母の仲は険悪であった。
自分の留守の間、妻の気持ちを引き立てようと
手紙を書き送っていたのかもしれない。

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