大友美有紀

大友美有紀 16年9月4日放送

160904-03

「秋祭り」港区・芝大神宮だらだら祭り

東京・港区には日本一長いと言われる祭りがあります。
芝大神宮の秋の例大祭、通称「だらだら祭り」。期間は十日間。
今年は9月11日から21日まで続きます。
祀られているのは、伊勢神宮のご祭神である
天照大御神(あまてらすおおみかみ)と豊受大神(とようけのおおかみ)。
平安時代に創建され千年以上も続く神社で、
江戸時代には「関東のお伊勢さま」として人気がありました。
秋の例大祭が「だらだら」と長くなったのも
参拝者の人足が途絶えなかったからと、言われています。
見所は氏子各町神輿連合渡御(とぎょ)。
町会ごとの神輿が出て、芝の街を練り歩きます。
茶席も設けられる、だらだらとしながらも、神妙なお祭りです。
ここ、芝大神宮は歌舞伎や落語の「め組の喧嘩」の舞台でもありました。

 火消しと相撲取り、どちらが悪いわけでもなく、
 原因を生んだのは喧嘩が始まったときに勝手になりだした半鐘。
 
粋な裁きの末、半鐘が島流しになりました。
明治時代になって、島流しの刑が廃止され、
その半鐘は芝大神宮に返され、祭りの時に展示されます。

だらだらと十日間、どこかで時間を作って行ってみませんか?

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大友美有紀 16年9月4日放送

160904-04
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「秋祭り」鎌倉・鶴岡八幡宮鈴虫放生祭(すずむしほうじょうさい)

9月14日から16日の三日間、鎌倉鶴岡八幡宮では、
秋の例大祭が盛大に斎行(さいこう)されます。
鶴岡八幡宮といえば、鎌倉武士の狩装束で行う、
流鏑馬神事(やぶさめしんじ)が有名ですが、
この例大祭の起源となるのは、放生会(ほうじょうえ)です。
流鏑馬神事が終わり、涼やかな風が流れる時間、
舞殿にて祭儀が行われた後、神職の手によって、
柳原神池に鈴虫が放たれます。
これが鈴虫放生祭。

 生き物を自然に帰すことで生命を慈しむという
 「放生会」の心意を引き継ぐ神事。
 
汚れの無い暗闇が、静かに神域を覆う頃、
放たれた鈴虫の音色が響き渡ります。

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大友美有紀 16年9月4日放送

160904-05

「秋祭り」昭島市・日吉神社榊祭

東京都昭島市の日吉神社は、9月17日、18日が秋祭り。
18日の午前0時には、榊祭が行われます。
お供えの植物である榊の神輿が町内を練り歩きます。
これは、後から通る神様の乗った御神輿、宮みこしの通り道の
露払いの役目です。
東京都の無形民俗文化財にも指定されている榊祭。
今年で250周年を迎えます。

 町内を練り歩いてきた榊の神輿は、午前4時すぎに
 日吉神社の境内に戻ってきて、据え置かれます。
 ここからが榊祭のクライマックス。
 榊取りが行われ、あっという間に榊の神輿は、
 すべての枝がもぎ取られてしまいます。

この榊の枝を取ると、一年間無病息災でおくれると言われています。
全国でも珍しい、暁に行われる祭。
その様子は善明寺所蔵の「山王祭礼図絵奥書」に描かれています。
翌日の午後1時からは宮みこしのご神幸が行われます。
榊祭とは、うってかわって、町内を静かに進んでいきます。

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大友美有紀 16年9月4日放送

160904-06
白石准
「秋祭り」江東区・天祖神社神明まつり

スカイツリーの近く、江東天祖神社では、9月15日から19日、
神明まつりが行われます。
この神社は、推古天皇の時代、聖徳太子の手による神像を祀ったのが、
創建と言われています。下町の小さな神社の秋のお祭り。
選ばれた氏子児童が矢を射る「こども歩射(びしゃ)」が行われています。

 1573年からの天正年間(てんしょうねんかん)に
 疫病が大流行したとき、織田信長がこの神社で
 流鏑馬を行わせたところ、たちまち収まった。
 以来、病気を治す神社として有名になりました。
 
流鏑馬は、流鏑馬式と名をかえ「こども歩射(びしゃ)」になったのです。
この形になって、すでに百年は経っています。
戦時中も絶やさず続けられた伝統行事です。

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大友美有紀 16年9月4日放送

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「秋祭り」檜原村・九頭龍神社例大祭

檜原村は、東京都の島しょ部を除いた唯一の村です。
人口は約2500人。村の大半が秩父甲斐国立公園に含まれています。
檜原村には古くから受け継がれてきた伝統芸能が数多くあります。
そのいくつかは、9月18日に檜原村数馬(かずま)の
九頭龍神社で行われる秋祭りで見ることができます。

 三匹の獅子が舞う「数馬獅子舞」。
 家内安全の祈願と感謝を捧げて社前(やしろまえ)で行う奉納の舞。
 同じように上演される「太神楽(だいかぐら)」。
 舞手は、1人もしくは2人で一匹獅子を舞い、
 お囃子との掛け合いやこっけいな舞など独特の味わいがあります。
 そして「馬鹿面囃子(ばかめんばやし)」。
 兄弟が畑仕事で繰り広げられる出来事を演じます。

秋の豊作と感謝を喜び合う祭。
都心から約2時間。心洗われるような東京の景色がここにあります。

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大友美有紀 16年9月4日放送

160904-08

「秋祭り」文京区・根津神社例大祭

山王、神田と並ぶ江戸の三大祭。
根津神社、秋の例大祭。今年は9月17日、18日に行われます。
その始まりは六代将軍、徳川家宣(いえのぶ)が
根津神社の祭礼を定めたことからと言われています。
江戸中から山車を出し「天下祭」と呼ばれるほどの壮大な祭礼であったそう。
今ある大神輿三基も、このとき家宣が奉納したものです。
もちろん、例大祭にも神幸します。
現代の祭では、少し不気味な面を着けて踊る「三座ノ舞」と
巫女さんが舞う「浦安舞」が上演されます。
 
 社殿、拝殿、唐門、透塀(すきべい)・桜門などは、
 1706年に造られた当時のまま現存。
 江戸の神社建築を伝えるとして、国の重要文化財にも指定。
 
他にも乙女稲荷の千本鳥居、
夏目漱石や森鴎外が腰掛けて構想を練ったという文豪の石など、
根津神社には祭だけではない、見るべきものがたくさんあります。

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大友美有紀 16年8月7日放送

160807-01

世界で愛された日本人 三浦環

かつて、世界に飛び出していった、多くの日本人がいた。
その一人、オペラ歌手・三浦環。
作曲家プッチーニから、世界最高のマダム・バタフライのプリマドンナと
称された。約40年のオペラ人生の半分を欧米で活躍し、
記録に残っているだけでも「マダム・バタフライ」の主役を2千回もつとめた。
三浦環は、明治17年、今の東京・虎ノ門に生まれる。
幼い頃から日本舞踊、長唄、琴に親しんできた。
女学校卒業後は声楽家を志す。
一人娘にその道を諦めさせたい父親は、
虎ノ門から東京音楽学校のある上野まで
自転車で通うなら、許すという条件を出した。
当時、若い娘が自転車に乗って走るなど、とてもみっともないことだった。
しかし環は諦めない。紫の大矢羽根の着物に緋の袴をつけ
髪に白いリボンを結んで、外国製の自転車に乗って颯爽と走った。
自転車美人と評判が立ち、通学路には野次馬が待ち受けるようになった。
環がモデルの新聞小説まで登場した。
 
 鈴の音高く、現れたのはすらりとした肩の滑り、
 デートン色の自転車に海老茶の袴、紙は結い流しにして、
 白リボン清く、着物は矢絣の風通、袖長ければ風になびいて、
 色美しく品高き十八九の令嬢である。

夢のためなら、どんな困難もいとわない。
世界で活躍する底力である。

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大友美有紀 16年8月7日放送

160807-02

世界で愛された日本人 早川雪洲

無声映画時代のハリウッドで活躍した日本人、早川雪洲。
大正4年、雪洲は映画「チート」で残忍な日本人富豪を演じる。
サディスティックで東洋的な美しさはアメリカ人女性の人気をさらった。
女性客は、化粧をして映画館に行ったという。
スクリーンの雪洲に美しい自分を見てほしかったから。
ルドルフ・ヴァレンチノでさえ、
「ハヤカワのような芸をやりたいとずっと真似をしていた」と憧れていた。
雪洲の、ある映画の神の怒りを伝えるシーンでのこと。

 11時20分で、もう飯食いたいから、
 おれは腹が減ったぞと日本語でわめいたの。
 誰も日本語分からないから、うまいなぁとほめてくれた。

伝説はつきない。
小柄だった雪洲は、背の高いアメリカ人女優とラブシーンを演じる時、
踏み台を使った。
映画界では今でも高さを調節する台を「セッシュウ」という。
これは、有名な伝説の1つ。

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大友美有紀 16年8月7日放送

160807-03

世界で愛された日本人 前田光世

柔道家、前田光世。明治11年、青森生まれ。
アメリカ、イギリス、ヨーロッパ各地で柔道普及の活動を行った。
柔道を広めるためにボクサーとも闘い、レスリングの大会にも出場した。
今で言う、異種格闘技だ。ロンドンでのレスリング世界大会では、
柔道着を拒否され、レスリングタイツで闘った。
軽量級では決勝で敗れ、重量級では準決勝で敗れた。
当時ヨーロッパ最強と言われていたレスラーが、新聞に
「大会を席巻した東洋の小柄な柔道家もレスラーの前で相手ではなかった」
と語った。これを見た前田は、そのレスラーの試合会場に乗り込み
対戦を申し込んだ。レスラーは負けたことを新聞に書かれたら、
レスラー人生が終わってしまう、と逃げ出した。
それだけ前田の強さは知れ渡っていた。
最終的に、前田はブラジルに移住する。
地元の名士やその息子たちが続々と入門した。

 息子を柔術で鍛えてやってくれ
 
その息子とは、カルロス・グレイシーとエリオ・グレイシー。
後にグレイシー柔術を完成させた兄弟である。
前田の闘いは、世界へ後世へと道を刻んだ。

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大友美有紀 16年8月7日放送

160807-04

世界で愛された日本人 トミー・ポルカ

安政7年、幕府は日米修好通商条約の批准のため、遣米使節を派遣。
その中に16歳のオランダ語通詞、立石斧次郎がいた。幼名を、為八という。
可愛らしい顔つきにちょんまげ、英語が堪能で、人なつこい性格。
アメリカ人船員から好かれ「トミー」と呼ばれていた。
ワシントンに到着すると、ご婦人方からも熱烈に歓迎された。
お忍びで使節団に参加した日本のプリンスだと噂されるほどだった。

 通りがかった
 人妻も娘も、思わず夢中で取り巻く
 かわいい男、小さな男
 その名はトミー、かしこいトミー、黄色いトミー、
 日本からやってきたサムライ・トミー

 
明治2年、岩倉使節団の通訳として、12年ぶりにアメリカを訪れた
斧次郎は、自分の名前が歌われた「トミー・ポルカ」の存在を知る。
けれど、使節団は天皇の委任状をもっておらず、「トミー」も洋装で
訪れたため、前回のような歓迎は受けなかった。
世界で愛されるには、タイミングも必要だった。

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