大友美有紀

大友美有紀 16年8月7日放送

160807-05

世界で愛された日本人 三浦襄(みうらじょう)

トコ・スペダ・トゥアン・ジュパング。
バリ語で、自転車屋の日本のおじさん、という意味。
インドネシア、バリのために生きた三浦襄の呼び名だ。
三浦は明治末期、キリスト教の伝導と商売のために
ジャワ島に渡った人物。いくつかの成功と挫折を繰り返し、
40歳の時、バリ島で自転車修理業を始める。
第二次世界大戦中も戦後も、バリ人を守るために奔走した。

 バリの病院の院長には、
 「この病院にある薬はインドネシア人だけのものだ
  日本人が要求しても与える必要はない」と言い、
 戦時中、日本の陸軍の大将に
 「バリの住民から、不当な税を徴収しないでください。
  軍人や役人はバリ人に紳士的に接してください」と苦言を呈した。

昭和20年9月7日、三浦は生涯を終える。
三浦の葬列は1キロを超え、
見送った人も含めると1万人を超える人が、
その死を悼んだ。
現在に至るまで、全島民をあげるような
厳粛な葬儀を受けた者は、いないという。

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大友美有紀 16年8月7日放送

160807-061

世界で愛された日本人 八田輿一

台湾南部、台南市に八田輿一記念公園がある。
日本が台湾を統治していた時代、烏山頭(うさんとう)ダムの
建設を指揮し、周辺の台南地域を豊かな農業地帯に変えた土木技師だ。
当時、台湾南部の嘉南平野は香川県ほどの広大な土地であったが、
雨は周囲の河川から海まで流れ出てしまい、この地を潤すことはなかった。
八田は、ダムを建設し平野全体に給排水路を巡らせようと計画した。
日本の国庫補助を得、地元から資金を集め着工した。
アメリカから最新のスチームショベルも買い入れた。
しかしアメリカから来た技師は、現場に使い方を一切教えない。
八田は現場を叱咤激励した。

 とにかく使い方を覚えてしまってアメリカ人の
 鼻を明かしてやろう。

 
現場に家族ともども住み込み働いた。
工事の期間中には大きな事故もあった。
八田は、遺族のお見舞いに奔走し、台湾式の弔意を示した。
八田の熱意は工事を動かしていた。
ダム完成後、八田の銅像が作られる。
日中戦争当時、銅像は金属供出対象になったが、こつ然と消えてしまった。
今、記念講演にはその銅像がある。
彼を慕う誰かが、守ったのだろう。

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大友美有紀 16年7月3日放送

160703-01

「宇宙飛行士という仕事」夢が使命に・大西卓哉

1975年生まれ、大西卓哉。
職業、宇宙飛行士。
予定通りにいけば、日本時間7月7日、
七夕の日にソユーズに搭乗し、
国際宇宙ステーションへと旅立つ。
約4ヶ月の長期滞在クルーとして、
日本の実験棟「きぼう」でのミッションを担う。
映画「アポロ13号」が宇宙を目指したきっかけだった。

 宇宙飛行士という職業が、
 「自分の夢」から「国民の期待と未来を担う使命」に
 変わったとき、責任の重大さを実感しました。

 
小さな物語でも、自分の人生の中では、誰もがみな、主人公。
さだまさしの歌に勇気づけられることもあるという。

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大友美有紀 16年7月3日放送

160703-02
NASA Johnson
「宇宙飛行士という仕事」アイスブレーク・大西卓哉

宇宙飛行士選抜試験のひとつに「閉鎖環境試験」がある。
外界から謝絶された環境で作業を行い、精神心理特性や社会性が確認される。
試験の過程では、チームに沈滞ムードが漂う場合もある。
そんな時、ムードを一変させる「アイスブレーク」をもたらす。
これも宇宙飛行士として重要な資質である。

国際宇宙ステーションの次期長期滞在クルー・大西卓哉は、
閉鎖環境試験での自己アピールで、
強烈なアイスブレークの資質を示した。
ミュージカル「夢から覚めた夢」の二人の少女、
「ピコ」と「マコ」のやりとりを朗々と歌い上げ、
迫真の演技を披露し、閉鎖設備の中にいたメンバーはもとより
外部モニターを見つめていた審査員の注目を集めた。

 夏休みの宿題は、最後の週にまとめてやるタイプ。
 好きな食べ物はラーメン。
 ジェットコースターは大好き!だけど高所恐怖症。

どこにでもいそうな40代のこの男は、
7月7日、宇宙に向けて飛び立つ。

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大友美有紀 16年7月3日放送

160703-03

「宇宙飛行士という仕事」異色の宇宙飛行士

1961年、ソ連のガガーリンが地球を飛び出してから、
現在まで、宇宙飛行の経験者は550人ほどしかいない。
今の宇宙での仕事は、ほとんどが国際宇宙ステーションでの
ミッション。宇宙飛行経験者の数も絞られている。
スペースシャトルが数多く飛び立っていた頃は、
様々なタイプの宇宙飛行士がいた。
なかでも異色だったのは、サウジアラビアの王子、
サルタン・アル・サウド。アラブ世界、初の宇宙飛行士だ。
1985年、ディスカバリー号に搭乗し、アラブの衛星放出を担当した。
イスラム教の敬虔な信徒で、宇宙にコーランを持参し、祈りを捧げた。
世界各国から集まったクルーとともに搭乗していた。
 
 最初の1日か2日は、みんなが自分の国を指していた。
 3日目、4日目は、それぞれ自分の大陸を指した。
 5日目、私たちの目に映っているのは、たった1つの地球だった。

王子の発言から、認識の地平が徐々に、
確実に広がっていく様子が伝わる。
宇宙は人の意識を変える。

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大友美有紀 16年7月3日放送

160703-04

「宇宙飛行士という仕事」コマンダー・若田光一

2013年11月から2014年5月まで、
国際宇宙ステーションに長期滞在した若田光一。
日本人初の船長、コマンダーとしてその能力を発揮した。
アメリカ、ロシアをはじめ、各国の宇宙飛行士と接してきた
若田は、人間の個性を卵にたとえる。

 国籍の違いによる文化・言語・習慣等の違いは「卵の殻」の部分。
 卵の中身こそが、その人の性格の根幹です。
 殻を割って中に入らなければ、
 その人がどういう人か分からない。

だから、コミュニケーション能力と相手を理解する寛容性は重要だという。
卵の殻ばかり見ていると国籍の違いにばかり目がいってしまう。
宇宙船の船長ではない私たちにも、必要な考え方かもしれない。

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大友美有紀 16年7月3日放送

160703-05
NASA HQ PHOTO
「宇宙飛行士という仕事」鳩ぽっぽ・若田光一

国際宇宙ステーションで日本人初のコマンダー、
船長を務めた若田光一。
宇宙飛行士として、順風満帆のように見えるが、
多くの失敗も重ねている。
NASAで宇宙飛行士として訓練を始めた頃、
シミュレーション訓練で
スペースシャトルを墜落させてしまったこともある。

 分厚いマニュアルを読み込んで予習して、
 システムをしっかり理解して、
 できることはすべてやって訓練に臨むわけですが、
 英語が聞き取れないために成果が出せない。
 そんなある日、車でひとり帰宅中、
 ふと「鳩ぽっぽ」を歌っていました。

 
英語がわからなくて、苦しみながら頑張ったNASAでの最初の年。
でも、その1年は自分が一番向上した時でもあったという。
失敗を恐れないで前進していく勇気と、
失敗してもそれを教訓として次のステップに
確実に生かしていく姿勢が必要。
経験に裏付けられた若田の言葉は、まっすぐ届いてくる。

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大友美有紀 16年7月3日放送

160703-06

「宇宙飛行士という仕事」中年の星・油井亀美也(ゆいきみや)

2015年7月23日、JAXA宇宙飛行士、油井亀美也は、
ソユーズに搭乗し、国際宇宙ステーションに向け、打ち上げられた。
油井は宇宙飛行士に選抜された時から、
自らを「中年の星」と紹介している。
搭乗時は、45歳。
この年齢は、NASA宇宙飛行士の実績から、
体力、気力、知力が最も充実した時期で、全く問題はない。

 自分の限界や、日本実験棟「きぼう」の性能限界に挑みたい。
 小さな挑戦を積み重ねることは大切で、
 それを知る人は努力や勇気を知っているので、
 互いに尊敬できる。

 
チームワークの大切さを知っている。
油井の前職は、航空自衛隊の戦闘機パイロット。
ソユーズの落下制御失敗を想定した訓練では、8Gの重力を受ける。
その加重訓練後、油井は、この程度では問題ないと言った。
中年の星は、宇宙飛行士の資質の大半をもともと備えていたのだ。

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大友美有紀 16年7月3日放送

160703-07

「宇宙飛行士という仕事」ツイッター・油井亀美也(ゆいきみや)

JAXA宇宙飛行士、油井亀美也は、2015年7月23日に地球を飛び立ち、
約142日間、国際宇宙ステーション滞在し12月11日に帰還した。
日本実験棟「きぼう」での実験、ステーションのメンテナンス、
船外活動の支援などをパワフルに行いながら、
写真とともにツイッターで日々の状況を発信した。
「宙亀写真」と呼ばれる油井の投稿写真。
宇宙飛行士になる前は、写真には興味がなかった。
長期滞在クルーに任命されたあと、自分でカメラを買って勉強した。

 写真で地球の美しさ、星の美しさを
 伝えたかったこともありますが、
 地球を見て最初に感じたのは大気の薄さです。
 これに非常に驚きました。
 地上にいると空気は無限にあると思っていますが、
 宇宙から見ると青い層が非常に薄く見え、
 その下に雲が見え、その下でしか人間は生活できないんだ
 と思うと、地球を大切にしなければいけないと実感しました。

油井が伝えたかったことは、
宇宙に行ったからこそ感じたことだった。

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大友美有紀 16年7月3日放送

160703-08

「宇宙飛行士という仕事」きぼう

国際宇宙ステーションにある日本実験棟「きぼう」。
2008年、星出宇宙飛行士が据え付けミッションを行った。
終了後、星出は自ら調達してきた「きぼう」と書かれた
のれんを入り口に掛けて、「日本の家が完成した」と宣言した。
すると、滞在していたすべての宇宙飛行士が集まり、
実験室内が酸欠になるのでは、と心配になるほど喜びを爆発させた。
「きぼう」は船内で供給される限られた資源を用いて、
船外と船内の環境で実験ができる構成である。

 「きぼう」はすべて揃った、
 All in Oneの優等生だ。

 
海外のパートナーからも好評である。
7月7日に出発する大西宇宙飛行士も「きぼう」で
数々のミッションを行う予定だ。

JAXA宇宙飛行士は、搭乗期間中は「低軌道長期出張」である。
国際宇宙ステーションまでの移動は、ソユーズ搭乗で賄われ、
三度の食事は宇宙食。宿泊施設は個室クルークォーター。
出張費は出ない。

宇宙は、もはや夢の、憧れの場ではなく、
「きぼう」のある職場となった。

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