大友美有紀

大友美有紀 16年3月6日放送

160306-05

「菊池寛への言葉」川端康成

昭和23年の今日、作家・菊池寛はこの世を去った。
その葬儀の席、川端康成は司会に再三、名を呼ばれても
気がつかなかった。
菊池を介して出会った芥川龍之介、
横光利一ももう、この世にいない。

 今日、私はつつしんで控えておるべき身でありながら
 ここに立つて弔辞を読ませていただきますのは
 私と同じやうに菊池さんの大恩を受けました多くの友人
 例えば横光らが大方私に先立ちましたゆえと思ひますと
 それらの多くの亡き友人からも
 私はここに一言お礼を言ふ役を遺されたのでありませうか

 
川端は、菊池をその恩を受けてもお礼を言わなくてもいい人、
次から次へと恩を重ねてもいい人だったという。
だから自分がお礼を言う役なのだと。
そして、菊池に出会えた自分たちは千載の幸せ者であり
その幸せは菊池の死によって消えるはずもないと続けた。
弔辞を終え、席に戻っていくその後ろ姿は、
また一段と小さくなったように見えた。

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大友美有紀 16年3月6日放送

160306-06

「菊池寛への言葉」吉川英治

文壇の大御所と呼ばれ、後進の育成に心を砕いた菊池寛。
今日はその命日。
葬儀の日、友人代表として弔辞を読んだのは、吉川英治だった。
「宮本武蔵」「三国志」「私本太平記」などの
傑作を書いた国民的作家だ。
菊池はかつて息子に
「自分の文芸的素志を継いでくれるものがないのはやはり淋しい」と
言ったことがあった。吉川はそれを否定する。

 菊池寛氏 あなたの文芸的種子は自らの御想像以上
 昭和年代の地上に蒔かれています。
 日本の地は今まだ春浅い冷たさにあり
 真の自由と和楽の日は遠いとしても
 かならず人々の胸にある菊池文学の香りは
 時にあって開花し この国の人々を幸福にし
 また人から愛されてゆくにちがひありません

 
弔辞を終え、吉川は声を出さずに
唇だけで「菊池 サヨナラ」と言ったようであった。

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大友美有紀 16年3月6日放送

160306-07

「菊池寛への言葉」林芙美子

3月6日、今日は文豪・菊池寛の命日。
葬儀の、最後の弔辞は林芙美子だった。
「放浪記」で知られた作家。このとき43歳。
黒いスーツに白の真珠のネックレス。

 菊池寛氏の霊にさゝげて
 自然がからかっていないことだけはたしかだ。 
 かすかな霧の中に轟き落ちていく一つの宿命、
 音もやんだ。誰もいない。
 眼にはみえない凄じい永ごうの安息、あゝ妙な事だ。
 思ひ出の中の無数の火把(たいまつ)のほてり
 歳月の靄の中にかすかにそよぐ不朽の虹、
 あゝまたその虹の向ふから、
 馴々しくあきらめがやって来る。
 全く妙な事だ。淼淼(びょうびょう)たる人生歌、
 やがて壁の中にも、小さな集会の中にも
 時々の負の中にもその火把(たいまつ)が
 あたゝかくかげりゆらめく

美しい声であった。優しい声であった。
弔辞が終わっても皆しばらくその姿勢のままであった。

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大友美有紀 16年3月6日放送

160306-08

「菊池寛からの言葉」遺書

昭和23年3月6日、文壇の大御所、菊池寛が急逝した。
葬儀には、家族、親族、2百人あまりの来客、
一般の参列者を加えると7千人あまりが訪れた。
何日か経って菊池寛の仕事場の金庫から遺書が出てきた。

 私は、させる才分もなくして、文名を成し、
 一生を大過なく暮らしました。
 多幸だったと思ひます。
 知人及び多年の読者各位にあつくお禮を申します。
 ただ國家の隆昌を祈るのみ。

 吉月吉日
 菊池寛

「雑誌に発表し告別式のとき掲示されたし」という
一文が添えられていた。
葬儀はすんだばかり。
長男英樹は黒縁の紙に印刷し、
会葬者御礼ともに送った。

死後を思い、後に残されるものを思う。
菊池寛の人への思いの深さを感じる。

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大友美有紀 16年2月7日放送

160207-01

「アンデルセンとディケンズ」賞賛

19世紀のデンマークの童話作家アンデルセン。
ビクトリア朝時代を代表するイングランドの作家ディケンズ。
同時代に生きた2人には、交流があった。
初期のディケンズ作品を読んだアンデルセンは、
熱烈に賞賛した。
ディケンズが描く社会悪や貧乏、困窮は、
貧乏人の子であるアンデルセン自身が経験した
出来事がたくさんあったのだ。

 チャールズ・ディケンズは、
 私たちに貧しい子たちの苦悩を
 描き出してくれました。

 
アンデルセンは自分とディケンズには類似点があると感じた。
そして、イングランドへ渡り、
偉大な作家に会うことを熱望する。

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大友美有紀 16年2月7日放送

160207-02

「アンデルセンとディケンズ」友情の始まり

ハンス・アンデルセン。
今でこそ童話作家として世界的に有名だが、
19世紀半ばのイングランドでは、
たいへん面白く、新しく登場した外国の作家とみなされていた。
彼の最初の小説「即興詩人」は1845年に英訳されていた。
1847年、アンデルセンはイングランドへ招待される。
そこでディケンズと出会うのである。

 若くて、顔立ちがよく、聡明で親切そうな面もちで、
 長く美しい髪を両側にたらして入ってきた人は、
 ディケンズであった。
 私たちは、互いに握手し、目を見つめて語り、
 お互いに理解することができた。
 私のもっとも愛していたイングランドの現存作家と
 会って語り、深く感動し、幸せであった。

 
ディケンズもアンデルセンの作品を読んでいた。
そして彼もまたこのデンマーク人の作家に対して
賞賛の気持ちを持っていたのである。
二人の偉大な作家の友情はこうして始まった。

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大友美有紀 16年2月7日放送

160207-03

「アンデルセンとディケンズ」クリスマスの贈り物

1847年、ロンドンでディケンズと出会ったアンデルセンは、
母国へ戻ったあと、自分の作品を彼に献じようと考えた。
それは、7つの短い物語。
『ある母親の物語』『幸福な一家』『古い家』
『水のしずく』『カラーの話』『影法師』『古い街灯』。

 私は自分の詩の園からでてきた最初の作品を、
 クリスマスの挨拶として、
 イングランドに移し住まわせたいという熱望と憧れを感じます。
 それで親愛にして高貴なチャールズ・ディケンズ様、
 私はあなたにそれをお送り申しあげます。

 
アンデルセンはその短編集を、デンマーク語版よりも
先に英語版を出版させた。出来上がった本は、
すぐさまディケンズに届けられた。

 私の親愛なるアンデルセンよ、
 親しくまた賞賛のうちに私を覚えていてくださり、
 このたびは、あなたのクリスマスの本をお贈りくださって、
 本当にありがとうございました。
 私はたいへん光栄に思い、尊敬の念を深く感じます。

このディケンズからの礼状は、アンデルセンにとって
自分を豊かなものにする息吹であった。

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大友美有紀 16年2月7日放送

160207-04

「アンデルセンとディケンズ」ハンス

デンマークとイングランド。
海を挟んだ二つの国の作家、アンデルセンとディケンズは、
19世紀半ばにロンドンで出会い、
手紙をやり取りし、お互いの著作を読み、友情を深めていた。
1856年夏、アンデルセンは、ディケンズから再びロンドンへの
招待を受ける。

 私の親愛にして、尊敬するハンス!
 あなたはいつまた来てくださいますか?
 たとえば、あなたは私の家にきて、
 泊まられるのが当然です。
 私どもはあなたを幸せにするために最善をつくしましょう。

 
家に招かれたことも嬉しかったが
アンデルセンは、この書き出しにびっくりした。
ハンスと呼ばれたことはなかったからだ。
そしてますますディケンズに親愛の情を抱くようになる。

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大友美有紀 16年2月7日放送

160207-05

「アンデルセンとディケンズ」再会へ

ロンドン、タヴィストック・ハウスにて
1857年4月3日、ディケンズからアンデルセンへの手紙

 どうぞイングランドにおいでになる決心をしてください。
 私どもは、ロンドンから1時間半以内で着く
 ケントの田舎で夏を過ごします。
 もしあなたが、いつおいでくださるかを
 お知らせくだされば、私どもは心から
 喜んでその時をお待ち申し上げます。

 
コペンハーゲンにて
1857年4月14日、アンデルセンからディケンズへの手紙

 あなたのお手紙は、
 このうえもなく私を幸せにしてくれました。
 私はしばらくの間、あなたといっしょに居られることを考え、
 いいえ、あなたの家にあって、あなたのご家族の一員に
 加えていただくことを考えて、まったく嬉しさのあまり
 胸をわくわくさせています。

小説がデンマーク語、ドイツ語、英語で同時出版され
ディケンズの別荘に招待されたアンデルセンは、
歓喜の絶頂にあった。

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大友美有紀 16年2月7日放送

160207-06
Hornbeam Arts
「アンデルセンとディケンズ」ディケンズとの夏

1857年6月11日から7月15日、実に5週間もの間、
アンデルセンはディケンズの田舎の邸宅に滞在した。
一家とともに田舎の散策に出かけ、噴水に驚き、音楽祭を楽しんだ。
おりしもアンデルセンは
小説「生きるべきか死ぬべきか」を出版したばかり。
イギリスの雑誌で酷評されるのを次々と目にして、
心を乱し、憔悴してしまう。

 ディケンズは私を両腕に抱いて、
 兄弟のように語ってくれました。
 神様が私に何を与えてくださったかを。
 そして砂の上に足で何かを書き
 「これがありふれた批評というものだ」といい、
 すぐにもみ消した。そして
 「さ、もう消えてしまったろ!
 反対に詩人の作品は生き続けるんだからね!」と言いました

 
アンデルセンは、その行いに自分がちっぽけな存在だと感じ、
ディケンズに感謝し、喜びを感じたのだった。

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