大友美有紀

大友美有紀 16年2月7日放送

160207-07

「アンデルセンとディケンズ」さらなる賞賛

1857年夏、イングランドの作家ディケンズの田舎の別荘に
デンマークの童話作家アンデルセンがひと月以上も滞在していた。
その日々のことをアンデルセンは、
「1857年夏のチャールズ・ディケンズ訪問」と題し新聞に掲載した。
当時の感動をアンデルセンはコペンハーゲンの新聞編集者への
手紙の中でも綴っている。

 私はディケンズの家族の中で暮らす幸運に恵まれました。
 彼はいつもいつも変わることなく、生気にあふれ、快活で
 暖かい心の持ち主でした。誰でも即座に彼を絶対的に信頼します。
 ディケンズのあらゆる作品の中から、
 最も良いものを取り出して、それで一人の人間像を作れば、
 チャールズ・ディケンズの本当の肖像が出来上がります。

イングランドを去ってからのアンデルセンは、
すっかり意気消沈してしまっていた。

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大友美有紀 16年2月7日放送

160207-08
Flyinace2000
「アンデルセンとディケンズ」別れ

デンマークの童話作家アンデルセンとイングランドの作家ディケンズ。
2人は書簡を交わし、著作を読み、友情を育んだ。
アンデルセンは、英語が苦手だった。
手紙はデンマーク語で書き、翻訳してもらっていた。
英語で会話していたが、ディケンズは英語で話すときのアンデルセンを
しゃべれず、聞こえない人のようだったと酷評している。
ある夏、アンデルセンは、ディケンズの別荘に5週間滞在した。
当初1、2週間と言っていたのに。
ディケンズはアンデルセンにずいぶん悩まされたと友人に言っている。
実は、アンデルセンもそれに気づいていた。 

 数週間にわたって、私のように全くでたらめな英語をしゃべり
 雲のうえから転げ落ちてきたような者を真ん中にかかえていることは、
 ご家族にとって決して快いものではなかっただろうと気づいています。

うんざりしても、いらだっていてもディケンズは、
アンデルセンの前ではそれを感じさせなかった。
作家アンデルセンの才能を賞賛していたから。
2月7日はディケンズの誕生日。

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大友美有紀 16年1月3日放送

160103-01

「小林一三」 小使いさん

阪急電鉄の創業者、小林一三(いちぞう)。
本日、一月三日が誕生日。
生家は、甲州、韮崎の裕福な問屋。
町の有力者の坊ちゃんだ。
高等科の時、学校に
妙な小間使いがいた。
授業中、突然教室に入ってきて、
一席もの申すのだ。
そんな調子だから、
小間使いはクビになることになった。
一三は、確かに小間使いも悪いが、
知っておきながら止めなかった学校も悪いと
憤然とした。

 同級のみんなに意見を述べると、
 一同異議がない。
 家に帰って父親にもこの議論を持ちかけて、
 小間使いの命を一度は救ってやってくれるよう嘆願した。

とにかくそれで小間使いのクビはなくなった。
根回しし、有力者に頼む。
一三は青年の時からビジネスの基本を
知っていたようだ。

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大友美有紀 16年1月3日放送

160103-02

「小林一三」 有望なる電車

阪急電鉄の前身、
箕面有馬電気軌道の開業当時、
小林一三は、資金繰りに苦しんでいた。
そこで工事中にもかかわらず
出資者に事業を説明するPR誌
「最も有望なる電車」を作った。
最初のページから
小説家志望だった一三の文学的センスが
存分に発揮されている。

 箕面有馬電鉄の沿道はそんなによいところですか。
 之は委(くわ)しく申し上げるまでもありません。
 この沿道は飲料水の清澄(せいちょう)なること、
 冬は山を北に背にして暖かく、
 夏は大阪湾を見下ろして吹き来る汐風の涼しく、
 春は花、秋は紅葉と申分ないことは論より証拠で
 御一覧になるのが一番早わかりが致します。

 
大阪の狭い住居で暮らす人は、
きっとここに住みたくなっただろう。

「最も有望なる電車」は、
日本のPR誌の原点とも言われている。

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大友美有紀 16年1月3日放送

160103-03

「小林一三」 宝塚少女歌劇団

明治四十三年三月、箕面有馬電気軌道の
石橋-箕面間、大阪梅田-宝塚間の二路線が開通。
当時の宝塚は、山しかない。
人は住んでいたものの
にぎやかな場所ではなかった。
創業者の小林一三は、
山奥へなんとかしてお客を引っぱり出そうと
宝塚新温泉をつくり、少女歌劇団を結成した。

 初めはそんな大きな歌劇を拵(こしら)えよう
 という意思は毛頭なかったのです。
 ただ当時三越に西洋音楽の少年楽隊というものが
 あったので、それに対して少女楽隊を作ろうという
 程度だったのです。
 少女楽隊をやっている間に
 たまたま東京で帝劇の歌劇を見て、
 うちの子たちにも、ああいった真似は出来ないものかと
 相談したら、出来るというんで拵えたのです。

最初の劇場は、温水プールを改造したもの。
それが百年続く歌劇団になった。
たまたまにしては、壮大である。

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大友美有紀 16年1月3日放送

160103-04

「小林一三」 阪急百貨店

箕面有馬電気軌道は、阪神急行電鉄となり、
神戸線が開通すると梅田駅は大きなターミナル駅となった。
毎日十二、三万人の乗客が利用する。
創業者の小林一三は、ここに百貨店を開業する構想を抱いた。
当時の百貨店のほとんどが呉服店から出発し、
駅から離れた場所にあるため、
自動車での無料送迎サービスを行っていた。
一三は、これを自分の電鉄事業と結びつけたらどうだろうと
考えたのである。

 乗客の全部が買い物をする訳ではもとよりないが、
 それでも煙草を買い昼食を食うぐらいのことは
 誰でもするだろう。
 それにはここから自動車で各自の百貨店へ行くよりも、
 ここで用事が足りるような百貨店を
 新設するに超したことはない。

 
当時日本にも外国にも
百貨店を経営する電鉄会社はなかった。
希代のアイデアマン、小林一三は前例がないからといって、
やって悪いことはない、と百貨店事業をスタートさせた。

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大友美有紀 16年1月3日放送

160103-05

「小林一三」 大衆芸術

阪急電鉄の創業者であり、宝塚歌劇の生みの親でもある
小林一三は、常に「大衆のために」何が出来るかを考えていた。
昭和七年、本格的な東京進出を試み、
東京宝塚劇場を設立。
家族で楽しめる娯楽の中心地帯を創らねばと考え、
拠点を日比谷に定めた。
それまでの個人で楽しむ娯楽の中心地は、
カフェや売春屈が出来たりと悪くなる傾向にあったからだ。

 日比谷には公園があるのみならず、公会堂があり、
 図書館があり、隣には帝国ホテル、そうして幸い
 あの付近に空き地がたくさんある。

 
東京宝塚劇場のモットーは、
「大衆芸術の陣営、家庭共楽の殿堂」。
会社員が仕事帰りに来られるよう公演時間を、
平日は夜六時から十時までとした。
観覧料も安くし、当日券も販売した。
伝統的な芸能や松竹とは、違うやり方だ。
結果、他社と摩擦なく事業を展開できた。
いや、それは一三の目論見通りだったのかもしれない。

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大友美有紀 16年1月3日放送

160103-06

「小林一三」 平凡主義

阪神電鉄の創業者、小林一三は、
出世する方法を問われて、重宝な便利な人になるか、
ぜひ無くてはならない人になるかの二つしかない、
と答えた。必要な人になるのは非常に難しいが、
便利な人になるのは、心掛け次第で誰にでも出来る、という。

  便利な人になるには、平凡主義です。
  何でもなく、朝早く起きて毎日始業の三十分前に
  会社に出る。そうすれば成功する。
  そう私は考えております。

  
課長が朝早く来て、一人だけ先に出社している。
目に止まる。覚えてもらえる。
何か仕事があれば、あいつにやらせてみよう、ということになる。
チャンスをつかむ。
便利な人は、重宝な人になり、異動させたいと思っても、
今あの人に動かれては困る、となり、必要な人となる。

  何でもないようですが、
  一万人の中にこれを実行できる人は
  ほとんどいないといって良いくらいです。

必要な人になるのは難しいのだ。

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大友美有紀 16年1月3日放送

160103-07

「小林一三」 結婚第一

阪急電鉄の創業者、小林一三は、
宝塚、阪急百貨店などで三千人以上の若い女性を擁していた。
一三は、その前途を誤らせないように努め、
その幸福を守ってやることを唯一の目的として、
「結婚第一主義」を常々説いていた。
それは決して「女は家庭に入れ」ということではない。

  宝塚音楽歌劇学校で教育する方針も、
  上手な女優を作るという考えは少しもなく、
  ただ一人前の女性を作り上げたいとばかり考えています。
  私がもし六百人の女生徒に、芸術専門の教育をしたら、
  幾十人かの芸術家を生み出すことはさほど困難ではないと思います。
  ただし、その幾十人かを作り出すために、残りの五百数十人は、
  立派な芸術家にもなれず、さりとて、
  家庭の奥様となるに相応しい教養をも受けていない、
  中途半端な女性を作らねばならぬことになります。

芸術家になる天分のある者は、自分で道を開拓できる。
一三はそうではない女性たちの幸福を考えていたのだ。
平凡主義、大衆第一に通ずる考えである。

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大友美有紀 16年1月3日放送

160103-08

「小林一三」 見えない二

一月三日生まれだから「一三」。
阪急電鉄の創業者、小林一三の事業のスタートも
一と三だと言う人がいる。
東宝と阪急の会長を歴任した、清水雅(まさし)。
 
 一と三はあるが、二がないのである。
 一にあたる事業計画は出来るが、
 二の掛け声のところが世間からは、まったく見えないのである。
 二にあたる部分が、長い間、暖められ、研究され、準備されて
 満を持しているからである。
 さて三の掛け声がかかるとカン馬のごとく猛然と飛び出していく。
 世間があれよ、あれよと目を見張っている間に、 
 ゴールインするという寸法や。

一三の経営哲学は、無理をしないこと。
無理をすれば必ず焦る、焦れば破綻が起こり、
また無理を重ね失敗する。

それは、無難に物事を進める、という意味ではない。
無理ではないと思えるまで思案する大切さを説いているのだ。
世間から見えない「二」が要なのである。

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