大友美有紀

大友美有紀 15年11月7日放送

151107-03

「古川緑波」帝国ホテルのグリル

昭和の喜劇役者にして、エッセイスト、
古川緑波の食べることにかける情熱は、異様だった。
昭和19年、帝国ホテルのグリルが注文制となった。
事前に二人前を申し込む。その日の日記。

 一人前だと困るので、
 影武者も連れて行き、その分も食う。
 彼は、目の前へ並んだのを見るだけだ。
 辛かろうが、許せ。

困る、とはどういうことだろう。
緑波は、美食家であるうえに、大食漢でもあった。

その夜、知り合いに連れていかれた茶房で、
鶏肉、卵、その他いろいろ御馳走になり、
ウイスキーで心地よく酔う。

 帰りの駅までの道遠く、
 月明の下を、テクテク歩き、
 酔いも醒める。

少し残念そうである。贅沢な男だ。

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大友美有紀 15年11月7日放送

151107-04

「古川緑波」めがね卵

昭和の喜劇役者・古川緑波は、
戦時下でも、撮影や公演で、各地を訪れる。
行く先々でも、旨いものを食べるために苦心していた。
大阪で舞台千秋楽の後、食べるものがない。

 今夜はウイスキーを一人で飲もう
 宿には何の肴もない
 一個一円二十銭で買った卵を二つ
 めがね卵にしてもらって
 それで飲む
 しみじみと、めがね卵を見た
 こんなによく見たことははじめてだ
 塩をふりかけて先ず白身を少し食べる
 黄身がトロリと溶けた
 黄身を食べる うまいな
 めがね卵は よきもの
 二つの卵はウイスキー三杯の間に
 なくなってしまった
 皿には黄身が少しついている
 皿を手に取るや ペロリと舐めた
 そして又 一杯
 めがね卵は もういない

切ないが、とてもおいしそうだ。

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大友美有紀 15年11月7日放送

151107-05

「古川緑波」野菜のサンドウィッチ

昭和の喜劇役者・古川緑波は、
美食家であり大食漢だった。
彼には戦時中の食糧難は堪え難かった。

放送局の食堂で皿盛りのうどんを二皿食べた後、録音。
手間取っているうちに、空腹になってしまう。

 いろいろな食物の、まぼろし浮かぶ。
 野菜のサンドウィッチの大写しが
 一番印象的だった。
 そんな風で落ち着かず珍しくNG二回出す。

笑えるほど、食べることばかり考えている。

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大友美有紀 15年10月17日放送

151017-01

「空を飛びたい」モンゴルフィエ兄弟

1783年、南フランスのモンゴルフィエ兄弟が、
不思議な球体を街の市場で披露した。

その球体は複数のパーツに分かれている布と紙を
1800個のボタンで留めたもの。

モンゴルフィエ兄弟が
その下で火を焚きはじめると
やがて球体は地面から離れて上昇しはじめた。

 バロンが天へ昇って行く

兄弟は大声で、皆に知らせた。
これは熱気球の原形。
高度1600m以上に達したといわれている。
バロンとは、フランス語で「袋」のこと。
英語の風船や気球の語源となった。

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大友美有紀 15年10月17日放送

151017-02

「空を飛びたい」ガルヌランのパラシュート

熱気球飛行にはある不安がつきまとった。
事故が起きて熱気球から飛び降りることに
なったらどうしたらいいのだ。
 
1797年、10月22日、パリ、モンソー公園。
フランスの科学者にして軍人の
アンドレ=ジャック・ガルヌランは、
気球にくくりつけた自作のパラシュートの実験を行った。

1000mの高さに上昇したところで、
気球とパラシュートをつなぐロープを切ったガルヌランは
パラシュートと共にゆっくりと着地した。

観衆は拍手喝采。

空を飛ぶためには、安全に降りることも必要だった。

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大友美有紀 15年10月17日放送

151017-03

「空を飛びたい」ライト兄弟の計画

1903年10月17日、人類初の動力有人飛行。
飛行時間は12秒。ライト兄弟が成し遂げた偉業だ。
しかし、最初に飛行機を作って飛ばしたのは、
ライト兄弟ではない、と主張する人々がいる。

テネシー州のメルヴィル・M・モレルは、
パイロットが滑車とヒモを操る
「アメリカン・フライング・マシーン」で
1877年8月、90mを超える飛行に成功。
その場にいたのはモレルの牧場の使用人だった。

ニュージーランドのリチャード・ピアースは、
エンジンをつけた動力飛行機で
1903年3月に試験飛行を成功。
しかし、その後は改良も発展も続けなかった。

 ライト兄弟は計画をきちんと明らかにし、証人も用意した。
 初飛行のあと、2人はその後の人生を飛行機の改良に捧げた。

偉業には記憶も記録も必要だと理解していたのだ。

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大友美有紀 15年10月17日放送

151017-04

「空を飛びたい」ニューヨークタイムズの謝罪

1919年、
マサチューセッツ州、クラーク大学のロバート・ゴダード教授は、
ロケットとロケット工学に関する論文を発表し、
ロケットを地球の大気圏の外、
それどころか月まで飛ばすことができると延べた。

それを知った「ニューヨークタイムズ」紙は、
ゴダードを酷評する社説を掲載。

 月にまで飛ぶことができるとする彼の考えは、
 「高校レベルの知識すら持っていない」

それから50年後の1969年7月17日、
アポロ11号が月へ旅立った翌日、
「ニューヨークタイムズ」紙に謝罪文が載った。
 
 さらなる調査および実験により、
 大気中と同様に 真空中でもロケットが
 飛行しうることは明確に実証されました。
 本誌は過去の過ちを後悔しています。

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大友美有紀 15年10月17日放送

151017-05

「空を飛びたい」ニューヨークタイムズの謝罪

カエデの種は、翼果(よくか)と呼ばれる
2枚の羽を持つ果実の中にあり、
くるくると回って落ちてくる。
これは、ヘリコプターのプロペラの構造と同じ。
レオナルド・ダ・ヴィンチも
スクリュー型のプロペラを持つ機械のスケッチを描いている。

けれども、パイロットを乗せたヘリコプターが
地上を離れて舞い上がったのは20世紀になってからだった。

高度1フィート(約30センチ)、20分間の
初飛行だった。

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大友美有紀 15年9月6日放送

150906-01
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「あの日からサウダージ」 ナラ・レオン

「あの日からサウダージ」
ボサノヴァのミューズ、ナラ・レオンが
歌詞を書き下ろした、
日本のビールのCMのための音楽。

 原題は、Suadades de você(サウダージュ デ ヴォセ)
 あなたへの郷愁、あなたのいない切なさ、と言った意味。
 失った愛と戻ってきた愛について歌っている。

作曲は、ホベルト・メネスカル。
ナラの最初の恋人だった。

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大友美有紀 15年9月6日放送

150906-02
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「殻」 ナラ・レオン

ボサノバのミューズ、ナラ・レオンは、
子どもの頃、いつもコンプレックスを持っていた。
姉のダヌーザは、ブラジルで一番有名なモデルだった。
姉が活躍し、輝きを増すにつれ、
ナラは自分の殻に閉じこもりがちになっていく。

 12歳の頃は、泣いてばかりいた。
 おとなしくて、シャイで、
 自分自身をすごく醜いと思っていたわ。
 最悪なのは、美人の妹だっていうこと。
 あのとき、ナラ・レオンは
 まだ存在していなかったわ。

ギターを弾くことを覚え、歌を歌いはじめ、
シャイな女の子は、いつしか女神になった。

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