大友美有紀

大友美有紀 15年9月6日放送

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「ボサノヴァが生まれた家」 ナラ・レオン

  私の家庭は、イギリスでいうところのクラスレス。
  社会的階級に属さない変わった家庭だった。

ナラ・レオン、ボサノヴァのミューズと呼ばれる彼女が
育ったのは自由な家庭だった。
行儀よくしろ、とか、伝統を守れ、とか
そういうこととは関係なかった。
コパカバーナにあったナラの家は、3LDKのマンション。
でも普通の3LDKよりはずっと大きく、
それぞれの部屋がすごく離れていた。
居間でパーティーをしたり、集まったりできた。
ほぼ毎晩、仲間が集まり演奏したり、歌い、
情報交換していた。音楽集会が開かれていたのだ。
のちにMPB(エミペーベー)、
ムジカ・ポプラール・ブラジレイラの歴史を築く人物たちも
集まるようになっていった。
アントニオ・カルロス・ジョビンや
ジョアン・ジルベルトも参加したことがある。
ナラの家でボサノヴァが生まれた、という人もいる。

 私はグループにとってコンピュータみたいな存在だったわね。
 全曲の歌詞とメロディーとコードを暗記していたから。
 でも誰かが曲を思い出したい時にしか、
 口を開けなかったし歌えなかった。

ナラがグループに残ったのは、そこが自分の家だったから。
そんな単純な出来事が、ボサノヴァの女神を生んだ。

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大友美有紀 15年9月6日放送

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cogdogblog
「ボサノヴァ」ナラ・レオン

ボサは「隆起、傾向、素質」といった意味。
ノヴァは「新しい」。
つまりボサノヴァは、ニューウェイブだった。
ブラジルでの全盛期は1950年代の終わりから
60年代の前半ころまで。
その後はもっとテンポが早く、
リズミカルな音楽が流行っていく。

 美しいメロディ、ハーモニーと
 心地よいリズムにのった
 プライベート・ウィスパーソング

ナラ・レオンがボサノヴァを表現する言葉。
まるで彼女自身のようだ。

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大友美有紀 15年9月6日放送

150906-05
GlevumSunday
「小鳥のような声」ナラ・レオン

1959年、秋、海軍兵学校で開かれたコンサートで、
ナラ・レオンは、始めて舞台に立つ。

 みなさん、ボサノヴァの一番若いメンバーを紹介します。
 今日、始めて人前で歌います。ナラ!

そう紹介されるとナラは、パニックになった。
お客さんに背を向けて、半泣きで歌った。
けれどもその歌は大喝采を受けた。

かわいらしいヒザと前髪、
小鳥のような歌い方、ギターの腕前のよさ。
コパカバーナの少女、ナラ・レオンは、
徐々に人気を獲得していく。
各地でライブに呼ばれ、レコーディングに参加する。
1963年、プロとしての初仕事となる演劇作品
「哀れな金持ちの娘」に出演する。
マスコミもナラを賞賛した。

 ナラ・レオンは、将来もっと上手になるだろうと
 思わせるギターを弾き、とても音感がよく、
 素晴らしい声を持っている女の子だ。

 
こうして、ボサノヴァのミューズへの第一歩を踏み出した。

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大友美有紀 15年9月6日放送

150906-06
ditadura3
「ボサノヴァとの訣別」 ナラ・レオン

デビューから、瞬く間に人気を博していった、ナラ・レオン。
いつからか「ボサノヴァのミューズ」と呼ばれるようになった。

このころブラジルの政情は、不安定だった。
ナラは、愛や海や花をモチーフにするボサノヴァの歌詞に
否定的になっていった。ミューズと呼ばれることも気に入らなかった。
自分の言いたいことを主張している音楽を求め始めた。

そして1964年4月1日、ブラジルで軍事クーデターが起こった。
その2週間後、ナラは「オピニオン」という歌をコンサートで歌う。

  殴ったっていい
  捕まえたっていい
  何も食べ物が与えられなくてもいい
  でも私は意見を変えない

  
ナラは、マスコミから自分を「反逆分子」と思うかと問われる。
軍事政権に賛成しないのか、と。
  
  人々の悲劇や、問題、悲しみ、苦悩や喜びを歌うのが
  「反逆分子」なら、そう呼ばれることから逃れられないわ

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大友美有紀 15年9月6日放送

150906-07

「パリへ」 ナラ・レオン

ブラジルの軍事政権は検閲という圧力で、
アーティストたちの表現の自由を奪っていった。
軍警察はナラ・レオンを逮捕したがっているという情報がはいる。
ナラと夫の映画監督カカー・ヂエゲスは、
ブラジルから出国し、パリに移り住んだ。
ナラは、パリでとても幸せだった。

  誰も私のことを知らなかったし、
  普通の生活ができたの。

ナラは、ボサノヴァのミューズであることからも解放された。

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大友美有紀 15年9月6日放送

150906-08
pincusvt
「再び、美しきボサノヴァのミューズ」 ナラ・レオン

1970年、ナラ・レオンはパリで穏やかな生活を送っていた。
ブラジルの音楽にフランス語の歌詞をつけたり、
フランス語からポルトガル語の歌詞を作る仕事をしていた。
そして、音楽を通じて「ブラジル」を見いだしたいと思っていた。
軍事政権の灰色のブラジルではなく、
思春期時代の希望に満ちたブラジル。

 上手く説明できないのだけれど、
 でも、急に、唯一歌いたいと思ったのが
 ボサノヴァだったの。
 ギターを手に取って歌いはじめた。

 
そこにブラジルから、ナラ・レオンのアルバムを
録りたい、という手紙が届く。
ボサノヴァ集だった。
ナラは、再び音楽が好きになった。
そのアルバムのタイトルは
「美しきボサノヴァのミューズ/Dez anos depois」
女神は帰ってきた。

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大友美有紀 15年7月5日放送

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「作家の時間割」トーマス・マン

午前8時前に起きる。
妻とコーヒーを飲み、
風呂に入って着替え、
8時半に妻と一緒に朝食をとる。
9時に書斎に入ったら、来客にも電話にも家族の呼びかけにも
一切応じない。
ベニスに死す、魔の山などを著したトーマス・マンの
仕事の時間割だ。

 すべての文を完璧に
 すべての形容詞を的確に
 歯を食いしばって一歩ずつ、ゆっくりと進む

子どもたちは9時から正午までは
絶対に物音を立ててはいけないと躾けられた。

自分にも家族にも厳しい創作活動だった。

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大友美有紀 15年7月5日放送

150705-02

「作家の時間割」オノレ・ド・バルザック

午後6時に軽い夕食をとった後、ベッドに入って寝る。
午前1時に起きて書きもの机の前に座ると7時間ぶっ通しで書く。
午前8時から1時間半仮眠。
午前9時半から4時まで仕事。
19世紀フランスを代表する作家バルザックは、
自分を容赦なく追い込んだ。
大きく膨れ上がった文学的野心と次々に訪れる借金取りと
際限なく飲むコーヒーがそれを後押しした。

 私は生きているのではない。
 自分自身を、恐ろしいやり方で消耗させている。
 だが、どうせ死ぬなら、
 仕事で死のうと他のことで死のうと同じだ。

自身を削り、1日1日が、日なたにおいた氷のように溶けていくと感じながら、
90篇あまりにわたる「人間喜劇」を執筆したのだ。

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大友美有紀 15年7月5日放送

150705-03

「作家の時間割」ボーヴォワールとサルトル

 人は女に生まれるのではない、女になるのだ

「第二の性」を著した女性作家シモーヌ・ド・ボーヴォワール。
20世紀フェミニズム運動の象徴的存在であり、
実存主義の哲学者サルトルのパートナー。
二人の間には「お互いに自由に恋愛し、それを一切隠し立てしない」
という取り決めがあった。

ボーヴォワールは朝起きて恋人とお茶を飲んでから
10時ごろに仕事を始める。1時ごろまで続けると、
サルトルのところへ行って昼食をとる。
恋人と一緒の時もあった。
それからサルトルのアパートで3、4時間、
黙って二人で仕事をする。
恋人がいるときは、夕食の後、自分のアパートに帰る。

サルトルは、自分のアパートで正午まで仕事をすると、
秘書が予定をいれた会合に1時間ほど出かける。
1時半にはボーヴォワールと一緒に食事してから仕事。
夜は政治集会に出かけたり、社交の場に行ったり、
ボーヴォワールと映画を見たり。
そしてバルビタール系睡眠薬を飲んで
2、3時間死んだように眠る。

 それほど長時間働かなくても、豊かな結果を生むことはできる。
 とサルトルは言う。

2人の奇妙で几帳面な関係は50年という長時間続いたのだった。

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大友美有紀 15年7月5日放送

150705-04

「作家の時間割」ジョルジュ・サンド

ほとんど毎晩、最低でも20枚の原稿を書く。
女性作家、ジョルジュ・サンド。
男装趣味や数々の男性遍歴、ショパンとの逃避行など、
自由奔放なイメージがあるが、仕事ぶりは真面目だった。
いつも夜遅くに執筆する。
それは10代の頃、病弱な祖母の世話をしていて
身についた習慣だった。

 夢遊病のようになって書いていたこともあった。
 書いたものを棚の上に置いておかなかったら
 タイトルすら思い出さなかっただろう。

それでも彼女は書く。
夜はサンドが一人で考えることのできる
唯一の時間だったから。

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