「果敢に」横尾忠則
美術家・横尾忠則。人生のモットーは「受け身のポジティブ」。
なんでも、とにかく言われたことは受け入れる。
受け入れた中で、積極的にわがままに思いっきりやる。
若い頃、入社した新聞社である女性と出会う。
その時ばかりは、受け身ではなく積極果敢にプロポーズした。
6月7日、今日は、プロポーズの日。
「果敢に」横尾忠則
美術家・横尾忠則。人生のモットーは「受け身のポジティブ」。
なんでも、とにかく言われたことは受け入れる。
受け入れた中で、積極的にわがままに思いっきりやる。
若い頃、入社した新聞社である女性と出会う。
その時ばかりは、受け身ではなく積極果敢にプロポーズした。
6月7日、今日は、プロポーズの日。
「なりゆき」忌野清志郎
今日は、プロポーズの日。
「愛しあってるかい」と呼びかけ続けた忌野清志郎は、
結婚のきっかけを「子どもができちゃって仕方なく籍を入れた」と言っていた。
だって別に籍入れなくていいんじゃないのって言ったんだけど
それだといろいろ、生まれたときに手続きが大変だから、
じゃあ婚姻届けを出そうかなんて。
彼、一流の「照れ」の表現。
付き合っていた頃、妻となる女性が出張に行ったのを
「男と金を持って逃げた」と思い込み
部屋をめちゃめちゃにした。
真剣で、愛情表現が下手だった。
プロポーズは、人生を変える。
ceiver
「リカちゃん電話」香山リカ
5月3日は、香山リカ、リカちゃんの誕生日。
あかるくてちょっぴりあわてんぼうな小学5年生。
リカちゃんは、電話をかけると今でもお喋りしてくれます。
1967年、リカちゃん人形が発売されてしばらくたった頃、
発売元のタカラに「リカちゃんはいますか」という電話がかかってきた。
電話に出た女性社員が「こんにちは、わたしがリカよ」と答えた。
それがリカちゃん電話のはじまり。
当時の少女たちはリカちゃんが本当にいると思っていたのだった。
リカね、電車に乗った時、おばあちゃんに席をゆずったの。
恥ずかしかったけど、勇気を出してよかったわ。
日常の出来事を会話に入れて、楽しい話題に子どもたちを引き込むようにした。
極力、売らんがための姿勢は控え、新製品の情報は入れなかった。
RomitaGirl67
「日本の着せ替え人形」小島康宏(こじまやすひろ)
1967年、リカちゃん人形が発売された。
そのころの着せ替え人形といえば、、
バービーやタミーのように
金髪で目が碧い、西洋人形が定番だった。
リカちゃんが登場すると、当時の少女たちは、
「自分たちとおんなじだ」と新鮮な驚きを感じた。
初代開発者は、小島康宏。
私たちは当時、それまでにない“日本の人形”を
作ろうという志に燃えて「リカちゃん」人形を
送り出しました。
しかし、実のところはじめから人形を作ろうと
していたわけではありませんでした。
最初は他の人形のキャリングケースをつくろうとしていた。
ビニール玩具を製造するタカラが
経営を多角化するための第一歩だった。
improbcat
「家付き」小島康宏(こじまやすひろ)
1966年、26歳だったタカラ社員、小島康宏は、
当時の社長、佐藤安太から着せ替え人形を入れる
キャリングケースの製造担当に任命される。
小島は、アメリカ輸出向けのビニール玩具の需要が減り、
赴任先の香港工場から呼び戻されたばかり。
「だっこちゃん」人形で空前のヒットを記録したタカラだったが、
このころはビニール玩具の需要が減り、事業の多角化が求められていた。
バービー用に持ち運びできるドールハウスがあることは聞いていた。
けれど、実物を見たことがない。銀座のデパートを数件回っても見つからない。
神田の古書店でシアーズの通販カタログを手に入れ、
どういうものかやっとわかった。
横長のトランクケースをあけるとソファ、テーブルやベッドなどの家具がある。
部屋そのもの。アメリカの豊かさを感じさせるハウスだった。
カタログにあったインチ表示を見ながら試作すると
横66センチ、縦35センチの随分大きなものになってしまった。
日本の女の子には、バービー用のドールハウスでは大きすぎる。
小さいサイズの人形を作り、それにぴったりのハウスをつけて
一緒に売り出したらどうだろう。
そのころ、結婚するなら「家付き、カー付き、ババァ抜き」という言葉が
流行っていた。人形に、その流行の家が付くのなら、
子どもたちも大喜びするはず、と考えた。
N@ncyN@nce
「リカちゃんハウス」照井真澄(てるいますみ)
リカちゃん人形の初代開発者、小島康宏と一緒に開発に取り組んだ人物がいる。
照井真澄。人形劇の舞台美術をやっていたという経歴の持ち主。
小島は人形担当。照井はハウス担当。
日本は戦後から脱しきれていない時代。
玄関を入ると三和土があり、畳の上に絨毯を敷いて
応接間にしている家がたくさんあった。
作るからには今までにない夢がたくさんつまったハウスにしようと考えた。
カバンを開けてただのお家じゃ、つまらない。
宮殿や噴水のあるロマンティックな雰囲気を出すために、
舞台の書き割りのようなだまし絵を入れることにした。
照井は、だまし絵にこだわった。
階段は優雅な曲線で、遠くの欄干にも蔓草や貝殻の模様をしっかり刻む。
遠近法で正確に写し出して、だまし絵の世界を成立させる。
今でもハウスの背景を覚えている、元少女たちが多いのも、
照井のこだわりがあってこそだ。
Vintage Japan-esque
「少女まんがの世界」小島康宏(こじまやすひろ)
タカラがリカちゃん人形の開発に着手した当時、
ファッションドールの市場競争は激化していた。
タカラは後発である。
初代開発担当の小島たちは、どんな人形にするか、必死になって考えていた。
りぼん、マーガレット、なかよしなどの少女まんが雑誌を端から読んだ。
ストーリーは、どれもお涙頂戴物。ヒロインは家が貧乏だったり、
父親が不慮の事故で死んでしまったり。
まんがを読んでいる女の子たちが身近に感じてくれる人形がいい。
日本の女の子たちが迷わず友達にしてくれるような人形。
少女まんがを眺めていると、そこには女の子たちが触れている空気、
少女特有の感慨や好奇心であふれていた。
この世界を立体化したらどうだろう、という考えが沸いてきた。
一番はじめのリーフレットに記載された
リカちゃんのプロフィールにもその世界観が生きている。
お父さん、フランス人。お母さん、日本人。
リカちゃん、とてもやさしい。好きなこと、絵がじょうず。
べんきょう、あまりできない。
悩み、フランスにわたった父がわからない。
少女たちが大好きなものを形にする。
こんな当たり前のことが、当時のファッションドール業界では
独創的で新しい発想だった。
holy-molybdenum
「視線」いづみちゃん
人形の目は、左右どちらかを向いていることが多い。
初代開発担当者の小島は、彩色を行う時、
目は正面ではなく左右どちらかを向かせてほしいとお願いした。
だからリカちゃんは視線が向かって右側を向いている。
これに対してリカちゃんのお友達のいづみちゃんは、
視線を正面に合わせてみました。
澄んだブルーの瞳で前を見つめるいづみちゃんは、
上品で清純で媚びない正統派の美しさがある。
正面は正面で、よいものでした。
試作の彩色は、自然光のしたで行い、細かなやり取りをした。
ローズピンクが多かった人形の唇を、みかん色に、
というのも小島のアイデアだった。
つぶらな瞳にオレンジ色の唇をした日本人のルックスをした女の子、
リカちゃんは、こうして生まれた。
タカラトミーリカちゃん
「非対称の顔」小島康宏(こじまやすひろ)
リカちゃん人形の金型を起こす直前、開発担当者の小島は
最終OKがでた原形の粘土を、落としてしまった。
左側の鼻が少しへこんだ。
けれども、これぐらいなら大丈夫だろうと安易に考えて、
製造メーカーに渡してしまった。
製造メーカーの担当の方は、粘土の原形を見て
「これは、いい顔をしていますね」とほめてくれました。
あれは鼻がちょっと押された分、顔が非対称になって
より人間らしくなったということではないかと思います。
「リカちゃんの流行」小島康宏(こじまやすひろ)
1968年、リカちゃんに友達ができた。
やさしい「いづみちゃん」とかっこいい「わたるくん」。
そのころ「トリオ」という言葉が流行っていた。
3人は「リカちゃんトリオ」となる。
このころから着せ替えのドレスは格段にお洒落になる。
60年代後半、昭和元禄と呼ばれ好景気に浮かれた時代。
ミニスカートにパンタロン、ロングスカーフ、ボレロにマキシのコート。
新しいアイテムをどんどん取り入れていった。
ただ、これにはひとつ決まりがあって、
近寄りがたい最先端の流行ではなく、
それを着た人を東京の下町でも見かけるようになったら、
リカちゃんも即OKとしました。
いつかは手の届きそうな流行を届ける。
初代開発担当者の小島は、
リカちゃんは女の子たちの半歩先を行く憧れの存在と考えていた。
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