大友美有紀

大友美有紀 15年1月4日放送

150104-03

「ペリー来航」前島密(まえじまひそか)

日本近代郵便の父、前島密は10代の頃、
医学、蘭学を学ぶために江戸に出た。
そして、19歳の時、ペリーが浦賀に入港する。
当時日本は、外国に対する防衛は
ほとんどできていなかった。
砲台や大砲の建造に関して議論されていても、
その実際の方法を知る人は少なかった。

長崎に行き、旧来の砲台を見たいと思った。
外国船が多く寄港する大阪にも立ち寄り、
砲台の建築計画の参考にしようと考えた。
旅費の足りないところは野宿で補う。むしろ野宿によって、
体力を鍛えようと計画した。

越後にもどり、北陸道、山陰道、から下関へ。
九州の北岸、西岸を経て長崎へ。
砲台見学をして、肥後、日向、豊後へ。
佐賀関から海を渡り伊予、讃岐、紀伊へ。
伊勢から三河、東海道を通って伊豆下田に至り、江戸へ戻る。
西日本をほぼ一周する大旅行にもかかわらず、房五郎は反省する。

 いたずらに血気に駆られて妄動せしに過ぎなかった。

見聞の結果を当局に提言しようと考えていた。
だが、一介の少年の意見が取り入れられる見込みなどない。
もっと自分には学問が必要だと、痛感したのだった。

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大友美有紀 15年1月4日放送

150104-04

「密という名」前島密(まえじまひそか)

前島密は、幼名は房五郎、
そののちに、巻退蔵を名乗り、
前島家を相続したあとは、来輔となり、密と名を変えている。
改名の際の文字の出典は、朱子の『中庸章句』という書。

 其の書は、始めに一理を言い、中頃転じて万事となり、
 末にまたがっして一理となる。
 之を放てば、すなわち六合(りくごう)にわたり、
 之を巻けば、すなわち密に退蔵し、
 その味はひ窮まりなし。

当時の知識人にとって『中庸章句』は初学の書であり、
これは巻頭の文。
聡明であった少年・房五郎は、この書にとても惹かれていた。

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大友美有紀 15年1月4日放送

150104-05

「郵便事業のスタート」前島密(まえじまひそか)

日本近代郵便の父・前島密は郵便事業が実際にスタートする際、
実は、日本にはいなかった。
従来あった飛脚便をもとに郵便事業を官業として行うことを
建議にしたのち、イギリス出張を命じられた。

前島の外遊中に郵便事業はスタートする。
事業を任ぜられていたのは浜口儀兵衛。
イギリスの郵便事業を調査してきた前島は、
帰京すると浜口にその内容を語ろうとした。
が、浜口は、前島の話に興味を持たない。
当時、国政に関わる人間のなかには、
金銭を扱う業務に抵抗を感じるものもいた。
浜口も、そういった人間のひとりだった。

 郵便なんぞはむかしから飛脚がしてきた商売だから、
 成績が良ければ、元々通り彼らの営業とさした方が
 よかろうと言って居る。
 それで私は、自分の外には適任者がいないと思った。

前島は意を決し郵便事業の長官に任ぜられるように請願した。
こうして日本近代郵便の父となったのだ。

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大友美有紀 15年1月4日放送

150104-06

「漢字廃止論」前島密(まえじまひそか)

日本近代郵便の父・前島密は、
西洋諸国の様に音票文字を使えば、学問の修得も
容易になると考えていた。
日本語の文字には平仮名、カタカナ、漢字の3種類があり、
学問の基礎になる文字を覚えるのに時間がかかってしまうからだ。

将軍徳川慶喜に「漢字御廃止之儀」という建議書を
提出したこともあった。

  国家の大本は国民の教育にあり、
  その教育はあまねく国民に施さなければならず、
  普及させるにはなるべく簡易なる文字文章を
  用いなければならぬ。

  
のちに郵便事業が軌道にのると、全く漢字を用いない仮名書き新聞
「まいにち ひらがな しんぶんし」を刊行した。

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大友美有紀 15年1月4日放送

150104-07

「電気の姿」前島密(まえじまひそか)

前島密は郵便と電信、電話の事業は統括すべきだと考えていた。
特に電気については早くから強い興味を持っていた。
ある日、電気の本質の夢を見る。
それは果てしない虚無の世界にうかぶ
白衣の観音菩薩蔵のような女性。
右手を天に向け、左手は大地を慈しむような姿。
眉間から屈曲光線を発射し、半身は雲の中で明滅している。

  たまたま夢幻の間に現れたる電気の幻影ならん

その姿を友人の画家に描かせ、広く世に知らしめた。
電気、通信にたいする強烈な思いだ。

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大友美有紀 15年1月4日放送

150104-08
nicolacassa
「郵便の語源」前島密(まえじまひそか)

「郵便」という言葉は、前島密の造語と思われている。
しかし、「郵」とは元来「宿場」のこと。
「駅」と同じように公用文書の送り届けも行っていた。
駅には馬偏がついている。
中国では騎馬で送り届けることを駅逓(えきてい)。
徒歩で送り届けることを郵逓(ゆうてい)と言った。
江戸時代の漢学者は飛脚便のことを「郵」の字を使って、
郵便と呼ぶこともあった。それを前島が採用した。
はがきも「はしがき」から来た言葉だが、
葉っぱの葉に、書の字の葉書に決めたのは、前島だ。
 
 葉書なる名称を付すること
 言葉において知りやすく
 意味においても的を得ている。

 
覚えやすく、わかりやすく、
そして親しまれやすく。
日本の郵便事業は拡大していった。

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大友美有紀 14年12月20日放送

141220-01
nettsu
「ティファニー」ティファニー・ブルー

ニューヨーク五番街、女性たちが憧れるジュエラー、ティファニー。
クリスマスに、ティファニーのブルーボックスを
プレゼントされるのは、女の子のひとつの夢。

ティファニー・ブルーは、
コマドリの卵の色を表している、とも言われている。
アメリカ東部で、コマドリは「春告げ鳥」である。
暗く長い冬が終わり、ようやくやってくる明るくて暖かな春。
コマドリの卵は、春の喜びの色。

創業者のチャールズ・ルイス・ティファニーの祖先は、
英国から渡ってきた清教徒だった。
開拓をくり返し、新天地を求めて移動を続けた家族の歴史、
苦難の時代をチャールズはよく知っていた。
辛い時代から、穏やかな日々へ至る道のり。
その喜びをよく知っていたのだ。

 ティファニーが送り出すジュエリーは、
 それを手にする人にとって、
 いつも「春の喜び」であってほしい。

美しいティファニー・ブルーには、
そんな願いがこめられている。

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大友美有紀 14年12月20日放送

141220-02
Kent-Chen
「ティファニー」ティファニー・セッティング

クリスマスの夜。
キャンドルの灯るテーブルで
ディナーを楽しみながら語り合う恋人たち。
彼氏がそっと差し出したのは、ブルーのボックス。
その中には、ダイアモンド。そしてプロポーズ。
映画や少女漫画に登場しそうなロマンティックなシーン。

ティファニーのエンゲージメントリングは、
シンプルで、だからこそ美しい。
ティファニー・セッティングという
6本爪でダイアモンドを支える指輪。
1886年に創業者のチャールズ・ティファニーが考案した。
それまでリングに埋められていたダイアモンドを
爪で持ち上げ、あらゆる角度から見えるようにデザインした。

 爪はできるだけ小さく
 光はできるだけ取り入れる
 真実の愛にふさわしい
 永遠のシンボル

ダイアモンドの全貌を余すところなく見せる。
それはティファニーの公明正大さを表している、とも言える。
清教徒の理想をダイアモンドを通じて世界に伝えたのだ。

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大友美有紀 14年12月20日放送

141220-03
hyperion327
「ティファニー」ルイス・C・ティファニーのギフト

19世紀末アメリカの家庭で一大ブームとなったランプがあった。
シェード部分にステンドグラスの技法を用いた
ティファニー・ランプ。
チャールズ・ティファニーの息子、
ルイス・コンフォート・ティファニーが世に送り出した。

ルイスは、若い頃、画家を目指してヨーロッパへ留学。
その後、ガラス工芸に出会い、
アメリカに戻って工房を立ち上げる。
数多くのステンドグラス作品を手がけ、
玉虫色に輝くファブリルガラスを発明した。
ルイスのデザインには植物や昆虫、風景など、
自然をモチーフにしたものが多くある。
彼は、アメリカのアール・ヌーヴォーの第1人者となった。

その頃、アメリカの家庭には、美しい装飾品はなかった。
ルイスは1点ものの芸術作品を創ることよりも
ガラス製品の事業化に熱意を傾けていく。
花瓶やランプなどの実用品を、手が届く値段で販売したのだ。
 
 私はアメリカの家庭を美的に啓蒙したかった

ただの事業ではなく、美の理想の実現を追求する。
それはルイスからアメリカへのギフトだったのだろう。

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大友美有紀 14年12月20日放送

141220-04
ZakVTA
「ティファニー」オープンハート

クリスマス・プレゼントにティファニーの何がほしい?
と聞くと、オープンハートとこたえる女性は、多い。
定番で、飽きがこないから。
いくつになってもつけられるから。

1974年ティファニーのジュエリー・デザイナーとなった
エルサ・ペレッティは、ヘンリー・ムーアの作品から、
オープンハートの着想を得たという。
空洞を持つ抽象的な彫刻、
純粋で滑らかなライン、
記憶を呼び覚ますような官能的なカタチ。
そこから生まれた洗練されたフォルムと
感傷を排したシンプルなデザインの
オープンハート。

エルサ・ペレッティは、語る。
 
 ジュエリーはファッションではない。
 流行にとらわれずに不変でなければならない。

エルサは20世紀のジュエリーデザインに
大きな変革を引き起こし、世界中の人を魅了した。
そして彼女の言葉通り、不変であり、
今なお愛されている。

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