大友美有紀

大友美有紀 14年9月7日放送

140907-03
ぜっとん
「動物園の人々」天王寺動物園・若生謙二(わこうけんじ)

動物園での動物の見せ方には、
生息地の景観を再現したものと
動物本来の行動をうながすものがある。
景観再現を優先すると人工物は入れたくない、
行動をうながすためには、ロープや鉄棒などが必要になる。

大阪の天王寺動物園の展示づくりに関わっている
若生謙二は、舞台をうまく設定してやることで景観と行動の
双方を再現できるという。
それが「アジアの森」だ。

 アジアゾウの多くは国立公園などで保護されている。
 なので、特定の地域に入って動物を観察するという想定で、
 架空の国立公園を設定した。
 鬱蒼とした森林、ゾウの移動経路や塩なめ場を配置。
 視界の開けた場所をつくり、森から姿を現したゾウに出会う演出。

その後、森から人間の活動場所に戻ることで、
保護区のまわりの、ゾウと人間との摩擦をも展示に取り入れ、
人間の活動と動物の関係を見る人に問いかけたいという。

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大友美有紀 14年9月7日放送

140907-04
ぜっとん
「動物園の人々」広島安佐動物園・南方延宣(みなみがたのぶよし)

「ヒヒ通信」、「キリマンじゃろ」。
広島の安佐動物園の飼育員・南方延宣が描いた
漫画のタイトルだ。
業務日誌に書き込んだイラストに当時の園長が注目。
園内の説明板や入場券に絵を描き、
動物園のホームページに漫画を掲載していた。
来園者からの強い要望で本になった。

 5分立ち止まって観察すれば、
 動物たちの素顔が見える。
 漫画を読んで動物園の面白さを知ってもらう
 キッケケになればと思います。

 
漫画のアイデアは飼育舎の
掃除中に浮かぶことが多いという。

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大友美有紀 14年9月7日放送

140907-05
Caelio
「動物園の人々」京都大学霊長類研究所・松沢哲朗(まつざわてつろう)

チンパンジーの運動場にそびえ立つタワー。
こういった構造物をつくることは、
日本の最近の動物園の傾向だ。

きっけは、京都大学霊長類研究所。
1978年からチンパンジーの知性研究「アイ・プロジェクト」に
携わる松沢哲朗は、野生のチンパンジーの生態研究も行っていた。
野性では、彼らは1日の半分以上を樹の上で暮らす。

 チンパンジーがチンパンジーらしく暮らせるよう、
 「太陽があり、土があり、緑があり、仲間がいる暮らし」を
 目指して、高さ15mのタワーをつくった。
 内部には、高低差を利用した還流式の小川、
 大小さまざまな木々が生育している。

 
心配していた落下事故や脱走もなかった。
タワーを導入した動物園のチンパンジーたちは
喜んで使っているようだ。
松沢はチンパンジーの研究を通じて、人間の心や進化的起源を探り、
「比較認知科学」という新しい研究領域を開拓した。

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大友美有紀 14年9月7日放送

140907-06
ちょめ@しゅんchang,
「動物園の人々」上野動物園・土居利光

最近の動物園では、動物の行動や生態を尊重した飼育方法や
暮らす場所の研究が、とても盛んになってきた。
東京都の上野動物園では、
1996年にすでに「ゴリラ・トラの住む森」を完成させている。
ゴリラ、トラが自然に近い状態で過ごせるよう、
それぞれの生育地に合わせた植栽をおこなっている。
開園130年を迎えた年、園長の土居利光は上野動物園の
原点について触れている。
 
  1873年の建議書には、動物園として選定した場所が
  動植物の生息、生育に適した場所である、と延べられていた。
  実はこれが動物園づくりの原点なのではないだろうか。

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大友美有紀 14年9月7日放送

140907-07

「動物園の人々」多摩動物園・林寿郎(はやしじゅろう)

車で動物たちに近づいていくサファリパーク。
その元祖はなんと、多摩動物公園のライオンバス。
1964年、当時の上野動物園園長・林樹郎が発想した。

 観客が檻の中の動物を見るのではなく、
 観客が檻の中に入って動物を見るのは、
 どうか。

 
このアイデアがヨーロッパでサファリパークとなり、
1970年代に日本に逆輸入されたのだった。

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大友美有紀 14年9月7日放送

140907-08

「動物園の人々」北九州到津(いとうづ)の森公園・岩野敏郎(いわのとしろう)

閉園寸前まで追い込まれて復活した旭山動物園のように、
再生した動物園が北九州にある。到津の森公園。
園長の岩野敏郎は旭山の元園長小菅とは、長年の盟友だった。
1973年、岩野は獣医師として動物園の経営母体だった西日本鉄道に入社。
97年には園長に。赤字続きだった園をたてなおすぞ、
と意欲に燃えていた矢先に、閉園を告げられる。
その後、市民の署名運動が起こり、市が動物園を受け継ぐことになる。
岩野はその時には部外者だ。動物園の構想を相談されることもない。
しかし、開園まで半年、というタイミングで園長を打診される。
もうハードはできてしまっている。
 
 ないものねだりをしても始まらない。
 大事なのは飼育員の精神性、つまりソフトです。
 ハードからハートをとれば濁点が2つ残るだけ。
 ハードの中に自分たちの思いがなければダメなんです。

到津の森公園の理念は「市民と自然を結ぶ窓口」。
今日もたくさんの人たちが足を運ぶ。

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大友美有紀 14年8月3日放送

140803-01

「私の発明」トーベ・ヤンソン

1914年、8月、トーベ・ヤンソンは、
彫刻家の父と画家の母の間に生まれた。
今年で生誕100周年。

初めてのムーミン物語は、
50ページにも満たない小冊子として、
ヘルシンキとストックホルムの駅の
キオスクに並んだ。
とてもさり気ないデビュー。

 主人公のムーミントロールは
 私の発明。

トーベ・ヤンソンは、胸を張って言う。
他にはいない生き物。
だからこそ、今でも愛される。

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大友美有紀 14年8月3日放送

140803-02

「ムーミンを生んだ戦争」トーベ・ヤンソン

新椎気鋭の画家だった、若き日のトーベ・ヤンソン。
反戦・反独裁を唱える政治風刺雑誌『ガルム』に連載していた。
いばりちらす権力者をからかい、古くさい社会システムを
笑い飛ばすキャラクターを描いた。
これが、ムーミントロール。

 ムーミンを描くようになったきっかけは、
 戦争で絵が描けなくなったから。
 じつをいうと現実に背を向けて、
 つくられた世界にひたるという
 一種の逃避でした。

 
当時のムーミンは小さくて痩せてて、
しょっちゅう怒っていた。
検閲で思うように絵が描けない
ヤンソンの憤りを象徴するかのように。

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大友美有紀 14年8月3日放送

140803-03
Mundoo
「悲壮感のない少数派」トーベ・ヤンソン

ムーミンを生み出した作家。トーベ・ヤンソンは、
フィンランドの首都ヘルシンキで生まれた。

しかし父も母も話すのはスェーデン語。
家庭や仲間の共通語もスェーデン語だった。
フィンランドでは言語的少数派。
ムーミンの物語は、その環境を反映している。

 わたしが描いたのはスエーデン語系フィンランド人の家族です。
 どんな少数派グループにもある
 一種の孤立がみてとれるはずです。
 ただし悲壮感はありません。
 ムーミンたちは互いに一緒にいて
 幸せだと思っているし、
 自分たちが住んでいる環境や場所に場所に満足しています。

 
とはいえ、そこにははっきりと
スェーデン語系フィンランド人の特長があると言う。
それは、無謀な権力には屈しない、自由と自立を愛する気質だ。

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大友美有紀 14年8月3日放送

140803-04

「嵐」トーベ・ヤンソン

今なお愛される「ムーミン」を発明した作家、
トーベ・ヤンソン。
あまり知られていないことだが、
ムーミン以外の物語も書いている。
「夏について」という短編で
嵐にのために言葉を発明するシーンがある。

 嵐が小屋をぐるりと回り、
 なかに入って来ようとする。
 嵐が吼えた。
 嵐をいいあらわす言葉を探してみる。

 
ムーミンの物語に、
嵐のシーンがいくつも登場する。
ヤンソンは、たくさんの嵐の表現も発明していた。

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