大友美有紀

大友美有紀 12年12月2日放送



「子どもへの言葉/モーリス・センダック」イギリスにて

アメリカの高名な絵本作家モーリス・センダックは、
39歳のとき、イギリスにいた。
「かいじゅうたちのいるところ」を出版して4年後のことだ。
汽車に乗り美しい田園風景を楽しんでいたとき、
突然、大きな醜いボタ山が現れ景観をぶちこわしにした。
文句を言うモーリスに、隣に座っていたでっぷりした紳士は
「がらくたあるところ、金もまたありじゃよ、お若いの」と言った。

 私はその言葉が忘れられません。
 それは芸術のついての、
 そしてこの世界の状況についての、
 悲しくしかも相当に正確な比喩なのです。

それは1967年、世界が変わろうとしていた時代だった。

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大友美有紀 12年12月2日放送



「子どもへの言葉/モーリス・センダック」ロージーちゃんのひみつ

センダックの絵本の主人公は、
手に負えないぐらいのいたずら者ややんちゃで夢想的な子どもたちだ。
「かいじゅうたちのいるところ」のマックスはあばれんぼうの代表格。
夢想家のこどもは「ロージーちゃんのひみつ」に登場する。

20歳のとき、センダックは職がなく、
健康でもなく金もなく、両親の家で暮らすしかなく、
この先どうすればいいかという手がかりもない状態だった。
ほとんど一日中窓辺にいて、通りをへだてて住む子どもたちや
その家族をスケッチしていた。そこにロージーはいた。

 彼女は猛烈な子どもで、
 この世のものだろうとこの世の外のものだろうと
 なりたいものには何にでもなれる。
 その想像力は感銘を受けずにはいられない。
 ロージーが夢のゲームに込める途方もない
 エネルギーが私の想像力を活性化してくれた。

 
何冊もスケッチ・ブックをいっぱいにして、
センダックはやっとのことで窓の外へ広がる世界へ出てゆく。
そしてその未熟なスケッチたちから、たくさんの主人公が生まれた。

 ロージーは、窓の中の私と窓の外に広がる世界をつなぐ、
 生きた糸のような存在だったのです。

ロージーがいなかったら、私たちも「かいじゅうたちのいるところ」に
いけなかった。

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大友美有紀 12年12月2日放送



「子どもへの言葉/モーリス・センダック」はじめての絵本

モーリス・センダックが初めて手に入れた本は、
姉からの贈り物だった。
最初にやったのは、本をテーブルに立ててまじまじと
見つめること。それは表紙がつやつやとしていて、
とても美しかった。そして匂いをかぎ、齧ってみた。

 姉はびっくりしたことでしょう。
 最後にやっと、読みはじめました。
 それはそれで楽しめました。
 しかし、私が本と本づくりを
 愛するようになったのは
 その時だったと思うのです。

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大友美有紀 12年12月2日放送


Jamie Anderson
「子どもへの言葉/モーリス・センダック」スタイル

アメリカの絵本作家モーリス・センダックが、
絵のスタイルの変化について聞かれた時のことだ。

 スタイルというのは、
 私にとっては目的のための手段でしかなく、
 そのためにはスタイルの持ち合わせがあればあるほど
 いいのです。
 たくさんのスタイルを持っていれば、
 いろいろな本のあいだを自由に動きまわることができます。

そして、センダックは、生涯80冊を越える作品を発表した。

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大友美有紀 12年12月2日放送


tatiana.nyanko
「子どもへの言葉/モーリス・センダック」マックス

モーリス・センダックは「かいじゅうたちのいるところ」の
主人公マックスを、自分が創造したうちで最も勇敢だといい
それゆえに誰よりも愛しているという。
マックスは子どもたちがみなそうであるように、
空想と現実が柔軟に入り交じった世界を信じ、
一方から他方へぴょんと渡ったり、また戻ってきたりする。

 ある7歳の男の子がくれた手紙のおかげで、
 私は自分の思いが通じたのだと感じた。
 それは、こんな手紙だ。
 「かいじゅうたちのいるとこへいくのには、
  いくらかかりますか?
  あんまり高くなかったら、
  こんどの夏休みに妹といきたいとおもっています。
  すぐにおへんじください」

センダックはその質問には答えなかった。
なぜならこの子たちは遅かれ早かれ、お金など払わずに
自分で行く道を見つけるに違いないから。

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大友美有紀 12年11月17日放送



パウル・クレー「食卓の言葉」
叔父さんのレストラン

ドイツ、表現主義の画家、
パウル・クレー。
美しい色彩とフォルム、
リズムとメロディを感じる絵。
日本でも広く愛されている画家である。

クレーは自分を「奇怪なもの好き」と称する。
その始まりは、叔父フリックのレストランの
大理石のテーブルにあるという。

 その表面には化石の断面が折り重なっていた。
 この線の迷宮からひとの姿のグロテスク模様を
 見つけ出し、鉛筆でなぞっていた。

叔父のレストランはクレーの画家の原点でもあり、
食への興味の原点でもあった。

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大友美有紀 12年11月17日放送


Francesco Gola
パウル・クレー「食卓の言葉」
フルッティ・ディ・マーレ

スイスで育った画家クレーは、海を見たことがなかった。
新鮮でおいしい魚介類を食べたこともなかった。
21才の時、ミュンヘンの画塾の友人と、イタリアへ旅立つ。
ヨーロッパの古典芸術を体感するためだ。
この時、彼は海の幸の数々も体感する。
婚約者のリリーにも、その感動を書き送っている。

 フルッティ・ディ・マーレは、ジェノヴァで食べただけ。
 赤みを帯びたタコのカタチをしたもので、油とお酢で
 味をつけた、とてもデリケートな味のするもの、
 船上でも食べましたが期待は裏切られませんでした。

 
フルッティ・ディ・マーレは、イタリアでは海の幸全般をさす。
クレーは料理名と勘違いしたのだろう。
しかしすっかり魅了された様子は伝わってくる。
この旅のあと、クレーの日記には
食事についての記述がたびたび登場する。

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大友美有紀 12年11月17日放送



パウル・クレー「食卓の言葉」
主夫クレー

26歳の時、画家クレーは、3歳年上のピアニスト、
リリーと結婚する。クレーはまだ無名だ。
リリーのピアノ教師としての収入がすべて。
食事の支度はクレーの役割、
息子が生まれてからは、育児も引き受ける。
創作の時間は、極端に少なくなる。
昼間は台所で家事をし、夜通し絵を描く。
モチーフは、数日前にバルコニーから見た光景。
それでもクレーが料理する姿は、
息子フェリックスにとって、とても楽しみだった。

 父は実に軽快で、まるで絵を描いたり
 音楽を奏でたりしているかのように料理をしていた。
 皿に盛られた5、6品の料理は見事なできばえで、
 いつも素晴らしい味だった。

14年に渡る苦悩の時代、クレーは小さな台所で
独自の世界をつくりあげていった。

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大友美有紀 12年11月17日放送


Kike’s
パウル・クレー「食卓の言葉」
チュニジア

無名時代もクレーは、線画を描き続け出版社に売り込んでいた。
やがて、カンディンスキーと出会い
彼の主催する「青騎士」グループに参加する。
画家としての可能性が見えてきた34歳の時、
2人の友人とチュニジアに旅をする。
それまでモノクロームの絵を描いていたクレーが
色彩を手に入れたとされる旅だ。

 色彩は私を永遠に捉えた。
 私にはそれがわかる。
 この至福のときが意味するのは、
 私と色彩がひとつだということ。
 私が、画家だということ。

クレーはチュニジアで色彩に目覚めた。それはほんとうだろう。
けれど、この有名な言葉は、今では後年、日記に書き加えられたとされている。
クレーには、この旅でもう一つの出会いがあった。
それは、帰りの船のディナーだ。

 この夕食については本が一冊書けそうだ。
 スパゲティがとてもおいしかったので、
 ついしっかりと食べてしまった。
 モミの葉で香りをつけた猪に果物の煮込みが出たあたりから、
 胃が重くなってきた。それでも勝負を続けた。

日記にはまだまだ料理の描写が続いていく。
当時のままの、クレーの感動がそこにある。

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大友美有紀 12年11月17日放送



パウル・クレー「食卓の言葉」
ゾフィー

チュニジア旅行から戻った画家クレーは、
無名ながらも絵を描き続ける。
しかしそれも、第一次世界大戦で中断。
兵士となって家を離れることになる。
クレーは、家族の食事の心配をし、
ゾフィーという女性に家事を頼む。
戦争中の彼の日記には、軍務についての記述や、
芸術への深い思索が綴られている。
もちろん家族への愛情も。

 3月14日。やっと手紙が来た!
 手紙がこんなに嬉しいものだとは!
 ただ、手紙の調子がちょっともの悲しすぎる。
 フェリックスは、ゾフィーは料理が上手だと言う。

嫉妬しているのである。

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