大友美有紀

大友美有紀 12年9月15日放送


kumi
伊豆諸島「島の言葉」新島

伊豆七島の一つ、新島へは、
調布の飛行場から40分ほど、
竹芝からは、ジェット船で3時間弱で行ける。
東京に住むサーファーにとっては、
世界で一番近いサーフィンの聖地だと言える。
新島はまた、コーガ石の産地でもある。
火山噴火の水蒸気爆発でできたスポンジ状の軽石で、
主成分は黒雲母流紋岩(くろうんもりゅうもんがん)。
新島とイタリア・シチリア島のあたりだけで産出する。
この石で作られたのが、モヤイ像だ。
実は、イースター島のモアイ像とは何の関係もない。

 古くから新島では「共同して仕事に当たる」ことを「モヤイ」と呼ぶ。
 「モヤイ合う」とは助けあうこと。

昭和59年新島村から蒲田商店街に贈られた「モヤイ像」。
現在では青森県西津軽郡深浦町で、その由来ともに見ることができる。

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大友美有紀 12年9月15日放送



伊豆諸島「島の言葉」三宅島

2000年、三宅島の中心にそびえる雄山(おやま)が噴火した。
そして全島避難。その後も火山ガスの放出が続き、
島民は島に帰ることが出来なくなった。
避難指示の解除が出たのは、2005年。
現在でも三宅村役場では、
毎日火山ガスの放出量を観測し、発表している。
復興の一端を担うネイチャーツアーの主催者の
ホームページには、こう書かれている。

 三宅島は約21年周期で噴火が繰り返されています。
 噴火のたびに緑は失われますが、少しづつ再生していきます。
 その噴火から森が再生する過程を簡単に目の当たりにできるのは
 三宅島だけです。

復興の道のりは、自然の再生とともにある。
竹芝から夜行旅客船に乗れば、朝には三宅島に到着する。

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大友美有紀 12年9月15日放送



伊豆諸島「島の言葉」八丈島

伊豆七島のなかで大島に続いて大きな、八丈島。
黒潮に囲まれ、太古から漂流・漂着、そして流人が
その歴史をつくってきた。
名産品のひとつに黄八丈がある。
室町時代のから続く伝統の手織り絹織物。
八丈島の草木を使い、黄、樺、黒に染め上げた絹糸を使う。
八丈とは、もともと2反の長さを八丈に織り上げた絹織物の呼び方。
そして八丈島の名の由来も、この織物から来ているという。
江戸時代の国学者、本居宣長が『玉勝間』にしるしている。

 伊豆の沖にある八丈が島というところも、
 昔この絹を織りだしたので島の名にもなったのに違いない。

八丈島にはその他にも、八丈太鼓、二重の玉石垣、焼酎など、
島の外から流れ着き、定着したものが多くある。
そしてダイビングスポットや、温泉、八丈富士と三原山、
自然の醍醐味も味わえる。
もちろん黒潮の恵みである魚も楽しめる。
南国リゾートの楽しみと、和の味わい、大自然、
そして古来からの伝統。
八丈島までは、羽田から1時間弱だ。

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大友美有紀 12年9月15日放送



伊豆諸島「島の言葉」御蔵島

切り立った断崖、周囲16キロの小さな島、御蔵島(みくらじま)。
東京から約200キロ、三宅島の南18キロに位置する。
そして、大変珍しいことに、
島のごく近い浅瀬に、野生のイルカが棲息している。
10月末までイルカウオッチングができる。
運が良ければ、イルカと泳ぐこともできる。
しかし、守らなければならないルールがある。

 イルカの自然な行動を妨げない。
 小さい子供を連れた群れにはこちらから接近しない。
 水中で寄って来ないイルカのグループには再度エントリーしない。
 イルカに触らない。触ろうとしない。餌を与えない。
 スキューバダイビングの装備でイルカに接近しない。
 ホイッスル、ダイビングコンピューターなど、
 人工音を発する器具は使用しない。
 水中カメラで撮影するときはフラッシュを使用しない。

イルカはおもちゃではない、アトラクションでもない。
自然に愛されているからこそ、
自然とともに生きる努力が必要だ。

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大友美有紀 12年9月15日放送



伊豆諸島「島の言葉」青ヶ島

伊豆諸島最南端に位置する青ヶ島。
住所は東京都青ヶ島村無番地。
一周9キロ、住人は170人あまり、
絶海の孤島、だからこそ満点の星を楽しめる。
鎌倉時代に書かれた『保元物語』で、
伊豆諸島に島流しになった源為朝が、
鬼が島を見つける。

 島の名を尋ねると、「鬼が島」と申す。
「それならばお前たちは鬼の子孫なのか」と尋ねると
「そうでございます」と申す。

鬼が島の記述は、当時誰も知らなかった青ヶ島の
特異な地形にそっくりだという。
星を見に、鬼を探しに、行ってみたくなる。

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大友美有紀 12年9月15日放送


ippei + janine
伊豆諸島「島の言葉」小笠原

日本列島から約1000キロ離れた太平洋の島々、小笠原諸島。
マリアナ諸島からも約550キロ離れ、
大陸と陸続きになったことがない海洋島だ。
2011年世界自然遺産に登録された。
黒潮に囲まれ漂着の歴史を持つ伊豆諸島と違い、
小笠原には1830年まで、定住民はいなかった。
だからこそ、独自の生態系が生まれた。
独自の文化が生まれた。

小笠原には「南洋踊り」と呼ばれる、
グアム、サイパン、トラック諸島から伝えられた踊りがある。

  夜明け前にあなたの夢見て
  起きると見たら大変つかれた
  もし出来るなら、ああ小鳥になって
  あなたの元へ時々飛んでゆく
  私の心は、あなたのために
  大変やせた、死ぬかもしれません

南洋諸島の言葉を日本語に訳した歌。
それにあわせて踊る。
何とも不思議な味わい。

小笠原には、飛行機で行くことが出来ない。
船で25時間半かけて行くのだ。
それでもそこは、東京都だ。

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大友美有紀 12年8月5日放送


jiroh
梨木香歩「自然をみつめる言葉」作家の肖像

梨木香歩。(なしきかほ)
1994年「西の魔女が死んだ」でデビューした、児童文学者。
彼女のプロフィールは、ほとんど公開されていない。
著作の紹介文には、生まれ年と師事した作家の名、
それまでの作品名が列挙されているだけだ。
インタビュー記事にも顔写真は添えられていない。

 読み手の中で物語が柔軟に働いてほしいと思っています。
 そのときに作家の顔がちらつくようでは邪魔になりますから、
 作家の存在は忘れてもらうのが一番いいのです。

けれど、彼女の思いには、数多くのエッセイで触れることができる。
渡り鳥を追う紀行文、カヤックで旅した水辺の思い出、
彼女が師事した英国の作家との暮らし。
梨木香歩は、人間と自然と、そして異界とのボーダーを歩く作家だ。



梨木香歩「自然をみつめる言葉」 シロクマ

梨木香歩の小説「西の魔女が死んだ」は、映画にもなった。
中学生の少女・まいは学校に行けなくなり、祖母の元に身を寄せる。
そして祖母が代々魔女の家系だったことを知り、
自らも魔女になりたいと修行をはじめる。
その第一歩は規則正しい生活を送ること。
野苺を摘んでジャムを作り、ハーブで草木の虫を駆除する、
自然に親しみながらの暮らし。祖母である魔女は言う。

 自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、
 後ろめたく思う必要はありませんよ。
 サボテンは水の中に生える必要はないし、
 蓮の花は空中では咲かない。
 シロクマがハワイより北極で生きるほうを選んだからといって、
 だれがシロクマを責めますか

この本を上梓した当時、梨木は自分と主人公を同一視されることに困惑した。
「いじめられたことがあるのですか?」と聞かれることもあった。
いじめられたことはない。
ただ、いじめ問題の報道にふれるたび、
その気分にシンクロしてしまい、切なかったという。

 「シロクマはハワイで生きる必要はない」というのは、
 私がこの本を執筆していた当時、
 人間関係にがんじがらめになった子どもたちと
 分かち合いたい言葉だった。


カノープス
梨木香歩「自然をみつめる言葉」 クリスマスローズ

児童文学者、梨木香歩は引っ越しを繰り返す。
定住に対する憧れと放浪癖がいつもせめぎあっている。
ある年、通りすがりの露店でクリスマスローズを買った。
最初の数年は、葉が茂るだけだったが
5、6年目から白い楚々とした花をつけるようになった。
その頃には、また引っ越しを考えている。

 私の定住欲求が彼女に新しい土地に根をはらせ
 しばらくすると放浪欲求が無理な移植に耐えさせる。
 けれども彼女はそのたびに新しい場所で茎をあげ葉を起こしてきた。
 花姿はたおやかだが、けしてへこたれない。
 また、その場から生き抜くための一歩を踏み出す。
 いつだって生きていくことにためらいがないのだ。



梨木香歩「自然をみつめる言葉」 森

児童文学者・梨木香歩が、ウラジオストック・
ウスリスキ自然保護区の森へ入ったときのことである。
同行者は、若い通訳の女性カーチャと、
自然保護区域の博物館の案内人の女性スヴェータ。

 森に入るのは久しぶりです、とカーチャが言った。
 私は村で育ったので、小さい頃はベリーを摘みに行ったり、
 キノコやナッツを採りに行ったり、
 森には毎日のように出かけていました。

まるで梨木の小説の「魔女修行のような」暮らし。
スヴェータが森の木についていろいろ解説をするが、
若いカーチャには専門知識がないので、詳しい通訳が出来ない。
それでも頭痛がするときは、この葉っぱを頭に乗せる、など
民間伝承のようなことはていねいに教えてくれる。
梨木は森から出たあとに、都会で生き抜くのとは違う
緊張感を強いられる気持ちを感じる。

 物音や気配、匂い、風の動き。
 少しでもキャッチするのが遅れれば、
 命を落とす危険のある場所。
 いやがうえでも五感は研ぎすまされていく

 
森はおとぎ話だけの住処ではないのだ。 



梨木香歩「自然をみつめる言葉」 月明かり

梨木香歩は、十代の頃、山の中で暮らした。
そして月の明るい夜、屋根に上って、
本を読むのがひそかな楽しみだった。
それには、いくつかの条件が必要だった。

 山奥の、初秋の満月の夜、
 月が一番高く上がったとき、
 比較的大きい活字の本なら可能になる。

都会では無理だ。
文庫でも無理。
凍るような冬の月でも可能そうだが、
寒いので試したことがない。
場所と期間と時間限定のぜいたくだ。

 それがあれほど好きだったのは、
 自分の五感が不思議な開かれ方をしていく、
 そのせいだったと思う。

その開かれ方を覚えておいて、
たとえば都会でも空に浮かぶ雲と
自分の間の距離を測ってみる。
喧噪に閉じて、世界の風に開く。


まさお
梨木香歩「自然をみつめる言葉」 カラス

梨木香歩の仕事場には、顔なじみのカラスが来る。
越してきたばかりの時、ベランダの目の前の木々が揺れた。
カラスのデモンストレーションだった。
目が合う。お互いにニヤリとした。
以来、出かける時にはアイ・コンタクトをとるという。

 目が合うということは、時と場合によっては
 魔境を覗き込むようなものだ。
 容易に引きずり込まれそうな感覚は、
 幼い方がずっと強かった。
 そして恐怖もあった。
 今では、恐怖することもなくなったが、
 それはそれで怖い気がする。



梨木香歩「自然をみつめる言葉」 群れで生きること

児童文学者・梨木香歩は、
ベッドから起き上がれないほど疲れきって、
仕事もほとんどキャンセルする日々を送っていた時期がある。
そんな時、夢を見た。
山奥の宿を探しているのだが見つからない。
タクシーの運転手が案内所に電話をかける。
待っている間、音楽が鳴る。
西洋古楽のようでもあり民族音楽のようでもあり、
高い精神性と乾いた質感の響きをもった音に、
心底びっくりし、聞き惚れる。
運転手も「私はこういう音楽が一番好きなのです」と言う。
梨木の体調はこの夢を契機にして、少しずつ上向きになった。

 人は群れの動物であるから、他者と何かで共感する、
 ということに思いもよらぬほどのエネルギーをもらうのだろう。
 しかもそれが、自分自身の核心に近い、
 深い深いところでの共感ならなおさらのこと。

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大友美有紀 12年7月14日放送



レイ・ブラッドベリ「「愛するものへの言葉」

2012年6月6日レイ・ブラッドベリが亡くなった。91歳。
アメリカで最も名高い作家のひとりだ。
代表的な作品は『タンポポのお酒』、『火星年代記』、
『華氏451度』、『何かが道をやってくる』。

彼は未来を描く時、テクノロジーを細かく描写することはなかった。
自動車を運転せず、飛行機を嫌い、テレビもほとんど見ない。
2009年のインタビューで、インターネット、電子書籍に
痛烈な言葉を浴びせている。

 この間、ヤフーのCEOが電話してきて、
 インターネットに発表する小説を書いてくれと
 言われたんで、バカ言えと答えた。
 そんなもの書いたって本にはならない。
 コンピューターには匂いがない。
 紙の本には匂いが二つあるね。
 新しい本は、すごくいい匂いがする。
 古くなると、もっとよくなる。

時に、機械に敵対し、テクノロジーを恐怖するSF作家だった。



レイ・ブラッドベリ「愛するものへの言葉」

14歳のころ、ブラッドベリはハリウッドに引越す。
映画好きだったレイ少年は、来る日も来る日も
撮影所のまわりをうろついて、
有名人からサインをもらって写真を撮る。
試写会があればもぐりこむ。
週に4、5本は映画を見ていた。
それがのちに小説家になった時に役立ったという。

 さんざん映画を見たおかげだな。
 見たものを意識下にため込んでいたんだろう。
 つまんないのも、すごいのも、
 いっしょくたに消化吸収していた。
 あとで戻っていって、
 底にたまってたものを さらうんだ。
 そうすれば本を書けるようにもなる。



レイ・ブラッドベリ「愛するものへの言葉」

高校を卒業後、ハリウッドで新聞売りをしながら、
いろいろな雑誌に作品を送り続けたレイ・ブラッドベリ。
そのひとつが女性向けの雑誌「マドモアゼル」。
編集助手として、まだ無名のトルーマン・カポーティが働いていた。
カポーティは、ブラッドベリの『集会』という
吸血鬼ものの原稿を買うことを上司に進言する。

 電報が来たんだ。
 「当雑誌に合うように書き直そうと考えていたんですが、
  この作品に合うように当雑誌を変えることにいたします」
 と書いてあった。
 ハロウイーン号に載ったんだ。話が振るってるだろ?

天才同士の引力があったのだろうか。
この作品がきっかけで、彼は、
ニューヨークの知識人社会に仲間入りした。



レイ・ブラッドベリ「愛するものへの言葉」

レイ・ブラッドベリは、1947年、48年にO・ヘンリー賞を受賞。
短編の名手として地位を確立する。その頃、いろいろな人から
「映画の台本は書かないのか」と聞かれるようになった。
ブラッドベリは「ジョン・ヒューストンに頼まれたらね」と答えていた。
そして試しに短編集を監督本人に送ってみた。
のちにジョン・ヒューストンから電話が入り、
『白鯨』の脚本を手がけることになる。
ところが、破天荒な映画監督から
台本づくりに気持ちが入っていない、と辛辣な言葉を投げつけられる。
ブラッドベリがショックを受けていると、ジョンは冗談だと慰めにくる。
そんなことの繰り返しだった。

二人の亀裂が決定的になったのは、映画『白鯨』のクレジットだった。
共同で脚本を書いたことになっている。彼一人で書いたのに、だ。
ブラッドベリは作家組合に訴えた。
だが、クレジットを変えることはできなかった。
ジョンの存在が大きすぎたのだ。
その経験をもとに小説『緑の影、白いクジラ』を書いた。
二人は果たして和解できたのか。

 彼が亡くなる直前、映画関係者と食事しているとこに出会った。
 僕は近づいていって、ジョンを指差して
 「こちらの方が私の人生をがらりと変えました。良いほうへ。
  今夜、あらためてお礼を言います。
  どうぞ、あちこちで噂をまいてください。
  レイ・ブラッドベリは、ジョン・ヒューストンを敬愛し、
  感謝を忘れない、と」

 
ブラッドベリは人生を愛する作家である。 


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レイ・ブラッドベリ「愛するものへの言葉」

ブラッドベリは2003年にまとまった短編集を出した。
届いたゲラを見て泣いてしまったという。
それだけのものを一人で書いたとは思えなかったという。

 自分で書いた二百の短編を見てると、
 宇宙への大きな借りがあるんだと、つくづく思う。
 いろんな遺伝子が何かしらのレベルで
 実験を繰り返して、その結果、僕という形態が生じた。
 これは自分で書いたものじゃないって思う。
 ひとりでに書き上がっちゃったんじゃないか。
 やっぱり宇宙からの贈り物だ。

宇宙のおかげで、私たちはブラッドベリの
切なく、妖しく、美しい小説を読むことができるのだ。



レイ・ブラッドベリ「愛するものへの言葉」

その著作が、世界25ヶ国で読まれているブラッドベリ。
人に好かれたいと思い、悪びれることなく名声に浴し、
有名であることを楽しんでいる。

 ビバリーヒルズの街角に立っていたら、
 俳優のシドニー・ポワチエが車で通りかかって、
 車から降りて、大声で言った。
 「ブラッドベリさん、シドニー・ポワチエです。
  大好きです!」
 それだけ言って、また走り出した。
 ああいうことは忘れられない。



レイ・ブラッドベリ「愛するものへの言葉」

2003年、最愛の妻マギーを亡くしたブラッドベリは、
自分の墓は火星に立てたいと言っている。

 できることなら火星に埋葬されたい。
 遺灰はトマトスープの缶に入れてもらいたいな。
 僕の名前のある墓石が火星に立って、
 よく読まれた本の題名も書いておく。
 墓石のてっぺんに小穴を掘って、
 その下に注意書きがあるんだ。
 「献花はたんぽぽに限る」

 
2011年12月、ブラッドベリは『華氏451度』の
デジタル化を許諾した。あれほど嫌っていた電子書籍だ。

 『華氏451度』は社会的批評の要素があるけれど、
 それは冒険物語という全体に隠れているんだ。
 本を燃やしちゃいけないんだ。
 でも、逆のことを言った方がおもしろい。
 本を燃やそう、本は危険だから。
 本を読むと人は考えてしまう。考えると悲しくなる。

 
コンピュータの画面に表示される本は焼くことができない。
未来の禁書隊から逃れることができる。
さようならレイ。
あなたがくれた未来に、たんぽぽの花を捧げます。

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大友美有紀 12年6月3日放送



「女流の言葉・有吉佐和子」イヤリング

昭和31年、25歳で「地唄」を発表し
デビューを飾った有吉佐和子。
それまでの日本近代文学の主流は、私小説。
けれども彼女は、社会性のあるテーマで物語を書いた。
その有吉がイヤリングに凝っている時期があった。
昭和30年代、身につけるものに愛着をもつのは、
おおむね愚かな女であり、見下されていた。

 小さな国の、敗戦のあとを生きている私たちだ。
 せめて気持ちだけでも豊かにくらしたい。
 私は誰にも迷惑をかけぬ範囲で、
 本当の意味の贅沢の精神を養っているつもりなのだ。

アクセサリーを楽しむ、その先の心を、
今に先駆けて伝えている。



「女流の言葉・有吉佐和子」花のかげ

有吉佐和子は、
「華岡青洲の妻」「恍惚の人」「複合汚染」など、
タブー視されていた社会問題を取り上げ
ストーリー性の高い小説へと昇華させた。
昭和33年に刊行された「ずいひつ」に
おさめられた「花のかげ」で
サクラの花の季節に新しい学年が始まるのは、
本当にいい、と書いている。
姪っ子と弟の入園入学に家族に笑顔の花が咲いた、と。
そして思いを寄せる。

 ふと入試に失敗した高校生や、
 中学卒業と同時に就職した子どもたち、
 幼稚園に行かせる余裕のない家の子たちを思い出した。
 花の下にも翳のあることに気がつくと、いたたまれない。
 だれにも遠慮せずに誇らかに幸福を酔うことの
 できる世の中は、いつ来るのだろう。

社会を、世の中を思う気持ちは、彼女を自由にしてくれないのだ。


Swami Stream
「女流の言葉・有吉佐和子」女流作家

 有吉さん、女流作家だと言われたら、
 恥辱と心得なさいよ。

昭和30年代25歳でデビューした有吉佐和子は、
小説を書きはじめた頃、方々でこう言われたという。
女だから甘い目で認められていては、情けない。
女で小説を書くのは容易なわざではなかった。
女のほうが楽に世に出られる時代だ。
「女流」に対する本質的な反感だった。
でも彼女は、ならばここから築くしかない、
女なのだから女流と呼ばれても仕方のないことだ、
と消極的な肯定という結論を出す。

 女を吹き切れ、とか、
 女でなくなった年齢から本当の文学が生まれるのだ、とか、
 男性たちはのたまうけれども、
 女にそんなことを言うのは勝手な話だ。
 女は、自らの女性(おんなせい)を突き抜けるとき、
 豊かな開花を見せることができ、
 このとき男性の追随を許さなくなる例を、
 岡本かの子が立証しているではないか。

そしてそんな世間の呼び名に気を散らしている暇があったら、
机にかじりついて原稿用紙と取り組んでいたほうが懸命だと考える。



「女流の言葉・岡本かの子」岡本一平

岡本太郎の母であり、歌人、小説家、岡本かの子。
天真爛漫、奔放な情熱家、恋多き女。
夫、岡本一平がありながら恋に落ち、破局し、精神を病んでしまう。
その危機的状況を乗り越えたあと、夫について客観的に論じる。

 主人一平氏は家庭に於いて、平常、大方無口で、
 沈鬱な顔をしています。
 この沈鬱は、氏が生来持つ現世に対する
 虚無思想からだ、と氏はいつも申します。
 それゆえに氏は、親同胞にも見放され、
 妻にも愛の叛逆を企てられ、
 随分、苦い辛い目のかぎりを見ました。

この冷静さが、かの子の凄みである。


Melissakis, H.
「女流の言葉・岡本かの子」太郎

岡本太郎の母、かの子。
彼女の創作にかける意欲はすさまじく、
太郎を柱に縛り付けて原稿を書いていたという
エピソードは有名である。
けれど彼女自身、そんな自分をよく知っていた。
ある日の日記である。

 太郎をうったあと、自分がいつでも一人で泣く。
 太郎をうつことは自分をうつことだ。
 正直だが一徹で弱気なくせに熱情家だ。
 私そっくりなあの子。それ故に可愛ゆい。
 それゆえにまた私を怒らす。

 
太郎への愛情がわき上がるのを感じ、
かの子はじっとしていられなくなる。
けれど、露骨にいたわりにいくのは恥ずかしい。

 仕方がないので明朝のレコードをしらべにかかる。
 ルソーのリゴレットを抜いておくのだ。

レコードを選んでおくのは、次の朝、太郎の登校時に
音楽をかけるため。
気分を爽やかにしてやるための毎朝の習慣だった。



「女流の言葉・岡本かの子」美しいママ

岡本かの子の天真爛漫さ、
息子太郎への激しい愛情を、
恐ろしいほどに感じる散文詩がある。

 わたしは今、お化粧をせっせとして居ます。
 きょうは恋人のためではありません。
 あたしの息子太郎のためにです。
 わたしの太郎は十四になりました。

太郎がいつか美しい恋人を持つとしても、
ママが汚くては悲観する。
だから美しいママでありたい、と綴る。
それでなければ太郎の幸福は完全ではないと。
この激しさ、かの子以外には到達し得ない。


Ramon Masip
「女流の言葉・岡本かの子」手紙

岡本かの子の、息子太郎への愛情の強さと深さ、お互いの強烈な相似。
それゆえに母と子は遠く引き離されなければなかった。
かの子は、パリに住む太郎に手紙を書いてる

 えらくなんかならなくてもよい、と私情では思う。
 しかし、やっぱりえらくなるといいと思う。
 えらくならなくてはおいしいものもたべられないし、
 つまらぬ奴にはいばられるし、こんな世の中、
 えらくならなくてもよいような世の中だから
 どうせつまらない世の中だからえらくなって
 暮らす方がいいと思う。

複雑で正直な母の思い。



「女流の言葉・岡本かの子」素朴な子

昭和13年、岡本かの子は3度目の脳溢血に倒れる。
その直前に27歳の息子太郎に送った手紙は、
それまでの関係を詫びるようで、あわれむようで、切ない。

 太郎さんの喜んで貧乏しますという手紙を見て
 昨夜から私は泣き続けているのですよ。
 お前はやっぱりそんな可愛ゆい
 しおらしい素朴な子だったのね。
 この私の可愛らしい可哀そうな性質をうけた子だったのね。
 かわいそうでかわいそうで、
 私の身を刺し殺してしまいたいほども嬉しい悲しい
 自分の子の正体を見たものよね。
 日本へ帰ってきてそばで、わがままして暮らして下さい。

翌年、かの子は世を去る。享年49歳。激しい人生だった。

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大友美有紀 12年5月6日放送


Ian Britton
「旅する言葉・チェコ」カレル チャペック

「園芸家12ヶ月」「ダーシェンカ」で知られる
チェコの国民的作家カレル チャペック。
彼はジャーナリストとしても活躍していた。
そして数多くの旅行記を出版している。
1925年にふるさとチェコについても書いていた。

 塔はチェコの特産だ、と私は言いたい。
 わが国のあのような不思議なキューポラ、
 まるっこい玉ねぎ型、けしの頭型、
 灯台、付属塔とギャラリーと尖塔は、
 ほかの場所にはないからである。
 チェコの古い町はどこでも、
 その町に特有の塔を持っている。

プラハは、百塔の町とも呼ばれている。
90年近く経った今でも、チェコの特産は健在だ。


Jean-Pol GRANDMONT
「旅する言葉・ふるさと」カレル チャペック

チェコの国民的作家カレル チャペックは、
幼少の頃、父の仕事の関係で幾つかの地に移り住んだ。
彼がふるさとについて書くとき、
それは特定の場所ではない。

 生まれ故郷、またはより正確に言えば、
 私たちが子どもの頃の何年かを過ごした地方は、
 決して地理的な地域ではなく、
 私たちが小さかったときに関係した
 数多くの場所や、秘密の隠れ家なのだ。

こおろぎやとかげをつかまえた畦道。
水浴びをした場所。
よじ登って腰掛けた、とねりこの木。
実を盗みにいった桃の木。
それは自分だけの特別な秘密。

大人になってその地方を訪れた彼は、
思い出の場所は、どこかに行ってしまったことを知る。

 それは生まれ故郷だった。
 わたしは感動しながらも、がっくりしていた。
 もはやそこは、世界のすべてではなくなっていたのだ。


bjoern.f
「旅する言葉・モルダウ川」カレル チャペック

ヴルタヴァ川。
チェコの国民的作家カレル チャペックが、
青春時代を過ごしたプラハをゆったりと流れている。
ドイツ名、モルダウ川。

チャペックはその「ヴルタヴァ川」の美しさを
音楽や絵画や散文、詩で描写した人はいない、と嘆いている。

 春の陽光の中で清らかに輝き、
 明るく音高く、おごそかに、まろやかで楚々とした、
 あの青春時代の乙女のような姿を。
 または、たそがれどきのプラハへ注ぎ込む、
 限りなく青く明るく誇らしげな
 プラハのあかりの列を映して、
 繻子のような、ブロケード織りのような、
 燃えるような輝きを見せるその姿を。

 
川の描写はまだ続く。

 すべての景観をしのぐ景観、美の中の美、
 プラハの空や宮殿、庭園、
 この地の美しい景観のすべてをともなった、
 プラハ全体のなかでも最高の魅力を。

チャペックは「ヴルタヴァ川」の美しさを描ききった
最初の一人になったのだ。


Zaqarbal
「旅する言葉・スペイン」カレル チャペック

21年間のジャーナリスト生活を通じて、
カレル チャペックは、ヨーロッパ各国を旅した。
1929年にスペインを訪れたとき、
チェコとはまるで違う彼の地の魅力を
「別の大陸のようだ」と表している。

 マドリードは宮廷のパレードと革命のスコールの町だ。
 空気は軽く、いささか興奮をかきたて、スリルに満ちている。
 それに反し、セビリアは祝福に満ちてけだるく、
 バルセロナは、なかば秘められた状態でわき返っている。


José-María Moreno García
「旅する言葉・トレド」カレル チャペック

古都トレド。
世界遺産にも指定されているこの街は、
城壁に囲まれ、狭い石畳の路地が迷路のように入り組んでいる。
カレル チャペックも、この街を訪れたとき、
その歴史的建造物と狭い路地に魅せられた。

 ジグザグに曲がったアラブ風の小道をさまよい歩いていく。
 あなたは七歩ごとに立ち止まることになるだろう。
 西ゴート族の柱があると思えば、モサベラ人の壁がある。
 奇蹟の聖母マリア様もいらっしゃる。
 ムハデル人の塔、ルネッサンス風の宮殿があり、
 左右に耳をひろげたロバも通り抜ける。

 
そして、大聖堂については、たしかにそこへは行ったのだけれど、
さだかではないと言う。極めて多くの品、
多様な宗教美術を目にしたあまり、夢を見ていたかのようだったと綴る。
あまりにも多くのトレドの名物を目のあたりにしたチャペックは、
こう結論づける。

 この世で最良の博物館は、生きた人々の街路だ。
 ここはまるで、別の時代に迷いこんだような感じがする、
 と誰もが言いたくなるだろう。
 だが、それは適切ではない。実際はもっと不思議なものだ。
 別の時代ではなく、過去にあったものが現存していることなのである。

民族の独自性と多様性をそのまま受け入れることの大切さを
彼は伝えようとしているのだ。


wildphotons
「旅する言葉・オランダ」カレル チャペック

チェコの国民的作家でありジャーナリストであり、
園芸家でもあるカレル チャペック。
1931年、彼は国際ペンクラブの会合でオランダを訪れる。
そして世界で最も綺麗な庭、
オランダのかわいらしい家々の庭を見て、
自分の庭に、この土壌と湿度があれば死にものぐるいで
世話をするだろうと書いている。

 しかし、オランダで一番気に入ったのは、人の住居だ。
 驚いたのは、人々がいかに家と街路を結びつけているか、
 ということだった。
 窓の前には何も囲う物のない庭があり、
 その広い、磨かれた窓は覆う物もなく、
 通行人たちは誰でも、その家の灯の下にある、
 家族の豊かさと模範的な生活を見ることができる。

その暮らしの清潔さと自然さに嫉妬を抱きながら、
チェコ人に数百年与えてくれれば、
その暮らしに近づけるのにと、渇望する。


Jesper Hauge
「旅する言葉・ノルウェー」カレル チャペック

カレル チャペックの最後の旅行記は「北への旅」。
デンマーク、スウェーデン、ノルウエーへの旅だった。
ノルウェーからは船で北極圏をとおりフィヨルドを見学している。
その船旅の途中、漁師たちの島にそばを通り過ぎる。

 ドゥーノヴィの漁師たちの島だ。
 むき出しの丸っこい岩ばかりで、
 ただ少しばかり緑がふりかけられている。
 こころは恐ろしくさびしい所だ。
 家は一軒しかない。
 ただ小型の船と海、それ以上は何もない。
 この地で人間は、英雄となるために戦う必要はない。
 生きていくだけで十分なのだ。


タカ
「旅する言葉・帰途につく」カレル チャペック

カレル チャペックは、数々の旅行記を出版したが、
旅に出かけたくないと言う。
外国にいると、自分がお払い箱にになった気がすると言うのだ。
旅に出ることを断る言い訳が思いつけなかっただけだ、と。
そのくせ、旅の帰りに、もっといろいろなものを
見なかったことを悔やんでいる。

 旅行者が持つ最初の印象は
 世界のどの地域に行こうともすべて同じだ。
 しかしその後、旅行者が持つ最終的印象は、
 世界は限りなく多様でどの地域もそれぞれ美しい、
 ということになる。
 だが、そんな印象に達するのは、
 ふつうはもはや手おくれになった時で、
 帰りの列車で、何を見たのか、
 もはやゆっくりと忘れかける時なのだ。

旅に出ることは、世界を知ることなのだ。
小国チェコの国民的作家は、そのことを知りつくし、
さまざまな民族と出会うことを楽しんでいた。

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