大友美有紀

大友美有紀 12年4月8日放送



「創造する言葉」ジョルジュ デ キリコ

自らの絵を「形而上的絵画」と呼んだ画家、
ジョルジュ デ キリコ。
白く不自然に長い建物、
手前の女の子の影は小さく、
遠く人物の影が大きく描かれた
「通りの神秘と憂鬱」。
彼の、独特の遠近法を駆使した作品群は、
見る人に郷愁とともに不安をもいだかせる。
そのアイデアは、どこから生まれたのか。

 仕事場は私の夢を実現する思索を
 練るところだ。
 誰にも邪魔されたくない。
 絵が描けなくとも、
 アトリエの中にこもっているだけで、
 心が落ち着く。



「創造する言葉」ベルナール ビュフェ

冷たく、鋭く太い黒の描線、
抑圧された色彩。
孤高の画家、ベルナール ビュフェは、
第二次世界大戦後の不安感や虚無感を
キャンパスに塗り込めた。
代表作は「青い闘牛士」。

 私は絵を描くことしか知らない。
 絵の中に自分自身が埋没してもよい。

そう語る彼は、アトリエの窓を締め切り、
部屋を真っ暗にしたうえで、
裸電球1個の灯りをたよりに制作したという。

 私は大海原を漂う一艘の小舟のようなもの。
 波は繰り返し繰り返し押し寄せてくる。
 その波間をぬってなんとか舵をとっているのです。

彼にとって創作とは、孤独の産物だったのだ。



「創造する言葉」ジョアン ミロ

明るく制約のない色使い、大胆で伸びやかな曲線。
シュルレアリストの一員とされる
画家ジョアン ミロ。
「アルルカンの謝肉祭」に代表される
リズミカルな構成と抽象的なモチーフの
源はなんなのだろう。
彼は、いたずらっ子のような一面をもっていた。
夢中になると、ところかまわず絵の具をぬり、
木片や段ボールやセメントの袋など、
手当り次第に描いていく。

 私は、前もって頭で考えたような、
 知的なやりかたはしないんだ。
 ちょっとした偶然から生まれる絵の具のしみや、
 したたりが、生命を持ってアニメートされ、
 思ってもみない形が出来上がっていく。

そして、時々人に見られないよう、
海岸や道のあちらこちらに捨ててある
無用の品を拾い歩く。
さびた金物、レンガのカケラ、コルクの栓など、
普通の人にとって何でもないものが、彼には
「何か」を起こさせるきっかけになる。

 なににもまして「遊び」の精神が必要だ。
 大切なことは魂を自由に、素っ裸にしておくことだよ。



「創造する言葉」サム フランシス

くるくる循環する青い色を意味する
「サーキュラーブルー」。
画家サム フランシスの代表作だ。
彼は、青、黄、赤など鮮やかで透明な色彩を散らす
ドリッピングという手法で一世を風靡した。
そして日本的な「余白の美」の感覚も持っている。

 オレの人生はずっとファイティングだった。
 ファイティング・ペインティング、そして
 ファイティング・ウーマン。
 いや、ラブ・ウーマンかな。



「創造する言葉」ヘンリー ムーア

イギリスを代表する彫刻家、ヘンリー ムーアは、
作品を野外に置くことを好んだ。
抽象的な曲線で形づくられた「母と子」のブロンズ像も
森の庭で四季の移ろいとともにある。

 自然の中以外に私の彫刻を据える場所はない
 という結論に達したんだ。

 
彼のアトリエも大自然の一部かのように存在していた。
牧草地に、公園があり、うっそうとした森があり、
そしてムーアの傑作たちがある。
その作品たちは、場所と方角を綿密にチェックして
置かれ、それを結ぶようにアトリエも点在する。
彼は、また「見いだされた自然」を愛してもいた。

 コーンウォールの海岸で拾ってきた石も、
 このままで第一級の彫刻といえる。
 アートは人間の行為だから、
 私がこれをどう見るかということが、
 この自然のもたらした偶然に意味を加えるわけだ。

ムーアは、自信の作品に「自然のもたらした偶然」を
加えたかったのかもしれない。


Matthieu LIENART
「創造する言葉」ジョージ シーガル

石膏をしみ込ませた包帯で人体を型取りし、
彫像を創り上げる。
かつてない技法で彫刻に新たな地平を切り開いた
ジョージ シーガル。
型どった人体を椅子や扉と組み合わせ、
現代人の普遍的な姿を表現した。
彼の自宅には細長い建物が2棟あり、
各部屋に番号が振られ、古い作品が保管されていた。

 ここは鳥小屋だったんだ。
 壁の数字は鶏舎の番号なんだ。
 僕は当時卵を売って生計を立てていた。
 経費の管理のために番号をつけたんだ。
 でも養鶏業に失敗して、破産してしまった。
 それで趣味で描いていた絵を売って生活したんだ。
 皮肉にもそれが僕がアーティストになったきっかけだ。
 石膏を使うようになった理由もお金がなくて
 ブロンズなんか使えなかったんだよ。

新しいアイデアは、意外なところから誕生する。


カノープス
「創造する言葉」サルバドール ダリ

シュルレアリストの巨匠、サルバドール ダリは、
奇人としても有名だ。
1970年代後半の、彼らしいインタビューの記録がある。
今後の世界のファイン・アートはどうなるかという問いに答えたものだ。

 現在はとてもファンタスティック!スーパーだよ!
 ハイパー・リアリズムの新しい分野が開けている。
 君はニューヨークに行ったことがあるかね?
 スーパーなんだよ。
 クラシシズムの再現が可能になった転機に
 さしかかっていると思わない?

会話もシュルレリスムだ。


テツさん
「創造する言葉」岡本太郎

岡本太郎は、サービス満点の画家だったという。
アトリエに取材に行くと、まず、手を開いて目をぎょろりとする
例のポーズでファインダーにおさまる。
制作現場を見せてほしいと言うと、
150号大の作品「行列」に向って目を見開くと、
スタスタと歩み寄りエイヤーと刷毛のような絵筆を振り下ろしたという。

 芸術は下手なほうがいいんだ。
 きれいであってはいけない。
 芸術は常に闘いとしてあるのだ。
 ほかの誰もがやらないことを、
 孤独の中で創造するんだ。
 血だらけの自分を掴むこと、
 それが芸術、人生の前提だと私は考える。

夜寝ていても夢の中ですっとんで歩き、
仕事をしているのだとも言う。
24時間、すべてを芸術に捧げていたのだろう。

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大友美有紀 12年3月4日放送


parpiro
カート・ヴォネガット「未来への言葉」1

SF作家カート・ヴォネガット、
ニヒリズムに裏付けされたユーモリストだ。
ユートピアを探し求めた彼は
第二次世界大戦での経験によって、
人類の未来に絶望してしまった。
だからこそ、
笑いという技法で自分の思いを伝えようとした。

 どんな主題であれ、
 物語にとりかかると、
 なんとかしてそこに
 愉快なものを見つける。
 さもなければやめにするだけだ。


cromacom
カート・ヴォネガット「未来への言葉」2

カート・ヴォネガットは、
ドイツ軍の捕虜として強制労働に従事しているとき
ドレスデンの無差別爆撃を体験した。
街の85%は破壊され、彼は生き残った。
無差別爆撃は、全く無意味な軍事作戦だったという。
その体験をもとに
「スローターハウス5」を書いたのだ。

 私の小説に登場する悪玉は、
 文化、社会、歴史です。
 けっして個人ではありません。

そしてインスピレーションの源は、
除け者にされたという現実、または、幻想だという。

 失うものがない人々は、
 自由な気分で自分の考えをつらぬける。
 まわりの連中の考えかたを真似ても
 何の得にもならないからだ。
 絶望は独創の母。


B Rosen
カート・ヴォネガット「未来への言葉」3

SFというスタイルで小説を書いているにもかかわらず、
カート・ヴォネガットは、SF作家と呼ばれることを嫌った。
戦争での体験を通じて、
テクノロジーが進みすぎることを悲観していた。

彼が若かったころのアメリカにあって、
今はなくなってしまって悲しんでいるものについて、
こう書いている。

 人間がこの湿り気たっぷりな青緑色の惑星を
 まもなく人間の住めない場所にしてしまう、
 という確実な知識のなかった、あの気楽さ。

そして、いつか空飛ぶ円盤に乗った生き物か、
天使か、それかほかのなにかが地球にやってきて
人類が恐竜のように滅びてしまったことを発見するとしたら
大きな字でグランドキャニオンの断崖に
次のメッセージを残すべきだという。

 われわれは自分たちを救えたかもしれないが、
 呪わしいほどなまけものであったため、
 その努力をしなかった。


BioDivLibrary
カート・ヴォネガット「未来への言葉」4

SF作家カート・ヴォネガットは、
第二次世界大戦後、アメリカに帰還し
コーネル大学で人類学を学んだ。
そして小説家になった。
晩年になってからの思いは、
原始的共同生活が実現すれば、
もっと幸福になれる、ということだった。
なにも考えてない人たちと、
何も考えずに暮らしたいと。

 私の考えでは、人間の頭脳はこの特定の宇宙で
 いろいろと実際的な効用を発揮するには
 高性能すぎるんですよ。
 わたしはワニと一緒に住み、ワニのように考えたい。


Sherlock77 (James)
カート・ヴォネガット「未来への言葉」5

カート・ヴォネガットは、
SFとユーモアというスタイルを通じて、
平和への思いを伝えてきた。
彼の思うユートピア、幸福な暮らしは、
長続きする共同生活だ。

 たとえば、若い人が農場を引き受けて
 共同生活を始める。
 創設者達は、ひとりひとり相違をもっているが、
 そういうコミューンがうんと長続きして、
 こども達がおたがいに気楽になり
 態度や経験に共通ものをもてば、
 本当の身内のようになる。

でも実際には、うまくいかないかもしれない。
長続きせずに失敗することもあるだろう。
それもわかっていると語る。

 これは、より幸福な人類について
 私が抱いているぬくぬくとした小さな夢なのです。
 なにかそういう明るい小さな夢でもないと、
 私自身の悲観主義を克服できそうにないので。
 あくまでも私の夢ですから、
 それは間違いだなんて、言わんでください。


DonkeyHotey
カート・ヴォネガット「未来への言葉」6

SF小説という手法があるからこそ、
カート・ヴォネガットは、
環境破壊や、国と国との紛争、テクノロジーを
奇妙な、ヘンテコなものとしてシニカルに語る。

あるときインタビュアーが、そんな彼を
世の中のありとあらゆる悲しみに対して
とても優しい気持ちをいだいてると評する。

 他人を同情して回るなんて、一種の自己満足だ。
 わたしはあまりそういうことをしない。
 わたしはただ、恐ろしい苦難から抜け出られない人が
 たくさんいることを知っている。
 ある人々は、他人からの大きな助けを
 本当に必要としている。わたしは、そう思います。



カート・ヴォネガット「未来への言葉」7

カート・ヴォネガットのユーモアは、
ときどき突拍子もない。
「煙に撒く」ことで、彼の平和への思いを
より強く印象づけようとしていたのかもしれない。

 アメリカ人は、どうしたらいまよりも幸福になれるか
 今より愛されるかについて、
 私はいろいろなアイデアをもっています。

それは、彼の作品
「タイタンの妖女」や「スローターハウス5」で表現される
現在の意志の行為によって未来を変えることはできない、
という考えと違うと、指摘されると

 もちろんおわかりでしょうが、私の言っていることは、
 みんなたわごとです。

そうはぐらかす。
まるで、彼の小説の台詞のように。

 ここで「ハイホー」
 あるいは「そういうものだ」



カート・ヴォネガット「未来への言葉」8

第二次世界大戦で絶望を経験した作家
カート・ヴォネガットがシニカルなのは、
人類に対する大きすぎる愛があったからかもしれない。

ある時、テネシー・ウイリアムズの「イグアナの夜」に
出ていた女優に相談を受けた。
キャストがみんな芝居になじんでいない、と打ち明けられたのだ。
ヴォネガットは、彼女にメモを渡した。

 イグアナは、ぞっとするような姿だが、
 食べるとけっこううまい。
 私は、この劇からこんなメッセージを受け取った。
 まったくなにも愛さないよりは、
 他人がみにくいと思うかもしれないものを愛するほうがいい。
 イグアナを食べよう。
 そうすれば、だれにも負けない栄養が得られる。

彼の、愛することの基本姿勢が書かれている。

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大友美有紀 12年2月11日放送



大島育雄「自然と生きる美学」1

グリーンランドにある地球最北の村・シオラパルク。
そこに住む日本人がいる。大島育雄。

1972年、彼は極地最高峰への遠征の準備のため、
この村を訪れた。
到着した初めて夜、彼は村の歓待をうけた。
すべてイヌイットの料理だ。
胃袋が悲鳴をあげた。外に出て夜空を見上げた。

 星が冷たくきらめいていた。
 北斗七星の位置が高い。
 北極星は、ほぼ真上に近い。
 いま、これ以上北に人間は一人もいない。

大島はブルッと胴震いした。
最北の村との出会いだった。



大島育雄「自然と生きる美学」2

大島がシオラパルクを訪れた理由は、
かの冒険家・植村直己だった。

植村は犬ぞり訓練のために村に滞在していた。
大島は極地環境を体験するために植村の協力を仰いだ。
植村とともに村で暮らし、猟を体験し、
その魅力に取りつかれていった。

やがて植村直己は、村を離れ冒険と旅立ち、
さらにその先へと行ってしまった。
大島は、今なおシオラパルクで暮らしている。

 冒険に来て、また帰る。
 それは何か違うと感じた。
 すぐそこにある宝に目を向けず、
 通り過ぎていく気がしたんだよ。


ちづ
大島育雄「自然と生きる美学」3

いったん日本に帰った大島は
シオラパルクでの暮らしが忘れられなかった。
その生活は、人に命令されることもなければ、
命令することもない。

電気もなく娯楽も少ない。
けれど、それを超える狩猟の興奮がある。
また、狩猟を中心とした豊かな文化がある。
単純で豊富な生活。

 とてつもないスケールの自然のなかで猟をして、
 自分の手でとったその獲物を主食とし、衣類とする。
 生活の機構が単純で、自分の働きが
 そのまま生活に直結する。
 良くも悪くも、完全に自分が人生の主人公だ。



大島育雄「自然と生きる美学」4

大島は日本のテレビ局の取材班に同行する形で
シオラパルクに戻ってきた。
取材が終わったあとも、村に残った。
自分の好きなことを、とことんやってみようと
思ったからだ。

8月のある日、住んでいた小屋の外にラジオを持ち出し
無線連絡を聞いていた。
当時、村間の連絡は無線で行なわれていた。
「きのう、どこそこの村ではクジラがたくさん捕れた」という報告や
「誰々が病気だから、親族は行ってやったほうがいい」という個人向けの
連絡までもが放送される。

大島がのんびりラジオを聞いていると
大変な情報がとびこんできた。
「長老イニューツァッソワが、カナックの教会の牧師に
 8月某日に結婚式をしたいから
シオラパルクに来てほしいと要請している」というのだ。

そして、その結婚する2人は、大島とシオラパルク村の娘だった。

 人は驚くと仰天してしまうものだな。
 見上げる空の紺碧の中にチラチラと
 光のようなものが 踊っていたよ。
 でも、ためらいはなかった。
 このなりゆきに身をまかせることにしたんだ。



大島育雄「自然と生きる美学」5

大島とシオラパルクの娘・アンナは結婚して
1男4女をもうけた。

結婚して何年かした頃だった。
世界最北の村、しかも犬ぞりによる伝統的な狩猟で
暮らす村ということで、観光客も訪れようなった。
大島にガイドを頼んでくることもあった。
けれど大島はなるべくガイドを断りたかった。
それよりも好きな猟をしていたかった。

 私は猟が好きで猟師になった。
 金のために自分がやりたくもないことを
 やるのは、つまらない。
 金がなければ物質的な生活レベルを落とせばいいのだ。


Mike Chien
大島育雄「自然と生きる美学」6

大島が幼いこどもを連れて日本へ帰ったことがあった。
198年代時のことだ。彼の生家は東京郊外にあった。
それでも彼の目には、昔小魚をとって遊んだ用水路や川が
汚れてしまって無惨な印象だった。
ちょっとした浦島太郎の感覚だった。

 東京にいると何か世界が縮まってしまった錯覚があった。
 シオラパルクとは風景の尺度が違い過ぎるのだ。
 東京はあまりにも何もかもがひしめきあっているように見えた。



大島育雄「自然と生きる美学」7

今、大島は還暦を過ぎてなお、
グリーンランド、世界最北の村・シオラパルクに住んでいる、
長男と長女は猟師になり、一緒に村で暮らしている。

彼は「腕のいい猟師」として一目置かれる存在になった。
朝7時に起きて約2時間でウミガラスを百羽以上捕獲。
それも柄の長い網一本で、だ。
そのあとは、数日前にとったイッカクを解体、
アザラシ肉の薫製づくりなど一日中体を動かしている。

 猟は動物とのだまし合い。英語で猟をゲームと呼ぶけど、
 こんなに面白いゲームはないね。

自然の余剰分で命をつなぐ、
自給自足に近い生活を送っている。
狩猟は生態系の一部、とさえ誇っている。
そんな生活にも危機が訪れている。
海氷のとける時期と速度が早く、広くなっている。
氷が溶けてしまうと、猟はできない。

 若者には「文明」がひときわ、きらびやかな物に見える。
 自分たちの環境との、あまりの隔たり。
 しかし焦るな、と言いたい。
 とにかくここから始めるしかないのだ。
 焦らず、地に足をつけていかなければならない。

かつてシオラパルクに初めて電気入ったときの、大島の言葉だ。

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大友美有紀 12年1月14日放送


Elke Wetzig
ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」1

青春の詩人として知られるヘルマン・ヘッセは、
幼少時代、空想力が豊かで、聡明で、音楽好きだった。
そして動物や植物を愛していた。
その一方で、とてもわがままで反抗心が強かった。

14歳で神学校に入るが、教員と衝突して寄宿舎を脱走。そして自殺未遂。
次に入った高等学校も退学、商店員や父の仕事の手伝い、
機械工、どれも長くは続かなかった。

のちに『デミアン』で書いている。
 
 僕は、僕の内部からひとりでに出てこようとするものだけを、
 生きてみようとしたにすぎない。


 それがなぜ、あれほど難しかったのだろうか。

複雑で傷つきやすい。
夭折してもおかしくない気質だ。

けれども、彼は違った。


Ako
ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」2

26歳の時『郷愁』で大きな成功を収めたヘッセは、
結婚をし、こどもにも恵まれた。
そして『車輪の下』など青春文学を世に出していく。
その平和は、第一次世界大戦によって一変。
二度の徴兵検査に落ち、兵役不適格者となる。
戦時奉仕した新聞でも寄稿した論説が非難される。
父の死、こどもの病気、妻の精神病、自身の神経障害。
ついには、座骨神経痛とリューマチを患ってしまう。

ところが治療のために訪れた湯治場・バーデンでの新しい生活が、
ヘッセにとって興味深い、新しい経験となり、発見をもたらした。
 
 彼は待つことを学ぶ。
 彼は沈黙することを学ぶ。
 彼は耳を傾けることを学ぶ。
 そしてこれらのよき賜物を
 幾つかの身体的欠陥や衰弱という犠牲を払って
 得なくてはならないにしても、
 彼はこの買い物を利益と見なすべきである。

ヘッセ46歳の秋のことだった。



ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」3

ある夏、ヘッセはスイスの森を散歩していた。
ふと感じる。
美しく輝かしかった夏が、
何日も続く、たちのわるい雷雨の後、劇的な終焉を迎える。
それは、たくましく元気に見えた50代の男が、
ある病気のあと、ある苦しみのあと、ある失望のあと、
突然、筋ばった、すべてのしわの中に風雪に耐えたあとのある顔に
なってしまうのと似ていると。

そして思う。
侵入してくる衰弱と死に抵抗し、
ささやかな生にしがみつき、
おののきながら死を迎える技術を学ぶのだと。
 
 再び冬が来る前に、私たちの行く手には、
 まだ多くのよいことが待っている。
 次の満月を楽しめる事を期待しよう。
 そして、たしかにみるみるうちに老いるけれど、
 やはり死はまだかなり遠方にあるのを知ろう。

その時、ヘッセ。49歳。


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ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」4

1924年、スイス国籍を得たヘッセは、別居中の妻と離婚。
その後スイスの女性と結婚するも、3年で離婚してしまう。
この時の苦悩を吐露した作品が『荒野の狼』である。

心身ともに危機を迎えていたこの時期、
ヘッセにはひとりの女友達がいた。
彼女の名は、ニーナ。ヘッセより30ほど年上だった。
彼が住むスイス・ティッスーンの、辺鄙な小さな村に住んでいる。
ニーナの家に向かう道は美しい。
ブドウ山と森を通って山を下り、緑の狭い谷を横切って、
谷の向こう側の、急な斜面を登っていく、
そこは、
夏はシクラメンの花でいっぱいになり、
冬はクリスマスローズに満ちあふれる。

ニーナの家は朽ち果て、台所の中をヤギやニワトリたちが歩き回っている。
魔女やおとぎ話に近い場所。
ゆがんだブリキのやかんで淹れるコーヒは、たき木の煙でほのかに苦い。
ここで2人は、世界と時代の外側に生きている。
 
 情熱は美しいものである。
 若い人には情熱がとてもよく似あう。
 年配の人々には、ユーモアが、微笑みが、
 深刻に考えないことが、
 世界をひとつの絵に変えることが、
 ものごとをまるではかない夕雲のたわむれで
 あるかのように眺めることが、
 はるかにずっとふさわしい。


unbekannt
ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」5

ヘッセが53歳で出版した『知と愛』は、
それまでの彼の苦悩に和解を示すことが出来た作品だった。
そして再びの結婚を経て、ようやく彼の安定した晩年がはじまる。

ある時、妻に無理矢理カーニバル見物に連れ出される。
笑いさざめく顔、人々が笑ったり叫んだりする楽しげな様子。
ひときわ目を引いたのは、ひとつの美しい姿だった。
自分が仮装していることも、周囲の雑踏も忘れて、
カーニバルの何かに心奪われて、静かに立っている少年。
ヘッセは、カーニバルの喧噪のただ中にいる少年のあどけなさ、
美しいものに対する感受性に魅了されていた。

 成熟するにつれて人はますます若くなる。
 すべての人に当てはまるとはいえないけれど、
 私の場合は、とにかくその通りなのだ。
 私は自分の少年時代の生活感情を
 心の底にずっと持ち続けてきたし、
 私が成人になり老人になることを
 いつも一種の喜劇と感じていたからだ。


FlickrLickr
ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」6

戦争も終わり、経済が発展すると、
ヘッセの住む穏やかな村にも開発の大きな波がやってくる。
住みはじめた頃の自然と平和は奪われ、
無傷ではいられないと嘆いている。

 
 老境に至ってはじめて人は
 美しいものが稀であることを知り、
 工場と大砲の間にも花が咲いたり、
 新聞と相場表の間にも、まだ詩が生きていたりすれば、
 それがどんな奇跡であるかを知るようになる。


Kiril Kapustin
ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」7

75歳を間近に迎えた時期、ヘッセは少年時代の友人の訪問を受ける。
その人は『車輪の下』で描いた修道院時代の友だった。
友人の土産は、ヘッセが姉にあてた手紙。
それをきっかけに、過去の生活の記憶が鮮やかによみがえり、
語り合い、亡くなった人たちと再会を果たした気持ちを味わう。
おたがい白髪で、しわのよった瞼を持ちながら、
その奥にいる14歳の仲間を見つけだす。
教室の机に座っていた姿、目を輝かせて球技や競争をした姿、
そして精神と美に初めて出会ったときの
興奮、感動、畏敬の念の最初の暁光を見つけだした。

 私たち老人がこれをもたなければ、
 追憶の絵本を、体験したものの宝庫を持たなければ、
 私たちは何であろうか!

友人は帰郷後、知人やヘッセの妹に訪問の報告の葉書を書き、
ヘッセにも便りを送った。そして日々の仕事に戻った。
数日後、苦しむこともなくあっさり亡くなってしまった。

ヘッセはその損失を悲しみはしたが、
友人が最後の日まで誠実に仕事をし、
病床にもつかず、あっさりと穏やかに息をひきとったことを、
立派な調和ある終末として受け止めた。

 老いた人びとにとってすばらしいものは
 暖炉とブルゴーニュの赤ワインと
 そして最後におだやかな死だ
 しかし もっとあとで 今日ではなく!

ヘッセは85歳のある日、モーツァルトのピアノソナタを聴いて床につき、
そのまま翌朝、脳溢血で永遠の眠りについた。

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大友美有紀

大友美有紀(サンアド)、2012年1月から参戦します。

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