佐藤延夫 18年7月1日放送
roseロゼ
童謡 どんぐりころころ
どんぐりころころ どんぶりこ お池にはまって さあ大変
大正時代に生まれた童謡、どんぐりころころ。
作詞の青木存義は、文部省で図書編集の仕事をしているときに
この歌をつくったという。
しかし彼の手がけた数々の唱歌は、
文部大臣の認可を受けていなかったため、
どんぐりころころが小学校で歌われるのは、
昭和初期まで待つことになる。
日本の三大童謡のひとつ、とも言われるこの歌だが、
平成になると、幻の3番が存在するという噂が流れた。
やっぱりお山が恋しいと 泣いてはどじょうを 困らせた
この2番の終わり方があまりに寂しかったため、
平和な終わり方をする続編が創作されたそうだ。
童謡の中にあるシンプルなドラマは、
柔らかな余韻をまとい、愛されていく。
今日7月1日は、童謡の日。
あなたの思い出の歌は、なんですか。
佐藤延夫 18年7月1日放送
篁(たかむら)
童謡 われは海の子
我は海の子 白浪の さわぐいそべの松原に
童謡、われは海の子。
作詞、作曲者とも不詳になっているが、
児童文学者 宮原晃一郎、
または国文学者 芳賀矢一という説が有力と言われている。
果たして、この海は、どこなのか。
宮原だった場合は、彼の生まれ故郷である、
鹿児島県の鹿児島湾。
芳賀によるものなら、福井県の海になるのだろうか。
ふたつの海を、この目で確かめてみたくなる。
今日7月1日は、童謡の日。
あなたの思い出の歌は、なんですか。
佐藤延夫 18年7月1日放送
童謡 ふじの山
あたまを雲の 上に出し 四方の山を 見おろして
明治時代に発表された童謡、ふじの山。
作詞の巌谷小波は、
水口藩の藩医という家柄もあり
医学への道を勧められていた。
しかし彼は進学を拒否し、文学の世界に身を投じた。
児童文学とおとぎ話を執筆する傍ら、
いくつかの唱歌を作詞している。
童謡 ふじの山は、駅の発車メロディや
防災無線のチャイムなどに採用され、
地域に愛される歌になっている。
今日7月1日は、童謡の日。
あなたの思い出の歌は、なんですか。
佐藤延夫 18年7月1日放送
童謡 赤とんぼ
夕焼け 小焼けの あかとんぼ 負われてみたのは いつの日か
童謡、赤とんぼ。
この歌は、作詞をした三木露風の幼少時代の思い出がベースになっている。
5歳のとき両親が離婚し、露風は祖父に引き取られた。
十五で 姐やは 嫁にゆき お里のたよりも たえはてた
「姐や」は、実際の姉ではなく、子守をしていた女中をさす。
見知らぬ土地で、両親や親しい人と離れて暮らす。
この歌に潜む、言いようのない寂しさに、
私たちは心惹かれるのかもしれない。
今日7月1日は、童謡の日。
あなたの思い出の歌は、なんですか。
佐藤延夫 18年7月1日放送
童謡 七つの子
からす なぜ啼くの からすは山に 可愛い七つの子があるからよ
大正10年に発表された童謡、七つの子。
作詞の野口雨情は、「赤い靴」「シャボン玉」など、
数々の名作を残している。
ときどき話題になるのが、
歌詞に出てくる「七つ」の意味。
年齢を表すのか、それとも子どもが七羽いる、ということなのか。
本当の意味を考えながら歌うと、
童謡の奥深さにあらためて気付かされる。
今日7月1日は、童謡の日。
あなたの思い出の歌は、なんですか。
佐藤延夫 18年7月1日放送
童謡 夕日
ぎんぎん ぎらぎら 夕日が沈む
ぎんぎん ぎらぎら 日が沈む
大正時代に生まれた童謡、夕日。
作詞の葛原しげるは、
高校の講師として教壇に立ちながら童謡を書いた。
当初、この歌の冒頭は
「きんきん きらきら」という歌詞だったが、
当時、小学2年生の娘からこんな指摘を受けたという。
「きんきん きらきら」は、朝日みたい。
夕日は「ぎんぎん ぎらぎら」のほうが合う。
子どもの素直な気持ちが、この歌を名曲に変えた。
今日7月1日は、童謡の日。
あなたの思い出の歌は、なんですか。
厚焼玉子 18年6月30日放送
チャイカの日 選抜
1962年の春、当局は女性候補者を5人に絞り込んだ。
技術者2名、教師1名、タイピスト1名、
残るひとりは織物工場の工員だった。
それからおよそ1年、5人は教育を受け
トレーニングも積んだ。
ロケット理論、宇宙船工学、戦闘機による飛行、
120回のスカイダイビング。
1年後、織物工場の工員だった女性が選ばれ
そのミッションのコードネームが与えられた。
コードネームは「チャイカ」
世界初の女性宇宙飛行士の誕生だった。
1963年6月、
宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワは
ボストーク6号から
ヤー・チャイカ(私はカモメ)と呼びかけた。
厚焼玉子 18年6月30日放送
チャイカの日 心拍
例えば、面接。例えば初めてのデート。
さまざまな運動。
ドキドキする、つまり心拍数が上がるシチュエーションは
日常にいくらでもある。
安静にしている女性の心拍数は65から75。
20代の女性が運動をしているときの心拍数は
135ならラクな運動、
150で、ちょっときつい運動だそうだ。
1963年6月
当時26歳だった世界初の女性宇宙飛行士
ワレンチナ・テレシコワが
ボストーク6号に乗り込んだときの心拍数は140。
宇宙飛行を単に運動と考えれば決してきつくはない。
厚焼玉子 18年6月30日放送
Ωméga *
チャイカの日 ランデブー
宇宙のランデブーは
2機以上の宇宙船が速度を合わせ
同一の軌道を飛んで接近することをいう。
世界初の女性宇宙飛行士
ワレンチナ・テレシコワがボストーク6号で宇宙へ出ると
そこにはボストーク5号が待ち受けていた。
テレシコワのボストーク6号は
ブイコフスキーの乗るボストーク5号に5kmの距離まで接近し、
お互いに交信をし合った。
(テレシコワのコードネームは「チャイカ(かもめ)」
ブイコフスキーは「ヤーストレフ(鷹)」)
1963年6月のことだった。
当時はランデブーと騒がれたこのミッションだが
ランデブーには接近度が足りず
今では共同飛行と呼ばれている。
厚焼玉子 18年6月30日放送
チャイカの日 20年
1963年6月
世界初の女性飛行士として宇宙へ飛んだワレンチナ・テレシコワは
その年の秋に結婚し、娘を出産。
空軍大学を卒業し、博士号を取り
共産党中央委員会の一員に選ばれた。
それから離婚も経験した。
テレシコワが離婚した1982年、
世界で二番めの女性宇宙飛行士が二人の仲間とともに
宇宙へ飛んだ。
スベトラーナ・サビツカヤ、当時34歳。
アクロバット飛行チームで世界チャンピオンにもなったパイロットだった。
繊維工場の工員だったテレシコワ。
超優秀なパイロットだったサビツカヤ。
世界初と二番めの間にはおよそ20年の隔たりがあった。