森由里佳 18年6月10日放送

180610-04

時の記念日 人と時間のいい関係

分刻みのスケジュールであわただしく過ごす、現代人のみなさん。
私たちが時間を意識するようになったきっかけを、ご存知ですか?

時は13世紀、北イタリアから南ドイツにかけてのこと。
時間を神からのいただきものだと考える修道士たちにとって、
仕事や祈りの時間を守ることは、とてもだいじなことでした。

そこで、修道院や教会の塔に、
鐘を鳴らす機械時計が設置され始めます。

修道院が人びとの暮らしのまん中にあった時代ですから、
まわりで生活していた民にとっても、
祈りの時間を告げる鐘の音は、暮らしの一部となっていきました。

私たち人間と時間のつながりは、
日々の幸せを祈ることから生まれていた。
なんだか素敵な話です。

今日は、時の記念日。

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森由里佳 18年6月10日放送

180610-05

時の記念日 高倉健と時計

名優、高倉健は、
親しい友人や共演した仲間たちに、
高級時計を贈ることがあった。

そのために購入したものもあったが、
中には自らが気に入って使っていたものを、
プレゼントすることもあったという。
そんな時計を受け取った一人に、中井貴一がいる。

『これ俺がつけていた大事にしていたやつだから、して』

そう言って時計を渡すと、
中井が御礼のひとことを言い終える頃には
自分の車に乗り込んでしまっていたという高倉。

大事にしていたものだから、使ってほしい。
こんなことをさらっと言える大人は、そういない。

今日は、時の記念日。

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蛭田瑞穂 18年6月10日放送

180610-06

時の記念日 マリー・アントワネット

1783年、フランスのある宮廷時計師のもとに
マリー・アントワネットの礼賛者と名乗る人物が現れ、
王妃のために史上最高の時計の製作を依頼した。

その10年後、マリー・アントワネットは
フランス革命で死刑に処される。
だが、彼女の死後も時計づくりは続けられた。

そして1827年、時計は完成する。
王妃の死から34年後のことである。

伝説に彩られた時計「マリー・アントワネット」は
現在イスラエルの美術館に収蔵されている。

今日は、時の記念日。

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蛭田瑞穂 18年6月10日放送

180610-07

時の記念日 クロノメーター

一定の基準をパスした精度の高い機械式時計に
与えられる名称、クロノメーター。

しかし、20世紀のはじめまで
腕時計のクロノメーターは存在しなかった。
単に装飾品と思われていた腕時計に
そこまでの精度を求めることがなかったのだ。

世界ではじめて
クロノメーターに認定された腕時計があらわれたのは
1910年。

それから数年後には
ポケットから懐中時計を取り出して時間を見ていた人々が
腕時計をつけるようになったのである。

今日は、時の記念日。

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蛭田瑞穂 18年6月10日放送

180610-08

時の記念日 陛下の時計

スイスのある時計メーカーの顧客リストを見ると、
ヴィクトリア女王、ワーグナー、アインシュタインなど
そうそうたる名前が並ぶ。

しかし、日本のメーカーも負けてはいない。

昭和2年、
ある晩餐会でひとりの紳士が陛下に舶来の時計を自慢したところ、
陛下はズボンの右ポケットから懐中時計を取り出し、
国産品だけれども、とてもよく合うとおっしゃった話が
伝えられている。

その時計の値段は12円50銭だったそうだ。

今日は、時の記念日。

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厚焼玉子 18年6月9日放送

180609-01

山田耕筰 声楽科

「赤とんぼ」「ペチカ」などの童謡で知られる山田耕筰は
東京音楽大学の声楽科を卒業している。

本当は作曲の道へ進みたかったのに
その当時、学校には作曲を担当できる教官がおらず
しかたなしに声楽科を選んだらしい。
「声楽なんか好きじゃなかった」という本人の言葉も
伝えられている。

その山田耕筰が、日本の歌曲の先駆者となり、
600を超える声楽の曲を作曲したのだから不思議だ。

ちなみに1908年の卒業演奏で
山田耕筰はバリトンでシューベルトの「菩提樹」を
歌った。

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厚焼玉子 18年6月9日放送

180609-02
関西学院大学
山田耕筰 校歌

駒澤大学、関西学院大学、武蔵野美術大学
これらの大学に共通するものがある。
それは、作詞北原白秋、作曲山田耕筰の校歌だ。

山田耕筰は小学校から大学まで、
全国の学校の校歌を数多く作曲した。
そのうちのおよそ100曲が北原白秋と組んだものだった。

関西学院大学では山田耕筰の直筆の楽譜を
いまも大切に保管している。

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厚焼玉子 18年6月9日放送

180609-03
Akira
山田耕筰 からたちの花

北原白秋作詞、山田耕筰作曲「からたちの花」
山田耕筰は、これをもっともむづかしい曲の一つに数え、
その歌いかたを細かく指示しているほどだ。

 「からたち」の「か」をやや抑えて漸弱(ぜんじゃく)し
  「らたち」はむしろ軽く流すようにする。
  叙事は淡々と、叙情は切実に。

からたちの花が咲いたよ
白い白い花が咲いたよ

山田耕筰の指示を読むと
この二行を歌うむづかしさがわかる。

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厚焼玉子 18年6月9日放送

180609-04
DX Broadrec
山田耕筰 甲子園

夏の甲子園。
選手の入場のときに使われる行進曲は
山田耕筰が作曲している。

この曲ができた1935年、
山田耕筰は甲子園で150人の学生ブラスバンドを率いて
自ら指揮棒を振った。

当時の新聞記事によると
山田耕筰はこのとき、
握力が余って指揮棒を曲げてしまったそうだ。

49歳の力強い指揮だったのだろう。

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厚焼玉子 18年6月9日放送

180609-05

山田耕筰 パブリックドメイン

山田耕筰といえば、「赤とんぼ」「ペチカ」などの童謡や
「からたちの花」に代表される歌曲がよく知られているが、
実は管弦楽曲も多く作曲している。

しかし残念ながら出版されていないものが多く、
自筆の楽譜は戦災で焼け、
筆写譜しか残されていないという状况では
出版も演奏もむづかしかった。

2015年、
山田耕筰の全作品は著作権の保護期間が満了した。
パブリックドメインの山田耕筰。
いまは日本人すべての知的財産として誰でも自由に
山田耕筰の作品を公開できる。

山田耕筰は1886年の今日、生まれた。

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