大友美有紀 18年6月3日放送
「安野光雅」 テレビ草創期
絵本作家・安野光雅は、デビュー前は、美術教師をしていた。
1959年、日本教育テレビが開局する。民間初の教育専門局だ。
そこで、安野は「図工の先生」だった。
生放送の番組でスタッフは手探り。失敗の連続だった。
当時のテレビは、よく電波障害で画面が乱れ、
音声もザーッと雑音でかき消された。
その画像乱れの絵を用意しておいて
困っときには、カメラの前に出して上下に動かして
映像を遮断した。スタジオは大爆笑だった。
日本教育テレビは、のちにテレビ朝日となって様々な番組を生み出す。
美術教師だった安野光雅も、画家、装幀家、絵本作家と
幅広く活躍するのだった。
大友美有紀 18年6月3日放送
白石准
「安野光雅」 井上ひさし
絵本作家・安野光雅と劇作家・井上ひさしは、
著書の装幀、芝居のポスター、いろいろな仕事をしてきた。
最初の仕事は絵本「ガリバー」だった。
絶版になっていたが、井上が亡くなったあと、
復刻版を出すことにし、絵をすべて描きなおした。
少年のようなガリバーにヒゲをつけ、
ひょっこりひょうたん島や井上に似た人も登場させた。
むずかしいことをやさしく、
やさしいことをふかく、
ふかいことをおもしろく、
おもしろいことをまじめに
井上ひさしが実践していた信条を、
安野は描くことで実感したのだった。
大友美有紀 18年6月3日放送
「安野光雅」 谷川俊太郎
三億円事件のころ、
絵本作家・安野光雅の家に刑事がやってきた。
事件場所の近所の家をしらみつぶしにあたっていた。
どんな仕事をしているのかと聞かれたので、
安野は谷川俊太郎の本の装幀をしていると答えた。
刑事は谷川俊太郎を知らなかった。
その話を谷川にすると大笑いされた。
安野が谷川と共編で出した「にほんご」は、とても評判が良かった。
それは、谷川の「にほんご」についての感覚に負うところが大きい。
安野は谷川はいつも言葉を研いでいるように思う、という。
大友美有紀 18年6月3日放送
Ray Swi-hymn
「安野光雅」 司馬遼太郎
「雪の殿様」とは、
絵本作家・安野光雅は、一時期、
司馬遼太郎の「街道をゆく」の挿絵を担当していた。
安野が絵を描いてみせると
司馬は、アンノさんはこんなところでも絵にする、と
着眼点の意外さを指摘する。
絵に描いたリンゴと本物のリンゴでは、
絵の方がいいと言われたこともある。
ところが、司馬遼太郎は絵も描く人だった。
「街道をゆく」のオランダ紀行では自ら挿絵も描いている。
司馬遼太郎は気配りの人だ。
安野は、もしかして、司馬さんは、本当はナミの絵では
満足しなかったかもしれないと思いはじめた。
大友美有紀 18年6月3日放送
Mrs. Trusty
「安野光雅」 ターシャ・テューダー
安野光雅の絵本は、アメリカでも出版されている。
アメリカの担当編集者が、ターシャ・テューダーの家に
連れて行ってくれることになった。
園芸家でもあり、絵本作家でもあるターシャ。
彼女への手土産にドライフラワーを買おうとしたら、
編集者が顔色を変えてやめさせた。
ターシャの家は、門から車でだいぶ行ったところにある。
途中に池がある。豪邸ではなく、板で囲ったような家。
どこからでも入れる感じで小鳥がいっぱいいる。
手土産を止められた理由がわかった。
ターシャの庭は30万坪の敷地に花が咲き乱れていた。
安野は、ターシャの家をモデルにして、絵本を描こうとした。
鶏小屋や井戸のそばのバケツの中、暖炉の横の石炭などに
隠された手紙を探して、最後にはクリスマスプレゼントに出会うお話。
けれど、似たような絵本が先に出てしまい、あきらめた。
安野が描いたターシャの家を見てみたかった。
大友美有紀 18年6月3日放送
FaceMePLS
「安野光雅」 アントニ・タピエス
絵本作家・安野光雅は、
友だちに「君はタピエスのようなところがある」と言われたことがある。
そして見たこともないタピエスにあこがれた。
アントニ・タピエス。スペインの抽象表現主義の画家だ。
安野は、後年「旅の絵本」を描きにスペインを訪れた際、
無理を承知でお願いしたところ、タピエスに会うことがかなった。
玄関を入ると江戸時代の書や仏像が飾ってある。
タピエスは、岡倉覚三を知っているかと聞く。
安野は飛び上がった。彼も岡倉覚三、「茶の本」が大好きだった。
修学旅行の学生のようになって、
画用紙を取り出して、
サインをしてはもらえないかと申し出た。
タピエスは日本の筆と墨でサインをした。
安野はそれを大切にしている。
お互いに惹きあう運命だったのかもしれない。
大友美有紀 18年6月3日放送
「安野光雅」 岸田衿子
画家・装幀家・絵本作家、安野光雅。
岸田衿子の詩集「風にいろをつけたひとだれ」の装幀を手がけた。
衿子は劇作家・岸田國士(くにお)の娘。
女優・岸田今日子の姉である。
安野が「キツネに野生が蘇った」と書いた文章を
衿子は「野生が戻った」にした方がいいと言った。
「モドッタ」という言いかたは、一見通俗ふうである。
そのむずかしくなく、やさしく書くことは、
その後の安野の文章に対する姿勢をあらためさせた。
岸田衿子の言葉どおり、「衿を正す」もととなっていった。
大友美有紀 18年6月3日放送
leosagnotti
「安野光雅」 千住真理子
「旅の絵本」などで知られる作家・安野光雅は、
テレビ番組で、バイオリニストの千住真理子と
ドイツからエルベ川をさかのぼる旅をした。
プラハに入ったとき、安野は千住と二人だけで
待機することになった。
ずいぶん待っても誰も戻って来ない。
日も落ちはじめた。現地のお金もない。
千住は、バイオリンを弾きましょうか、という。
彼女のバイオリンは、ストラディバリウスである。
それを弾けば投げ銭が集まるかもしれない。
安野がドキドキしていると、
たいへんお待たせしました、とディレクターが戻ってきた。
まったく気の利かない男だ。
佐藤延夫 18年6月2日放送
趣味に生きる 土井利位
「雪の殿様」とは、
下総古河藩第4代藩主、土井利位のことだ。
雪の結晶を顕微鏡で観察した最初の日本人と言われている。
わざわざオランダ製の顕微鏡を長崎から取り寄せ、
試行錯誤を繰り返しながら、
20年にわたり雪を観察した。
雪の結晶86種類を描いた本の出版は、
世界初の偉業とされる。
その鮮やかな文様は広く知れ渡るようになり、
浴衣にデザインされるほど流行したという。
ひとつの物事を極めると、
新たなビジネスが生まれるのかもしれない。
佐藤延夫 18年6月2日放送
趣味に生きる 榊原政岑
播磨姫路藩第3代藩主、榊原政岑は
遊芸を好み、放蕩三昧の暮らしを送った。
派手な出で立ちで江戸城を警備し、
まるで将軍吉宗の倹約令に逆らうように
贅の限りを尽くした。
また、当時、吉原一の美女と謳われた
高尾太夫を1800両で身請けし、
その際に開いた宴の費用は、
3000両をゆうに超えたとも言われている。
もちろんそのような振る舞いは将軍の怒りを買い、
越後高田への転封が命じられた。
新天地では必死に政務に励んだが、
翌年、31歳の若さで亡くなっている。
太く短く遊び抜くのも、また人生。