蛭田瑞穂 18年5月13日放送
ひらめき 藤本弘
ドラえもんの生みの親、藤子・F・不二雄こと藤本弘。
しかし、その誕生には途方もない苦しみがあった。
新連載の締め切りが迫っていた1969年11月。
作品の構想が浮かんでいないにもかかわらず、
藤本はアイデアがすぐに浮かぶ便利な機械を空想したり、
ドラネコのノミ取りなどをしたりと無駄に時間を過ごしていた。
そして締め切りの日の朝、絶望しながら階段を駆け下りたところ、
娘のおもちゃの起き上がりこぼしにつまずき、
その瞬間「ドラネコと起き上がりこぼし」が結びついた。
ダメな人間を機械が助けるというストーリーも
自分の姿に重ね合わせてその時ひらめいたという。
蛭田瑞穂 18年5月13日放送
dominicotine
ひらめき 仲畑貴志
1980年代のコピーライターブームを牽引し、
今なお広告の第一線で活躍するコピーの神様、仲畑貴志。
「おしりだって、洗ってほしい。」
「ココロも満タンに」
「一緒なら、きっと、うまく行くさ。」
記憶に残るコピーを数多く生み出してきた天才にも、
コピーがひらめかない時はあるのだろうか。
かつて仲畑貴志はあるウイスキーの広告でこんなコピーを書いている。
いいコピーが、スッカラカンに書けない時は、
軽く飲んで、早く寝るしかないなあ。
恐れ入りました。
森由里佳 18年5月13日放送
K.Suzuki
ひらめき 羽生善治その1
プロ棋士、羽生善治。
その伝説的な強さは言わずもがな、
一体何手先を読んでいるのかと驚愕した人も多いだろう。
羽生は、勝負どころを検証する「読み」について、
こんなことを言っている。
年齢が上がるにつれ読めなくなるという人がいるが
それは読めないのではない。
短い時間で閃かないだけで、時間をかければ読める。
若いころはもっと思いついたんだけどなあ…
もしも今、そんな気持ちで頭を抱えている人がいたら
焦らず、じっくり、時間をかけてみてはどうでしょう?
森由里佳 18年5月13日放送
chidorian
ひらめき 羽生善治その2
突然ですが。
直感とヒラメキの違い、
みなさんはどう考えますか?
プロ棋士、羽生善治の名言をひとつ紹介します。
直感は数多くの戦いをこなし体系的に学ぶうちに、
後天的に養われるもので、説明ができます。
でも、ヒラメキは説明ができません。
なぜか自分でもわからないが、ひらめいたとしかいえません。
つまりひらめきは、
相手が絶対に予測できない一手。
羽生の強さは、
ひらめきにこそ宿っているのかもしれません。
佐藤日登美 18年5月13日放送
ひらめき エドウィン・ランド
子どもの素直な疑問が、ときにひらめきのヒントになる。
科学者であり、発明家でもあるエドウィン・ランドはある日、
娘の写真を撮ってあげた。
1940年代の、スマホなどない時代。
すぐ写真を見たい!とせがむ娘は、ランドに素朴な疑問をぶつけた。
「どうして写真は撮ったらすぐに見れないの?」
その言葉からひらめき、ランドは
写したその場で写真が現像できるインスタントカメラを開発した。
当時は「ランドカメラ」の名で発売されたが、
今では「ポラロイドカメラ」として親しまれている。
佐藤日登美 18年5月13日放送
ひらめき H.Jハインツ
あのケチャップ会社の生みの親、H.Jハインツ。
1896年のある日、ハインツはニューヨークの電車のなかで
自社の広告をどうしたものかと考えていた。
車内に目をやると、ある靴会社の「21のスタイルの靴」という広告。
ハインツ社の商品にも当てはめてみたらどうだろうとひらめき、
その足ですぐさま印刷屋に駆け込んだ。
そのとき、なぜか「57」という数字が頭から離れず、
一週間後、「57 varieties」というコピーとともにハインツ社の広告が街中を飾った。
100年以上経った今でも、「57 varieties」のフレーズは健在。
実は、ケチャップボトルにも載っているので確認してみては。
佐藤日登美 18年5月13日放送
ひらめき 加藤和彦
映画『この世界の片隅に』のオープニング曲として
改めて注目が集まった、『悲しくてやりきれない』。
ザ・フォーク・クルセダーズの2枚目のシングルとして発売されたこの曲には、
ちょっとした逸話がある。
当初リリース予定だった『インダス河』が発売自粛になったため、
急遽新曲を書くようにと言われたメンバーの一人、加藤和彦。
部屋に閉じ込められ、ギターだけ渡され、
ああもうどうしようもない、となったとき、
ふと『インダス河』のメロディーを譜面に書き、音符を逆に辿ってみた。
そのうちにモチーフが思いつき、10分ほどで曲ができたという。
ひらめきは、物事を逆から見ることで生まれることがある。
…あと、追い込まれることでも。
永久眞規 18年5月12日放送
sıɐԀ ɹǝıʌɐſ
河野芳之助とアメリカザリガニ
きょう5月12日は「ザリガニの日」。
今から約90年前の1927年、
アメリカザリガニが日本に輸入された日だ。
持ち込んだのは、河野芳之肋(かわのよしのすけ)。
当時北米で流行っていた食用ガエルの養殖に取り組んでいた彼は、
カエルの餌としてザリガニに目をつけたのだ。
日本への船旅はザリガニにとって過酷だったようで、
もともと100匹いたのが、
到着したときには20匹になっていたという。
そんな苦労の甲斐なく食用ガエルの養殖は失敗。
不要になったザリガニも川に放たれることとなる。
そして20匹だったアメリカザリガニは、
固有種のニホンザリガニを押し退けて
あっという間に全国へ広がっていった。
いまでは問題とされる「外来種」も、
外から勝手にやって来たわけではない。
私たち人間が連れてきたという事実を忘れてはならない。
藤本宗将 18年5月12日放送
秋山徳蔵とニホンザリガニ
パリで修行中の料理人・秋山徳蔵が
日本に呼び戻されたのは、1913年のこと。
大正天皇の即位を祝う晩餐会のために、
彼の腕が必要とされたのだ。
そのメニューの目玉として秋山が考えたのが、
フランスでは高級食材である
ザリガニを使ったポタージュ。
しかし当時入手できるザリガニといえば、
北海道などに生息するニホンザリガニしかない。
しかも来賓客は2000人。
それでも諦めきれなかった秋山は、
なんと北海道の陸軍第七師団にザリガニ捕獲を依頼。
兵士を動員して3000匹ものザリガニを確保した。
晩餐会の真のミッションは、
海外からの来賓を一流のフランス料理でもてなし
日本を一等国と認めさせること。
史上最大のザリガニ捕りは、
国家の威信をかけたプロジェクトだったのだ。
藤本宗将 18年5月12日放送
jin
秋山徳蔵とニホンザリガニ
「天皇の料理番」として知られる秋山徳蔵。
大正天皇の即位を祝う晩餐会の料理を任された彼は、
「ザリガニのポタージュ」を出すため、
北海道で陸軍まで動員して3000匹のザリガニを調達した。
そのとき秋山は天皇の避暑に付き従って
栃木県の日光御用邸に滞在していたので、
ザリガニはいったん日光へ送られ
御用邸近くを流れる大谷川(だいやがわ)に
生簀をつくって保管された。
ザリガニたちはひと夏をそこで過ごしたあと、
晩餐会の会場となる京都へと運ばれていった。
時は流れて平成18年。
あるニュースが世の中を驚かせた。
本来は北海道・東北にしか
生息していないはずのニホンザリガニが、
大谷川の支流で発見されたのだ。
さまざまな調査の結果、
発見されたニホンザリガニは
北海道に由来すると結論づけられた。
果たして彼らは、
100年前ポタージュになる運命から逃れた
ザリガニの子孫なのだろうか。
外からの「眼」で再発見した人物である。