藤本宗将 18年5月12日放送
秋山徳蔵とニホンザリガニ
1915年。
大正天皇の即位を祝う晩餐会の準備に追われていた
「天皇の料理番」秋山徳蔵を、とんでもない事件が襲う。
食材として北海道から運び込んだ3000匹のザリガニが
ある朝、忽然と消えたのだ。
ザリガニは厨房の生簀で四方を金網で囲まれ、
水道を出しっぱなしの状態にして保管されていた。
厨房には鍵がかけられており、
隣室には大勢の職員が泊まり込んでいる。
いったいどうやって盗まれたのか?
それより深刻なのは、晩餐会をどうするかだ。
3000匹ともなると、代わりを急に確保できるはずもない。
さすがの秋山も青ざめた。
しかし数時間後、事件は思わぬかたちで解決する。
職員のひとりが荷物の陰に隠れていたザリガニを発見。
ほかの荷物も持ち上げて確認させると、いるわ、いるわ。
ほぼすべてのザリガニが回収された。
明らかになった真相は、こうだ。
厨房の隣室で寝ていた職員が、
水道の音がうるさいと蛇口にふきんを垂らした。
ザリガニはそれを伝って生簀から逃げ出したのだ。
かくしてザリガニたちの大脱走は失敗に終わり、
おいしいポタージュとなって晩餐会を大成功に導いた。
藤本宗将 18年5月12日放送
内田亨とウチダザリガニ
日本には、アメリカザリガニ以外にも
外来種のザリガニがいる。
北海道などに生息する「ウチダザリガニ」だ。
アメリカから食用として持ち込まれ、
摩周湖では1930年に476匹が放流された記録がある。
それが野生化して定着した。
外来種なのに和風の名前なのは、
北海道大学で系統分類学の基礎を築いた
生物学者・内田亨にちなむ。
命名者が内田に敬意を表して
「ウチダザリガニ」という和名にしたのだ。
のちのちまで人々に親しまれることを願って。
ところがその願いは叶わなかった。
時代が変わり、外来種は生態系を破壊する危険な存在と
見なされるようになったからだ。
外来種を持ち込んだのも、駆除するのも、
すべて人間が決めたこと。
環境の問題は、いつだって人間の問題だ。
大友美有紀 18年5月6日放送
「日本美の再発見・ブルーノ タウト」来日
2008年、ベルリンの共同集合住宅が
ユネスコ世界文化遺産になった。
それを手がけた建築家、ブルーノ タウト。
1880年東プロイセン、ケーニヒスベルク生まれ。
ドイツ各地で都市計画や集合住宅を手がけ、
世界的建築家へと踏み出す直前、
ナチスからあらぬ嫌疑をかけられ日本へ逃れてきた。
1933年のことだった。
やや近づくと緑の山々。
細雨が静かに降り、なにもかもが灰色におおわれる。
それからまた緑の色、前に入り江が横たわり
そのうしろには明るい空、松の生えた島。
日本の美しさを
外からの「眼」で再発見した人物である。
大友美有紀 18年5月6日放送
「日本美の再発見・ブルーノ タウト」旅館
ドイツの建築家ブルーノ タウト。
ナチスの嫌疑から逃れるため日本へやってきた。
最初についたのは駿河湾。
その夜、タウトは夫人とともに旅館へ泊まる。
宿の玄関では女中や番頭が
驚くばかりていねいにお辞儀をして
私たちを迎え入れた。
私たちはそこで靴を脱ぎ、
畳の上に座って夕食をとった。
このような幸福は、夢のような想像でしか
描くことができなかったと語る。
タウトは、しばらく日本に滞在したのち、
アメリカに渡る予定だった。
しかし手続き上の問題でその後3年半、
日本にとどまることになる。
それは日本の美にとっては幸福だった。
大友美有紀 18年5月6日放送
「日本美の再発見・ブルーノ タウト」桂離宮
ドイツ人建築家ブルーノ タウトは、
その著書の中で
桂離宮はギリシャのアクロポリスから受ける印象が
実に良く似ていると断言している。
両者ともに数世代を経て洗練を重ねた結果、
特殊なもの偶発的なものをことごとく脱却した
純粋な形式であると。
障子を閉め切った部屋は深い静けさを湛えているのに、
障子をあけると「絵」のような庭が
あたかも家屋の一部ででもあるかのように、
突然私たちの眼の前に
圧倒的な力をもって現出する
タウトが著した「ニッポンーヨーロッパ人の眼で観た」は、
空前の桂離宮ブームを起こすこととなる。
大友美有紀 18年5月6日放送
「日本美の再発見・ブルーノ タウト」伊勢神宮
ドイツ人建築家ブルーノ タウトは、
1933年に来日後、精力的に各地を巡り、
日本への認識を深めていく。
桂離宮と並んで、感銘を受けたのは伊勢神宮だった。
日本が世界に与えた一切のものの源泉、
まったく独自な日本文化を開く鍵、
完成せる形のゆえに全世界の賛美する日本の根源
それは外宮、内宮、および荒祭宮(あらまつりのみや)をもつ
伊勢である。
そこには日本文化のすべての優れた特性が
渾然と融合して見事な結晶をなしているのだという。
80年以上前にここまで言い切るドイツ人がいたことに
感銘を受けてしまう。
大友美有紀 18年5月6日放送
「日本美の再発見・ブルーノ タウト」旧日向別邸
ナチスから逃れて日本へやってきた建築家ブルーノ タウトは、
当初3ヶ月ほどの滞在だと考えていた。
だが旅券の手続きがなかなか進まず
建築の仕事をすることができなかった。
日本唯一のタウトの作品は、
熱海の旧日向別邸だ。
大阪の実業家、日向利兵衛は、
タウトに依頼して、
熱海の邸宅の地下に居間と社交場を作った。
全体として明快厳密で、ピンポン室あるいは舞踏室、
洋風のモダンな居間、日本座敷および日本風のヴェランダを、
一列に並べた配置は、すぐれた階調を示している。
桂離宮の面影も感じるこの建物は、
重要文化財に指定され、公開されている。
大友美有紀 18年5月6日放送
小池 隆
「日本美の再発見・ブルーノ タウト」洗心亭
ドイツ人建築家ブルーノ タウトは、日本各地を旅したのち、
1934年8月、夫人とともに
高崎市郊外の少林山達磨寺の洗心亭に移り住む。
蝉の声が鳴り響き、樹々が生茂り、
村の人が気軽に訪れる住処。
此処こそ私が去りがてに思った最初の土地である、
私たちはできることならこの清閑と質素な生活、
また私たちを取りまく諸人の親切を味わいつつ
秋の更けるまで滞在したいとねがっている
ここで、日本文化に関する本の多く読み著述も行った。
方丈記で鴨長明の庵が1丈しかないことを知ると
「私の洗心亭の方が少し広い」と書いた。
そして日本を去る日まで、居留していた。
大友美有紀 18年5月6日放送
chrissam42
「日本美の再発見・ブルーノ タウト」カマクラ
ドイツ人建築家ブルーノ タウトは、ナチスから逃れて
日本へやってきた。日本文化を学ぶ旅で、農村にも興味を持った。
冬の横手である景色に出会う。
夕食後、町を散歩する。素晴らしい美しさだ。
こんな美しいものを私はかつて見たことはなかったし
またまったく予期もしていなかった。
それはろうそくが灯ったカマクラだった。
コンロの上では汁がグツグツと煮えている。
小さな男の子と女の子が
年上の少年少女をお客に迎えている。
雪の中の静かな祝祭。
土地の人にとってはごく普通の日常かもしれない。
タウトは、ここに美しい日本があると感じた。
大友美有紀 18年5月6日放送
Video
「日本美の再発見・ブルーノ タウト」別離
1936年、日本は戦時体制がすぐそこに迫っていた。
ドイツ人建築家ブルーノ タウトは、建築の仕事ができないまま、
日本に来て3年半の月日が経っていた。
友人も日本を去ることを勧める。
トルコから国立芸術大学の建築科主任教授にと要請が来る。
タウトはそれを受けることにした。
日本よ!
私が日本を去ったらどんなにか君に
あこがれることであろう。
最後の日、東京駅で大勢の人がタウトを見送った。
タウトは「日本文化万歳!」と微笑みながら、
涙がこぼれていた。