石橋涼子 18年4月29日放送

180429-06
nhojjohn58
わたしのはなし リトル・ミイの顔

わたしとは、なんだろう。

ムーミン谷に住む小さな女の子、ミイ。
怒りっぽくて口が悪いけれど、
彼女は、自分というものを知っている。

あるとき、自分に自信が持てなくて、
とうとう姿が消えてしまった仲間に
ミイはぴしゃりとこう言った。

 それがあんたのわるいとこよ。
 たたかうってことをおぼえないうちは、
 あんたには自分の顔はもてません。

小さなミイは、
まったくもって彼女らしい顔で、よく笑う。

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茂木彩海 18年4月29日放送

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わたしのはなし 吉田松陰の答え

わたしとは、なんだろう。

この難しい問いに、武士でありながら
思想家であり教育者でもある吉田松陰は、こう答えている。

 体は私なり。
 心は公なり。

目に見えている物体としての体がわたしなのであり
こころは、わたしのものではなく、
誰かのため、公のためにつかうものだと。

心と体、2つの視点から自分を見るとき、
わたしとは何者か、深く理解できるのかもしれない。

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茂木彩海 18年4月29日放送

180429-08

わたしのはなし フェリーニのわたしらしさ

わたしとは、なんだろう。

もう終わりだと思うのも、
さあ始まりだと思うのも、
どちらも自分だ。

 「映像の魔術師」の異名を持つ映画監督、
 フェデリコ・フェリーニの言葉である。

流行りに流されることなく
次々と新しい映画作りに挑戦することで
独自のスタイルを築いたフェリーニ。

わたしがどう感じるか、
その感覚を一番大切にして生きてみれば
もっとシンプルに、わたしらしさが見えてくる。

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厚焼玉子 18年4月28日放送

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アルハンブラ はじまり

711年4月28日
7000人のイスラム軍が海を渡って
イベリア半島に上陸し
アルハンブラの丘を占領した。

それから数年でイスラムの勢力はイベリア半島全域に及んだ。
イスラムは他の宗教に寛容だったため
土地のキリスト教徒も次第にイスラムの支配を受け入れ
後のスペイン文化の基礎を築くことになる。

イスラム建築の最高傑作といわれるアルハンブラ宮殿の土台は
こうして固まった。

イスラム軍の最初の上陸地点は指揮官の名前を取って
ジャバル・アッターリク「ターリクの丘」と名付けられ
のちにジブラルタルと呼ばれた。

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厚焼玉子 18年4月28日放送

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アルハンブラ 原型

スペインの古都グラナダの南東の丘に建つアルハンブラ宮殿は
もともと外敵を阻止するための砦からはじまる。

当時の首都はコルドバにあり、
イスラムの王のもとで
ヨーロッパでもっとも進んだ文化が花開いていた。
このイスラムの王国は宗教の自由を認め、
留学生を受け入れる一方で
外敵の侵入や農民の反乱に悩まされていたらしい。
砦は13世紀に拡張工事が行われ
兵士たちの住居のほか、
武器弾薬も収納する軍事要塞になった。
砦はアルカサーバと呼ばれた。

いまも残る砦の見張りの塔(ベラの塔)からは
グラナダの街が一望できる。

この砦がやがて
アルハンブラ宮殿と呼ばれる建築群に発展する。

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厚焼玉子 18年4月28日放送

180428-03
Tuxyso
アルハンブラ 建築

13世紀の後半、
キリスト教の勢力に追われたイスラム圏に残されたのは
グラナダを中心としたアンダルシア南部だけになっていた。
首都は当然グラナダで、
イスラムの王はこの土地をいつくしみ、
砦を広げ、水道を引き、庭園をつくり、宮殿を建てた。

皮肉なことに
アルハンブラが大きく拡張されたのは
イスラムの残照ともいうべきこの時期だったのだ。

1492年、グラナダは陥落し、
アルハンブラ宮殿はキリスト教徒の手に落ちる。

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厚焼玉子 18年4月28日放送

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アルハンブラ 水

アルハンブラ宮殿に水道が引かれたのは13世紀。
当時のイスラムの王ムハンマド一世とムハンマド二世の
二代にわたる大工事だった。

アルハンブラにはふんだんに水がある。
池、噴水、滝、水路。
ガイドの説明によると
これらの水はシエラネバダの雪解け水だそうだ。
シエラネバダはグラナダの南に連なる山脈で
標高3478メートル。
標高差を利用してサイホンの原理で水を運ぶ。

グラナダが陥落したとき
最後の王ムハンマド11世はシエラネバダに落ちのび
アルハンブラを振り返って惜別の涙を流したという。

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厚焼玉子 18年4月28日放送

180428-005

アルハンブラ 色

アルハンブラ宮殿の「アルハンブラ」は
アラビア語のアル・ハムラー「赤い城」が語源だという。
なぜ赤なのかについては諸説がある。
周辺の土が赤土だから。
宮殿はもともと赤い漆喰で覆われていたから。
そして、建築の際に
夜を徹してかがり火を焚いて工事をしたから
赤く見えたのだという説もある。

お天気のいい夕暮れ、
グラナダの展望台にはたくさんの観光客が訪れる。
そこで目にするのは夕日で赤く染まったアルハンブラだ。

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河田紗弥 18年4月22日放送

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美しさのひみつ 〜アイシャドウ〜

アイシャドウは、紀元前3500年頃には、
古代エジプトではじまっていたと言われている。

今では、目を大きく見せたり、華やかに見せたり
目元のおしゃれ目的で使用されているアイシャドウ。
当時は、虫除けとして使用されていた。

古代エジプトは、空気が乾燥している上に、
衛生状態が悪かったため、
ハエなどの害虫が、水分を求めて人間の目に集まってきてしまい
感染症を引き起こしてしまうということが
日常茶飯事であった。

そこで、孔雀石を砕いた緑色の粉末などを
目のふちやまつ毛などに塗り、
それを防いでいたのだ。

この感染症予防を、おしゃれに楽しむことを始めたのが、
世界三大美女で知られるクレオパトラ。

彼女は、使用する鉱物を変え、緑や青、黒、赤褐色と
カラフルな色彩を使って、メイクを楽しんだと言われている。

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河田紗弥 18年4月22日放送

180422-02

美しさのひみつ 〜マスカラ〜

アイメイクに新しい風が吹いたのは1913年だった。

トーマス・ウイリアムスというアメリカの若い薬剤師が
妹の恋を成就させるために
ワセリンゼリーに石炭粉を混ぜ、
まつ毛を濃く見せる化粧品を作った。

 The eyes are the window to the soul
 (目は口ほどにものをいう)

その化粧品はメイベルを大きく見せ
魅力的な印象を与えた。

そしてメイベルの恋は実り
思いを寄せていた彼と結ばれたそうだ。

メイベルの恋を成就させ、
今もなお、多くの女性の恋を支える化粧品、
それがマスカラだ。

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