河田紗弥 18年4月22日放送
美しさのひみつ 〜ヨーロッパの白粉〜
エリザベス1世が生きた中世ヨーロッパでは、
肌は白ければ白いほど美しく、
か弱く不健康そうな女性が上品で美しいとされていた。
そのために食事をとらず、
体調が悪くなるように自分を追い込む人や、
血を抜いてわざと貧血状態になることで、
肌をより青白く見せようとする人もいた。
エリザベス一世も、そのひとり。
儀式のときは、白粉がしっかりと肌にのるように、
下地にはちみつを塗ってから、白粉を塗っていたと言われている。
やがてそれを真似する人があらわれ
エリザベス一世のメイクは当時の女性たちの間で流行になったが…
ハチミツが溶けるので寒い日でも暖房に近づけない。
白い肌への探究心は不健康にヒートアップしていった。
河田紗弥 18年4月22日放送
美しさのひみつ 〜美艶仙女香〜
「色の白いは、七難隠す」
江戸時代、色白が美人の第一条件だった。
当時、白粉には、鉛白粉が使われ、
水で溶いて手や刷毛でつけていた。
中でも有名だったのは、
江戸後期に発売された「美艶仙女香」
川柳に「仙女香やたら顔出す本の端」と読まれるほど、
草双紙や浮世絵の
あらゆるところに「美艶仙女香」の文字が多く見られる。
どうして、そんなPRが可能だったのか。
それは、この「美艶仙女香」の販売元が
絵入りの小説類の検閲を行う名主のひとり
和田源七だったからと言われている。
つまり、版元や作者、絵師に無言の圧力をかけられる立場を利用し、
作品のなかにタダで広告を入れたと想像できるのだ。
こうして、多くの民衆の目に触れるようになった「美艶仙女香」は、
あっという間に、江戸で話題の化粧品となった。
河田紗弥 18年4月22日放送
美しさのひみつ 〜整形〜
紀元前600年頃のインドでは、
社会的な罰として、鼻を切り落とす習慣があった。
多くの人々は、自分の切り落とされた鼻を持って
ススルタという腕利きの外科医に救いを求めたという。
そこで、彼は鼻の整形術を編み出し、
切り落とされた鼻を縫いつけたり、
額の皮膚を鼻へ移植したりする手術をした。
これが世界初の形成外科手術をいわれる。
その後、第一次・第二次世界大戦を通し、
体の一部を失った兵士の社会復帰のために、
形成外科が医療として確立された。
人のカラダを修復する治療はやがて美容整形へ発展する。
ちなみに日本はいま、美容整形の先進国だ。
河田紗弥 18年4月22日放送
美しさのひみつ 〜香水〜
ミューレンス社の創始者であるウィルヘルム・ミューレンスに
結婚のお祝いとして
ある修道士から1枚の手紙が届いた。
その手紙に書かれたレシピに基づいて作られたのが、
アクア・ミラビリス。世界初のオーデコロン。
ミューレンスはその水の製造工場を
ドイツ・ケルンのグロッケンガッセ4711番地に設立し、
販売をはじめた。
当時、フランスの占領下だったケルンに駐留したフランス兵たちが
その水の香りに魅了され
母国フランスの母親や恋人たちに送ったと言われている。
フランス語の「オーデコロン」の意味は「ケルンの水」
アクア・ミラビリスはオーデコロンとして
ヨーロッパ、そして世界へと広まっていった。
河田紗弥 18年4月22日放送
美しさのひみつ 〜ヘアカラー〜
平安時代末期、斎藤実盛は
木曽義仲を追討するため、北陸に出陣し
味方が総崩れする中、
一歩も引かずに戦い続け、討ち死した。
戦いが終わって首実検のとき
実盛らしい首はあるが
誰も実盛本人だと確認できない。
しかし、近くの池で、その首を洗ってみると
黒い髪や髭が、みるみる真っ白に変わった。
実盛はかねてから、
「60歳を超えて戦におもむくときは
髪を黒く染めて、若返ろうと思う。
白髪頭で先駆けを争うのも大人げないし
老武者と人の侮りを受けるのも口惜しい」と語っていたという。
そう、彼は戦いの前に、
白い髪の毛や髭を、墨汁で黒く染めていたのだ。
これが、日本におけるヘアカラーのはじまりと言われている。
河田紗弥 18年4月22日放送
美しさのひみつ 〜パック〜
時代が変わっても、女性の美に対する想いは変わらない。
古代ローマの女性たちは、シワやそばかす、
しみへの対策として
パックを使用していた。
特に、シワに効くというロバのミルクも効能に定評があり、
1日に7回もロバのミルクパックをするご婦人もいたのだとか。
このロバのミルク愛用者の中に、
ローマ皇帝ネロの妻ポッパエアがいる。
彼女は寝る前にロバのミルクのフェイスパックをし
全身美白のためにロバのミルク風呂に入り、
旅をするときも100頭のロバを連れて行って
ミルクに事欠かないようにしたという。
女性たちの美容への飽くなき探究心は、
尽きることがない。
厚焼玉子 18年4月21日放送
春の死 久松俊勝
久松佐渡守俊勝は徳川家康の母、於大(おだい)の
再婚相手だった。
結婚したとき、於大は19歳、俊勝は17歳だった。
30歳半ばで桶狭間の戦いがあり
それ以降は義理の息子である家康に与して戦国を生きた。
50歳のとき、義理の兄水野信元が信長に疑いをかけられ
家康によって殺害されてしまう事件があった。
このとき俊勝は大いに怒って引退してしまったというから
骨のある人物だったのだろう。
妻の於大は俊勝の死後、俊勝の菩提寺で髪をおろし
2年間その菩提を弔った。
久松佐渡守俊勝が亡くなったのは天正15年3月14日。
西暦になおすと1587年4月21日のことだった。
厚焼玉子 18年4月21日放送
ちいた
春の死 千利休
千利休の命日、利休忌は
表千家では3月27日、裏千家が3月28日に営まれるが、
実際に死んだ日の天正19年2月28日は
西暦になおすと1591年4月21日になる。
利休の死は謎に包まれている。
秀吉が利休に死を命じた原因は何か。
武士でない利休に、
なぜ武士の死にかたである切腹が命じられたのか。
利休が死んだ日、1591年の今日は
大雨が降り、風も強く、春の嵐が荒れていたそうだが、
利休の心は静かだったと思われる。
厚焼玉子 18年4月21日放送
春の死 浅野内匠頭
江戸の文化華やかなりし元禄14年の春、
江戸城松の廊下で刃傷事件が起こった。
被害者は吉良上野介吉央(よしひさ)
加害者は浅野内匠頭長矩(ながのり)
その日の午前11時40分、
加害者は被害者の後(うしろ)から切りつけ
額と背中に傷を負わせた。
これは江戸城で起こった4番めの刃傷事件だった。
午後6時10分ころ、内匠頭に切腹を告げる使者が来た。
この事件が起こったのは元禄14年3月14日。
西暦になおすと1701年4月21日である。
前日の雨と風で、桜は散っていただろうか。
厚焼玉子 18年4月21日放送
春の死 柳生十兵衛
柳生十兵衛三巌(みつよし)は
天才といわれた剣の使い手だった。
13歳で徳川家光の小姓として江戸城に勤めたが
一説によると、20歳のとき
剣術の稽古で家光を容赦なく打ち据えたために怒りを買い
謹慎を命じられた。
それから12年後、
32歳の十兵衛は書院番として再び江戸城に勤務するが
それまで何をしていたのか、
本人の言い分と記録に矛盾もあり、謎が多い。
慶安3年3月21日。
すでにお城勤めを退職して柳生に引退していた43歳の十兵衛は
鷹狩りに出かけた先で原因不明の死を遂げる。
検死をしても村人を尋問しても死因は明らかにならず、
死んだ場所も記録によって違う。
柳生藩二代目藩主 柳生十兵衛三巌は
そのとき本当に死んだのだろうか。
十兵衛の命日は慶安3年3月21日、
西暦になおすと1650年4月21日ということになっている。