厚焼玉子 18年4月14日放送
タイタニック バイオリン
1912年4月14日
沈没するタイタニックで
最後まで演奏をつづけた楽団のバンドマスターは33歳だった。
その遺体は彼が最後まで弾いていたバイオリンとともに発見され、
イングランドのふるさとに埋葬された。
バイオリンには銀のプレートがついており、
文字が刻まれていた。
「ウォレスへ 婚約の記念に マリアより」
マリアは一生結婚せずに1939年に亡くなった。
1912年の今夜、
タイタニックは氷山に衝突する。
厚焼玉子 18年4月14日放送
タイタニック 絵画
タイタニック号の処女航海のチケットNo.112050は
タイタニックを設計したトーマス・アンドリュースのチケットだった。
アンドリュースは出航前に妻に手紙を書き
「タイタニックはほぼ完璧な船だ。 明日無事に出港すれば
我々の造船所の名はますます高まるだろう」と伝えている。
4月14日の夜、
氷山に衝突したタイタニックの損傷を調べたアンドリュースは
1時間乃至1時間半で沈むことを予告し
航海士たちに救命ボートの用意を命じた。
アンドリュースが最後に目撃されたのは喫煙室だった。
彼は救命胴衣もつけずに暖炉の上の絵画を見つめていたという。
絵画のタイトルは「The Apporoach To Plymouth Harbour」
「新しい世界の接近」だった。
1912年の今夜、
タイタニックは氷山に衝突する。
厚焼玉子 18年4月14日放送
タイタニック ホイッスル
彼らは転覆して上下が逆さまになった救命ボートの上で
一晩中沈まないようにバランスを取り続けていた。
体力の限界が来ていた。
明けがたになって救助の船が見えたが、
6km先に停泊している救助船が自分たちを発見するまで
生きていられるかどうか自信がなかった。
しかし、夜がすっかり明けてみると
700mの距離に仲間のボートがいた。
おーい
声をかけたが届かない。
そのときひとりの航海士がポケットからホイッスルを取り出して
空気を裂くような音で鳴らした。
救命ボート4号と12号が近づいてきた。
ホイッスルのひと吹きで
彼らはタイタニック生存者の仲間入りをした。
1912年の今夜、
タイタニックは氷山に衝突する。
厚焼玉子 18年4月14日放送
タイタニック バクテリア
3,650メートルの深海に沈むタイタニックが発見されたのは
1985年のことだった。
タイタニック国際保護条約は
タイタニックに残されている遺品の劣化を防ぎ、
違法な回収行為からタイタニックを守る内容になっているが、
それでも売ることを目的に遺品を回収する人々は
後を絶たない。
さらにタイタニックにはもうひとつの敵がいる。
それは鉄を食べるバクテリア。
5万トンのタイタニックを餌にバクテリアは増え続けており
タイタニックはやがてバクテリアのせいで
鉄サビのカタマリになってしまうと予想されている。
1912年の今夜、
タイタニックは氷山に衝突する。
澁江俊一 18年4月8日放送
さようならと日本人
「さようなら」
私たちがいつも
何気なく使っているこの言葉は
元々「さようであるならば」という意味だった。
つまり、仕方ないことを
それでも受け入れようということ。
このような表現を
別れの挨拶に使う国は、世界でも珍しい。
百人一首の中に、こんな歌がある。
これやこの 行くも帰るも わかれては
知るも知らぬも 逢坂の関
人の世の別れを淡々と詠んだ蝉丸のこの歌は
恋の別れをテーマにしない数少ない歌として
時を超えて人々に愛されている。
切なさを受け入れる
「さようなら」の感情は
遥か昔から、日本人の心に
根づいていたのだ。
澁江俊一 18年4月8日放送
さようならの潔さ
わたしが一番きれいだったとき
自分の感受性くらい
など、
潔くも美しい詩を
数多く残した詩人、茨木のり子。
79歳で世を去った彼女が
自分の死を前に残した
最後の言葉もまた美しい。
「あの人も逝ったか」と一瞬、たったの一瞬
思い出してくだされば、それで十分でございます。
あなたさまから頂いた長年にわたるあたたかな
おつきあいは、見えざる宝石のように、
私の胸にしまわれ、光芒を放ち、
私の人生をどれほど豊かに
して下さいましたことか・・・。
この世との別れの言葉は、
できることなら、こうありたい。
澁江俊一 18年4月8日放送
父からのさようなら
小津安二郎監督「晩春」。
妻を亡くした父親が
娘を嫁に出す時の
心の機微を描いた傑作だ。
娘との最後の家族旅行。
帰り支度をする娘は不意に
嫁に行きたくないと、父に白状する。
それを諭す、父。
結婚することが幸せなんじゃない
新しい夫婦が新しいひとつの人生を
作り上げてゆくことに幸せがあるんだよ
1年掛かるか 2年掛かるか 5年先か 10年先か
勤めて初めて幸せが生まれるんだよ
それでこそ初めて
本当の夫婦になれるんだよ
晩婚や、離婚が当たり前になった
今だからこそ、じわり、心に染みる
父から娘への、別れの言葉である。
澁江俊一 18年4月8日放送
寂しさにさようなら
日本で最も
別れが似合う男は誰だろう?
それは寅さんこと、車寅次郎かもしれない。
故郷と別れ、妹とも別れ、
日本中で恋をしては、せつない別れを繰り返す。
それでも寅さんは決して
相手を恨んだり、自分を慰めたりしない。
グッとこらえて、その場を立ち去る。
人類のコミュニケーションを
無限大に増やしたSNSの世界では
今日もたくさんの別れが親指の動き1つで
加速度的に生み出されている。
その孤独に溺れそうになったら、
寅さんのこんな言葉を思い出してほしい。
寂しさなんてのはなぁ、
歩いてるうちに
風が吹き飛ばしてくれらぁ。
田中真輝 18年4月8日放送
さよならの湿度
また逢う日まで 逢えるときまで
別れのそのわけは話したくない
名曲「また逢う日まで」の、
作詞家、阿久悠は著書
「ぼくのさよなら史」の中で
こう語っている。
人間はたぶん、さよなら史が
どれくらいぶ厚いかによって、
いい人生かどうかが決まる。
人の心はいつも少し湿り気を帯びて
いなければならない。
カラカラに乾いていては味気ない。
人の心には、さよならによって
湿りが加わるのである。
阿久悠の歌は、それが底抜けに
明るい歌であっても、いつも少し湿っている。
湿っているからこそ、乾いた心に深く、
染みていくのかもしれない。
田中真輝 18年4月8日放送
おまじない
だいせんじがけだらなよさ
このおまじないのような言葉は、
寺山修司がカルメン・マキのために書いた
曲のタイトル。
さかさまに読むと、
「さよならだけがじんせいだ」。
井伏鱒二が唐の時代の「勧酒(かんしゅ)」という
詩を訳した、その中にこの言葉はある。
幼い頃父を亡くし、12歳で母とも生き別れに
なった少年、寺山修司は、この言葉をさかさまに
して、おまじないのように、何度も唱えながら、
孤独に耐えていたという。
だいせんじがけだらなよさ
だいせんじがけだらなよさ
唱えるたびに、むしろ孤独感が強まるような、
そんな気がしてしまうのは、わたしだけだろうか。