佐藤延夫 18年3月3日放送

180303-01

逆境を生きる クロード・モネ

印象派を代表する画家、クロード・モネは、
晩年、目の病に悩まされた。
83歳のとき、白内障で失明の危機に陥ったが、
3度の手術で視力を取り戻した。
一般的に、白内障の手術をすると
青系の光が網膜に多く達するように感じて
青白い世界に見えるそうだ。
たしかに、このころの睡蓮は青みが増している。
さらに晩年になると、
輪郭がぼやけ、全体的に黄色がかった色彩に変わった。

光の魔術師と呼ばれる巨匠は、
自らの光に対しても、真摯に立ち向かった。

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佐藤延夫 18年3月3日放送

180303-02

逆境を生きる ポール・セザンヌ

近代絵画の父、ポール・セザンヌを
20年近くも苦しめたのは、糖尿病だった。
51歳のとき、その兆候が現れたが、
セザンヌは、アトリエのある山小屋まで毎日歩き、
質素な食事を心がけた。
この運動療法と食事療法が、
症状の悪化を食い止めたと言われている。
しかし晩年は、糖尿病の影響で
神経痛や目の病気も患っていた。
それでもセザンヌは、こんな言葉を残している。

「私は毎日進歩しつつある。私の本領はこれだけだ。」

糖尿病の治療に役立つインスリンの抽出に成功したのは、
彼が亡くなって15年後のことになる。

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佐藤延夫 18年3月3日放送

180303-03

逆境を生きる エドガー・ドガ

印象派の巨匠、エドガー・ドガの作品は、
室内を描いたものが多い。
目の病気に悩まされていたのも、その理由に挙げられる。
普仏戦争に従軍した際、
寒さに目をやられ、まぶしがり症を患った。
36歳のとき目の焦点が合わなくなり、
40歳で右目の視力を失う。
晩年はほとんど何も見えなかったそうだ。
しかし彼は、薄れゆく視界の中で、
恐怖に苛まれながら、何かを掴んだのだろう。
のちに、盟友であるルノワールはこんな言葉を残している。

「ドガが真のドガとなったのは、50歳以降だ。」

芸術は、心でつくられる。

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佐藤延夫 18年3月3日放送

180303-04

逆境を生きる ピエール・ルノワール

フランス印象派の画家、ピエール・ルノワールは
リウマチと闘っていた。
47歳のとき、この原因不明の病は、
両手両足の痛みを伴い、彼の体に押し入った。
関節炎と診断され、リハビリで回復した数年後、
サイクリング中の事故で右腕を骨折。
関節リウマチの病状を加速させることになった。
手足の硬直や、顔面神経痛。
70歳を過ぎると車椅子に座ったまま作品に向かった。
場合によっては、筆を手に縛り付けることもあったという。
だが、たとえ健康を犠牲にしてでも創作意欲が尽きることはなかった。
それはルノワールの言葉が表している。

「痛みはいつか消えるが、美は永遠に残るじゃないか。」

芸術家としての、生き様があった。

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佐藤延夫 18年3月3日放送

180303-05

逆境を生きる フランシスコ・デ・ゴヤ

スペインの宮廷画家、フランシスコ・デ・ゴヤ。
46歳のとき、強烈なめまい、腹痛、発熱、衰弱、難聴など
悪夢のような症状に見舞われた。
メニエール病や原田病、脳の感染症などの病気が疑われたが、
原因もはっきりしないまま、聴力を失った。
しかし、ゴヤの代表作の多くは、
それ以降に描かれている。
晩年には、目も見えなくなり、
書くことも読むこともできなくなっていたそうだ。
彼は言う。

「絵画とは、全て犠牲と決断である。」

その覚悟は、心に響く。

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熊埜御堂由香 18年2月25日放送

180225-01
jackyczj
喫茶の話 村上春樹のジャズ喫茶

村上春樹は小説家になる前、ジャズ喫茶を数年営んでいた。
窓のない地下の静かな店だった。

村上は店を開いた時の想いをこう語った。

 小さな店でもいいから、自分ひとりで
 きちんとした仕事をしたかった。

喫茶店という空間は、その店主だけが生み出せる
特別な時間が流れている。

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熊埜御堂由香 18年2月25日放送

180225-02
Shin Takeuchi
喫茶の話 狭山茶の歌

日本三大茶とも言われる埼玉県入間市の名産、狭山茶。
大正時代から製造を続ける新井園本店には
小さなカフェが併設されている。
狭山茶で、地元のひとの合間の
空き時間を豊かにしたい。
そんな想いで始めた。

 色は静岡、香りは宇治よ、味は狭山でとどめさす。

とお茶摘みの女性たちが
収穫の合間に歌いながらお茶を育ててきた。
その甘く濃厚な味わいは、
地元の味を誇りに想う気持ちに、今も支えられている。

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石橋涼子 18年2月25日放送

180225-03
Querfeld GesmbH
喫茶の話 ツヴァイクとウィーンのカフェ

2011年に、ユネスコの無形文化遺産に登録された
ウィーンのカフェ文化が花開いたのは、19世紀後半だ。

その頃のカフェには、政治家から、音楽家、
演劇家、芸術家、文学者など、様々な種類の人が集った。
逆に言えば、集う客の種類によって、
その店の個性が育まれたとも考えられる。

例えば、
建築家アドルフ・ロースが設計したカフェ・ムゼウムは
画家のクリムトを始めとする芸術家や建築家たちが集まり、
新しい時代のデザインについて語り合った。
ブルク劇場のそばにあるカフェ・ラントマンは、
役者や政治家が多く集い、
エレガントな雰囲気を売りにした。

当時のウィーンで裕福なユダヤ人家庭に生まれ、
後に亡命せざるを得なくなった作家のツヴァイクは
後年、若かりし頃のウィーンの文化を回想して、こう語る。

 あらゆる新しいものに対する最良の教養の場は、
 常にカフェであった。

コーヒーと共に、多くを学べる場でもあった
19世紀末のウィーンのカフェからは、
ウィーン分離派や合理主義、青春ウィーン派など
多くの文化が巣立った。

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石橋涼子 18年2月25日放送

180225-04
nicocarver
喫茶の話 トルコ・コーヒーの価値

水から煮たてたコーヒーの、上澄みだけを飲む
トルコ・コーヒーを、ご存知だろうか。

トルコで一般的な飲み物と言えばチャイだが、
おもてなしの際にふるまわれるのは、トルコ・コーヒーだ。
美味しいトルコ・コーヒーは、
つくるのに手間と時間がかかるのだ。

トルコには、こんな古いことわざがある。

 一杯のコーヒーには40年の思い出がある。

それだけの想いを込めて淹れているとも、
その味はずっと記憶に残るとも、解釈できる。

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薄景子 18年2月25日放送

180225-05
KathrynW1
喫茶の話 ヘンリー・ジェイムスの言葉 

英国で生まれた午後の優雅な喫茶習慣、
アフターヌーンティー。

ふわりと立ち上る高貴な香り。
紅茶とともに、サンドイッチやスコーンを
2、3段重ねのティースタンドにのせて楽しむ
上流階級文化の精髄である。

かつてイギリスでは、1日2食が主流だったため
小腹を満たすために始まった習慣らしい。
上流階級の女性たちにとって、
夕方は観劇やオペラを楽しむ社交タイム。
夕食前の空腹を紛らわすのにちょうどよかったことも
広まった理由だとか。

そんなアフターヌーンティー文化に
魅せられた小説家、ヘンリー・ジェイムスは
こんな言葉をのこしている。

 午後のお茶という名で知られる儀式に
 費やされる時間ほど、
 心地よい時は人生でそうたくさんはない。

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