仲澤南 18年2月17日放送
add.me
作家の朝食 池波正太郎
神田駿河台に建つ小さなホテル、山の上ホテル。
ここでしか食べられない、特別な朝食があるのをご存知だろうか。
一口か二口で食べられるほどのおかずが11種類も並ぶ、
なんとも贅沢な和のお膳だ。
実はこの朝食を提案したのは、
『剣客商売』や『鬼平犯科帳』で知られる作家、
池波正太郎。
80年代後半のこと、
当時の料理長に池波が
「いろいろなものを少しずつ食べたい」
と要望したのがきっかけだった。
池波はこの朝食を肴に、ビールを嗜んでいたという。
連日徹夜で執筆していた彼にとって、
仕事終わりに食べるこの朝食は、
疲れを癒す、至福の時間だったのだろう。
原央海 18年2月11日放送
有吉弘行 忖度
「忖度」。
そんな言葉が、2017年の流行語大賞に選ばれた。
辞書を引くと、「他人の気持ちをおしはかること」と書いてある。
なんとも日本人らしい流行語だ。
同じく2017年、テレビを点ければ見ない日はない男がいた。
「有吉弘行」。
彼の人気の理由は、まるで「忖度しない物言い」だろう。
忖度の時代に、忖度しない人気者。
彼はこう言う。
余計な言葉を抜きにして
ストレートに物事の核心に迫る。
内輪で言うような言葉を外に向けることで、
相手の心の中に飛び込めて
人間関係がうまくいく場合もあるんです。
他人の気持ちをおしはかるだけが
コミュニケーションではないことを、彼は教えてくれる。
原央海 18年2月11日放送
seeveeaar
有吉弘行 反省
有吉弘行。
彼の人気は、日本テレビ「進め!電波少年」でのヒッチハイク旅から始まった。
ピークだった頃は、まったく休み無し。
毎日何本も仕事をこなし、
移動は事務所から用意された専用の「猿岩石カー」。
あまりにもファンが駅のホームに殺到し、
新幹線を何度か止めたこともあるほどだ。
当時の自分が「どこか天狗になっていた」と彼は認める。
酒臭いまま現場に向かい、スタッフに生意気ばかり言っていた有吉は、
当時のことを振り返り、こう反省する。
そういうときに、
「忙しいんだから」っていう理由は成り立たないんですよね。
「忙しいのはお前らだけじゃないよ」っていう。
よく、「忙しいから」って理由にしがちですけど、
そこは気を付けたほうがいいです。
僕はそれで失敗したんで。
追い詰められた時ほど、人間は試されている。
原央海 18年2月11日放送
有吉弘行 給料
有吉弘行。
猿岩石フィーバーだった時代は、
給料も、文字通り「桁違い」だった。
それまで月々5万円だったのが、固定給で月100万円。
さらにはCDやCM、本の印税が重なり、
1番多く貰った時で、月2000万円は貰っていたという。
しかも当時、所属する太田プロは、
ギャラが振り込みではなく、手渡し。
相方と合わせて4000万円の分厚い札束を目前にしたという。
4000万円。どれほどの贅沢ができるのだろう。
しかし彼は意外にも、
こんなことを考えていたそうだ。
僕は昔からいつでも「自分はこの先どうなるかわからない」
と思いながら生きてました。
猿岩石でアイドル並みの人気だったときにも、
「こんな人気続くわけがない。自分たちの実力ではない。」
って結構冷静に考えてました。
だから「いつ人気が落ちて仕事がなくなるかわかんないから金貯めとこう。」
って貯金していたんです。
「身の丈より一個下の生活をする」ことが大事だと彼は語る。
毒舌なイメージからは想像もつかないほど、慎重な生き方。
ただ、そのお金をもとに、
彼はその後何年にも及ぶ給料ゼロ生活をギリギリ乗り越えていく。
結局、未来の自分を救うのは、
過去の自分自身なのだ。
原央海 18年2月11日放送
有吉弘行 改名
有吉弘行。
「猿岩石」というコンビで名を知られた彼だが、
まったく仕事がなくなったどん底時代、
実は一度「猿岩石」を改名したことがあった。
その名も、「手裏剣トリオ」。
「2人なのに“トリオ”ってところにみんな喰いつくはず!」
そんな考えから変えてみたものの、結局やっぱり、鳴かず飛ばず…。
たまに地方局に呼ばれて「手裏剣トリオ」を名乗っても、
テレビ局の人からは、こんな風に言われる始末。
「“手裏剣トリオ”で出られても誰もわかんないんで、
ウチの番組では“猿岩石”で出てください。」
なんとも中途半端な改名状態。
結局仕事も全然増えず、
自然にそ~っと「猿岩石」に戻したそうだ。
原央海 18年2月11日放送
AJ Kelman
有吉弘行 未来
有吉弘行。
彼の猿岩石人気が終わり、仕事がなくなってからは、
7、8年間は月収一桁、給料ゼロの時もあったという。
事務所の先輩からご飯を奢ってもらうことになっても、
「僕、食べなくてもいいですから、僕の分現金でください」
なんて言ってしまう始末。
とにかくお金がなかった頃、
ホームレスになることも、本気で覚悟したそうだ。
そんな低迷期を味わった彼は、
リストラや派遣切りがいつ自分の身にふりかかるか
分からない現代のサラリーマンに、こう言った。
「自分は大丈夫だ」とか、「ウチの会社だけは安心だ」とか、
絶対にそんなこと想っちゃいけないんです。
10年後に会社があるかどうかなんてわからないんですから。
10年後に家があるかどうかなんてわからないんですから。
気が付いたらホームレスかもしれませんから。
安定が確保されているなんて、もう過去の話。
未来のことで既に決まっていることは、
「まだ何も決まっていない」ということだけかもしれない。
原央海 18年2月11日放送
Matthew Black
有吉弘行 転換期
有吉弘行。
彼がドン底から這い上がっていった時期、
心の中で、こう決めていたそうだ。
「女性にモテたいという気持ちは辞めて、
同世代の男、一点集中でいこう!男が面白いと思ってくれるなら何でもいいや。」
だからテレビ朝日「内村プロデュース」に出演する時も、基本は裸。
人気絶頂期には考えられない姿である。
しかし、そこから有吉の人気が復帰し始める。
街で声をかけられる時も、猿岩石時代は「感動しました!」だったのが、
男の人からの「面白いですよね!」へと変わっていく。
彼の言葉を借りるなら、こうだ。
世の中、何がきっかけになるか分かりませんよね。
「内村プロデュース」に出て裸になって、仕事が来るようになったっていう。
僕自身はそれで仕事が増えるなんて考えてなかったんで。
そう考えると、「結局世の中、“運”だよな」って思うんですよ。
実力じゃねーな、運だけだなって。
原央海 18年2月11日放送
有吉弘行 キープ
有吉弘行。
どん底から抜け出した彼は、
給料も少しずつ増えていき、月収30万にも届いてきた。
給料ゼロの時代も過ごした彼は、
「30万あったら俺、無敵だ!」とも感じたそうだ。
しかし、ここで思わぬ壁にぶち当たる。
「毎月30万の給料をキープしよう」と思っていると、
給料がどんどん減っていってしまったという。
「キープ」と思った瞬間、そこから欲が出ない。
守りに入り、「この番組だけやってりゃいいや」とか、
「他に呼ばれなくてもいいや」と思ってしまう。
他の番組スタッフとも付き合わなくなり、人脈も増えなかったそうだ。
そんな苦い経験をした彼だからこそ、こんな言葉が出てきた。
守りに入っちゃダメなんですよね。
ちょっとぐらい欲出さないと、
現状から落ちていくんですよ、確実に。
これは、すべてのビジネスマンにも当てはまる話かもしれない。
原央海 18年2月11日放送
有吉弘行 理想
有吉弘行。
今や年間テレビ番組出演本数が400を越え、
芸能界トップクラスの人気ぶりを誇る彼だが、
もともとの理想はどこに置いていたのだろうか。
ちょっと意外な例え話を使いながら、彼はこう言っていた。
僕の理想をいえば「芸能界の窓際族」になりたいですね。
特にゴールデンに出たりすることもなく、
深夜番組とか、誰も見てない仕事とかして、
それでもなんか収入はちゃんとあるよなっていう状況が理想です。
そのほうが長く生きられると思うんですよね。
最終的には、名誉なんかより金ですから。
この発言、実は約7年前。
その頃とは、人気も忙しさも大きく変わった。
今の彼は、何を思っているのだろう。
今の自分を、どう感じているのだろう。
あの頃から理想は変わりましたか、有吉さん。
川野康之 18年2月10日放送
浜口庫之助が産んだ歌
ラテンバンドを結成して『紅白歌合戦』にも出場した浜口庫之助。
しかし何かが物足りなかった。
自分が本当に歌いたい曲がないことに、ふと気がついた。
「よし、それなら僕は作る方にまわろう」
歌手をやめて、作曲家をめざした。
お金はなかったが、歌を作るのは、自由で、楽しかった。
最初の曲が生まれた。
僕の恋人 東京へ 行っちっち
僕の気持ちを 知りながら
なんで なんで なんで