川野康之 18年2月10日放送

180210-02

浜口庫之助が産んだ歌

「音楽家は人生のラッパ手だ」と、浜口庫之助は言う。
大衆の気持ちを、生活の最前線に立って、わかりやすい言葉で歌にして吹いていく。
その歌の中には、生きている人間そのものがいる。
かっこつけない気持ちが歌になる。

 愛しちゃったのよ 愛しちゃったのよ
 あなただけを 死ぬ程に

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川野康之 18年2月10日放送

180210-03

浜口庫之助が産んだ歌

こんなことが歌になるのか。こんな小さなことが。
多くの人が驚いた。
どんなことでも歌っていいんだ。
それは日本人が新しい自分たちの音楽を手に入れた瞬間だったかもしれない。
この曲の後にフォークソング時代がやってくる。

 バラが咲いた バラが咲いた まっかなバラが
 淋しかった僕の庭に バラが咲いた

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川野康之 18年2月10日放送

180210-04

浜口庫之助が産んだ歌

作曲家とは歌を産むニワトリである、と浜口庫之助は語っている。
「僕を感激させるものに出会ったとき、僕は歌を産む」
生まれた歌は、人の耳に入ると、その人の心の中に生きる。
出会いと別れ。生と死。
ハマクラ・メロディーは人の一生の中で輝き続ける。

 恋は短い 夢のようなものだけど
 女心は 夢をみるのが好きなの

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川野康之 18年2月10日放送

180210-05

浜口庫之助が産んだ歌

浜口庫之助と出会って恋をして、結婚を決意する前。
真弓夫人は周囲の猛反対に会い、自分自身もぐらついたという。
何しろ、二人は27歳も離れていたのだ。
そんなとき、庫之助から眞弓に手紙が届いた。
便箋に楽譜が1行だけ書いてあった。

 ミファミドミー
 (愛してる)

真弓の気持ちは決まった。

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大友美有紀 18年2月4日放送

180204-01

「カオス トゥ クチュール」ヴィヴィアン ウエストウッド 私がやりました

ファッションデザイナー、パンクの女王、
ヴィヴィアン ウエストウッド。
学生時代、食事の時間、
先生がお喋りしていた生徒は立つように命じた。
ヴィヴィアンは、しゃべってもいないのに
「わたしです」と立ち上がった。

 名乗り出たことをほめられるんじゃないかと
 思ったの。案の定、先生はほめてくれたわ。

 
ヴィヴィアンは他の子も立ち上がると思ってた。
でも名乗り出たのは彼女だけ。
その時、自分が変わり者だと自覚した。
自ら危険にとびこもうとするところがある。
二度とこんなことはしない。
でも、そうはいかなかった。

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大友美有紀 18年2月4日放送

180204-02
CucombreLibre
「カオス トゥ クチュール」ヴィヴィアン ウエストウッド キリスト像

ファッションデザイナー、パンクの女王、
ヴィヴィアン ウエストウッド。1941年生まれ。
今年77歳。最近は環境保護活動にも力を入れている。
5歳のとき、生まれて初めてキリストの磔の像を見た。
キリスト誕生のことは知っていた。
釘で十字架に磔にされたことは知らなかった。

 世の中にあんなひどいことをできる人間が
 いるなんて信じられなかった。
 自分なら絶対人にやらせないし、
 自分にやれと言われたら命を絶つだろう。

 
ヴィヴィアンは自分の反応が特別だったことはわかっていた。
でも、世の中には悪意に満ちた人がいることを知り、
そうなりたくないと思っている自分に気づいた。

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大友美有紀 18年2月4日放送

180204-03
Sulgenau
「カオス トゥ クチュール」ヴィヴィアン ウエストウッド 美術学校

ファッションデザイナー、ヴィヴィアン ウエストウッドは、
第2次世界大戦後のイギリスで10代を過ごした。
当時、ヴィヴィアンが通っていた学校で
女の子が思いつく職業は4つしかなかった。
教師か美容師か看護師か秘書。
そんな時代、美術のベル先生との出会いがヴィヴィアンの人生を変える

 ベル先生と出会うまでわたしは美術館というものがあるなんて
 知らなかった。絵画の図録だって一度も見たことがなかった。
 先生がマンチェスターに美術館があることを教えてくれたの。
 もちろん画家のことは知っていたわよ。
 ミケランジェロとか。でもそういうものは個人が所蔵しているか
 教会にあるものだと思ってた。

先生は、ヴィヴィアンにスケッチをさせ、印象派の画法を教え、
スーラの点描画を見せた。無難な絵を描こうとしちゃダメとも教えた。
ヴィヴィアンはのびのびと自由に絵を描いた。
彼女が洋服のスケッチを描いていたとき、ベル先生は
才能があると言い、美術学校に進むべきだとアドバイスした。

そしてヴィヴィアンは、ハロー美術学校の試験を受け、合格した。

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大友美有紀 18年2月4日放送

180204-04
themostinept
「カオス トゥ クチュール」ヴィヴィアン ウエストウッド 弟の友だち

ヴィヴィアン ウエストウッドはハロー美術学校でたくさんのことを学んだ。
けれどすぐに学校を辞めてしまう。
芸術家として食べていけるはずがないと思い込んでしまった。
お金を稼げる仕事につくために学校に入りなおし、教師となった。
そして結婚し、子どもを授かり、離婚する。
ヴィヴィアンは実家に戻り、子育てをしながら働いていた。
弟の部屋には友だちがよく遊びにきていた。
それがマルコム マクラーレンだった。

 マルコムに会って、わたしは恋に落ちた。
 素敵な人だと思った。
 ハチャメチャなところがあったけれど、
 それでも彼のことをもっと知りたいと思っていた。

 
この出会いが、この二人が、パンクを誕生させることになる。

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大友美有紀 18年2月4日放送

180204-05
brizzle born and bred
「カオス トゥ クチュール」ヴィヴィアン ウエストウッド パンク

 わたしとマルコムがいなければパンクは決して生まれなかった。
 そして、もうひとつ知っておいてほしいのは、
 パンクとは完全なる爆発であること。

始まりはキングス・ロード430番地の知り合いの店だった。
マルコムは50年代のロックンロールのレコードを売っていた。
ヴィヴィアン ウエストウッドは50年代のスーツのレプリカを作って売った。
やがてアレンジを加えたTシャツを売りはじめる。
マルコムは音楽とアートが共存する場がファッションだと言った。
古いものを壊して新しいものをつくる。思想としてのファッション。
ヴィヴィアンは、Tシャツにチェーンやジッパーをつけ、
タバコで焦げ目をつけ、過激な図案や扇動的な文章をデザインした。
Tシャツは、カンバスだった。性と政治と芸術が出会う場所だった。

 当時のわたしの仕事は、そしてわたしが常にやってきたのは、
 体制と対峙して、自由はどこにあり、
 自分にはなにができるかを模索することだった。
 その取り組みを一番わかりやすく実践できたのが、
 Tシャツづくりだった。

閉塞的なムードに包まれていた当時のイギリスにとって、
憤怒と非道と怠惰が融合した表現は、若者たちの心に何かを訴えかけ、
やがてパンクとなっていった。

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大友美有紀 18年2月4日放送

180204-06

「カオス トゥ クチュール」ヴィヴィアン ウエストウッド セックス・ピストルズ

マルコムとヴィヴィアンが生み出す
体制に対抗するアナーキー思想のファッションは
若者をとりこにした。
さらにマルコムは、音楽をセックス・ピストルズを
通じて体制をぶっ壊そうとしていた。
ヴィヴィアンは創作活動を通じてメッセージを伝えることに夢中になった。

 当時わたしがアナーキーの活動を支持したのは、
 若者たちに物事に立ち向かう勇気を与えられると
 思ったからよ。

反社会的なメッセージを込めた扇動的なファッションと音楽は
パンクという現象を生み出した。
その時、確かにカルチャーの潮目が変わった。

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