小野麻利江 17年10月29日放送

171029-07
kirainet
写真のはなし 「アラーキー」の撮り方

「アラーキー」の愛称で知られる
写真家・荒木経惟(あらきのぶよし)にとって、
写真は、被写体に向けた
ラブレターのようなもの。

だから、自分がどう感じたか、
どう見たかを、わかってもらいたい。
現像して誰かに見せるまでが
写真なんだ、と語る。

写真を撮る。その一瞬で、
相手と濃厚な関係性を生み出す。
そんな「天才」アラーキーは、
こんな言葉も吐いていた。

 オトコならオンナを撮れ。
 かっこつけて空とか街とか撮るな。
 ちゃんと隣にいる女の子を撮れ、だよ。

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熊埜御堂由香 17年10月29日放送

171029-08
HAMACHI!
写真のはなし ハービー山口のシャッターチャンス

写真家、ハービー山口。
病気を患い、内向的だった彼が、
カメラという武器を手に入れたのが、中学2年生の時。

シャッターを切るたびに、自分が救われていく。
そんな感覚がやみつきになった。

彼の写真で特徴的なのは人の顔。
人の顔が世の中で一番美しく、ドラマチックだと語る山口は、
シャッターを切る、その瞬間を、彼らしい言葉で、こう表現する。

「君の…心のピントを僕に合わせて…!」

 ずっと、ずっと写真少年、少女のままでいい。
 そんなときめきがシャッターモーメント。

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三島邦彦 17年10月28日放送

171028-01
Arturo Espinosa
よりよき世界の破片たち ミヒャエル・エンデ

この作品で伝えたいメッセージは何ですか?

作家や映画監督をはじめ、
あらゆるアーティストを悩ませるこの質問。

『モモ』や『はてしない物語』で知られる
小説家ミヒャエル・エンデは、
作品の意味を問う大人の読者からの手紙にこう答えた。

 よい詩とは、世界をよりよくするためにあるのではありません。
 その詩そのものが、よりよき世界の破片(かけら)なのです。

 
そこにあるものを、丸ごと味わうこと。
エンデの本の最も熱心な読者である子どもたちには
自然とできていることかもしれません。

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三島邦彦 17年10月28日放送

171028-02

よりよき世界の破片たち オスカー・ニーマイヤー

ブラジルの高級住宅街。
広い庭で空想のスケッチを
楽しんでいた少年はやがて、
104歳まで現役を貫いた伝説の建築家となった。

オスカー・ニーマイヤー。
若き日に現代建築の巨匠ル・コルビジェとともに設計した
国連本部ビルをはじめ、
首都ブラジリアの都市計画など、
その100年を超える人生、
80年を超える建築人生は、
最後まで情熱が絶えることはなかった。

『ニーマイヤー 104歳の最終講義』
という本で、彼は人生についてこう語る。

 人生は一瞬だ。
 それゆえに私たちは学ばなければならず、また、
 礼儀正しくそこを通過しなければならない。

誰よりも学び、誰よりも礼儀正しかった建築家。
そして、その生涯を終えるまで
空想のスケッチを楽しむ心を
忘れなかった人だった。

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中村直史 17年10月28日放送

171028-03
whologwhy
よりよき世界の破片たち 橘曙覧

江戸時代に生きた歌人、
橘曙覧(たちばなのあけみ)。

短歌の伝統といえば、
花鳥風月を歌に詠むこと。
けれど橘曙覧は、
日々の何気ない「たのしみ」を歌にした。

 たのしみは妻子(めこ)むつまじくうちつどひ頭(かしら)ならべて物をくふ時
(たのしみは、妻と子が仲良く集まり、頭をならべてごはんを食べる時)

 たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時
(たのしみは、朝起きて、昨日まで咲いてなかった花が咲いているのを見た時)

 たのしみは心をおかぬ友どちと笑ひかたりて腹をよるとき
(たのしみは、気がねない友だちと語り、笑いあって、お腹をよじるとき)

何百年もたって、インターネットにAIと
社会はずいぶん変化したけれど、
人が「いいなあ」と思う対象って、
そんなに変わらないのかもしれません。

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三國菜恵 17年10月28日放送

171028-04

よりよき世界の破片たち 伊藤菜衣子

注文の多い夫と暮らして
日々のありかたを模索するうちに、
これは冒険なんじゃないかしらと気づいた。

暮らしかた冒険家・伊藤菜衣子(いとうさいこ)。
これまでの暮らしの常識を見直し、
これからの暮らしかたとは何かを探っている。

夫婦で住む場所を探す旅にでて、
たどりついたのは北海道の地だった。
DIY を繰り返していくうちに、断熱性と気密性の高い、
リノベーションハウスができあがった。

2040年には、日本の40%が空き家になる。
「ないものねだりより、あるものみっけの暮らしかた」
そういう感覚がこれからきっと大事になると伊藤は語る。

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三國菜恵 17年10月28日放送

171028-05
zacktionman
よりよき世界の破片たち 森栄喜

LGBTという言葉がうまれるずっと前から、
男と男の愛情も、女と女の愛情も、普遍的にそこにあった。

でも、いまの自分はまだセクシャルマイノリティ。
そう公言する写真家・森栄喜(もりえいき)は、
写真を通じて、家族とは何か、恋人とは何か、
社会に問いを立ててきた。

森は、時に、街の人にもシャッターを押してもらう。
ウエディングドレスを思わせる
白い衣装に身を包んだ男性二人を、
商店街の通りすがりの、老夫婦が撮る、小学生が撮る。

そこには森と、パートナーの、くったくのない表情がきざまれる。
世界が変わることは、私達が変わることだと、その作品は教えてくれる。

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河田紗弥 17年10月22日放送

171022-01
Pedro
文房具のあれこれ 〜鉛筆〜

エリザベス王朝時代の1564年。
イギリスのボローデル山で、黒いかたまりのようなものが発見された。
その黒いかたまりが、現在の鉛筆の芯の原料となる黒鉛だ。

はじめ、人々は黒鉛そのものを手に持って、文字や絵を書いていたが、
手が汚れて使いづらかったため、
木に挟んだり、布で巻いたりして、使うようになった。

こうして、多くの人々が黒鉛を使うようになった結果、
約200年後には、ボローデル山から黒鉛が姿を消してしまった。

そこで、ニコラス・コンテとカスパー・ファーバーは
他の山からとれる黒鉛を細かい粉にし、粘土と混ぜ、焼き固め、
見事に鉛筆の芯をつくりあげたのだ。
また、黒鉛と粘土の割合を変えることで、
芯の濃さを変えることができることも発見した。

黒鉛の使う量を減らすために、生まれたこの方法。
使い勝手も、書き心地も、以前の方法よりよかったため、
今でも、鉛筆の芯は、この方法を基本に作られている。

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河田紗弥 17年10月22日放送

171022-02

文房具のあれこれ 〜シャープペンシル〜

1838年、
アメリカ人のキーランが「エバーシャープ」という名で
シャープペンシルを発表した。
当時は、ネジのついた棒を回して、中の芯を押し出すタイプのものであった。

日本に、はじめて輸入されたのは1877年。
1915年には、日本製のシャープペンシルが発売されたが、
芯の太さが1mmもあり、高価であったため、一般には広がらなかった。

1960年に、国内メーカーが
現在最も多い形であるノック式のシャープペンシルを発売し、
その2年後には、芯の太さが0.5mmのタイプを発売すると、
瞬く間に、多くの人々に使われるようになった。

0.5mmの芯は、
画数の多い漢字を使う日本語にぴったりの細さだったのだ。

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河田紗弥 17年10月22日放送

171022-03

文房具のあれこれ 〜ボールペン〜

ボールペンは、
1884年にアメリカのジョンラウドが発明したと言われている。
しかし、彼が発明したものは、インク漏れがひどく、
とても文字を書けるようなものではなかった。

その後、新聞の校正に携わっていたハンガリー人のラディスラオ・ピロが
新聞印刷に使われるインクが素早く乾き、
紙が乾いたまま保たれ、滲みもないことに気がついた。

最初はそのインクを万年筆に入れて試したが、
粘性が強すぎたため、ペン先までインクが伝わらなかった。

そこで、彼は化学者であった弟ジョージとともに、
回転するボールを使ってインクを誘導するという
現在のボールペンの原型を1943年に完成させた。

日本にボールペンが入ってきたのは、
第二次世界大戦後、
進駐してきた米軍が持ち込んだことがきっかけだ。
これを手にいれた製造者らが、生産を開始し、
1947年には国産のボールペンが出回るようになっていたという。

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