河田紗弥 17年10月22日放送

171022-04
Pedro
文房具のあれこれ 〜付箋〜

1969年、アメリカの科学メーカー3Mに、
ある一つの失敗作が生まれた。

研究員スペンサー・シルバーは、
強力な接着剤を開発しようとしている最中に、
非常に弱い接着剤を作り出してしまった。

当初、この弱い接着剤は用途が見つからなかったが、
1974年に、3Mの研究員アーサー・フライが
本のしおりに応用できないかと思いついた。

1977年には試作品が完成し、
大企業の秘書課に配られた試供品が好評を博し、
1980年の全米販売につながった。

そう、これが
ポストイット誕生の瞬間だ。

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佐藤理人 17年10月21日放送

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Pedro Netto
カラー・オブ・ジャズ 「ブルー」

マイルス・デイビスの最高傑作のひとつ、

 「カインド・オブ・ブルー」

彼はこのアルバムのピアニストに、
バンドメンバーのウィントン・ケリーではなく、
ビル・エヴァンスを起用した。

がっかりしたケリーは、
トランペッターのブルー・ミッチェルと組んで、

 「ブルース・ムーズ」

というアルバムを作った。

最先端をいくマイルスの、
クールなサウンドとは真逆の熱いハードバップ。
それは憂鬱の青ではなく、カラッと晴れた空のブルー。

このアルバムはミッチェルの最高傑作となった。

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佐藤理人 17年10月21日放送

171021-02
Brianmcmillen
カラー・オブ・ジャズ 「レッド」

ジャズは難しそうでちょっと苦手。

もしもあなたがそう思うなら、
レッド・ガーランドのピアノを聴いてほしい。

ビートにのった左手のブロックコードと、
メロディーを奏でる右手のシングルトーン。
シンプルな技でコクのあるジャズを聴かせてくれる。

そのわかりやすさは時に

 カクテルピアノ

と揶揄されたが、ガーランドは決して
自分のスタイルを変えようとはしなかった。

シンプルということは、裏を返せば、
演奏のアラが目立つということ。

だが、彼のアルバムに駄作は一枚もない。

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佐藤理人 17年10月21日放送

171021-03
andjustinforall
カラー・オブ・ジャズ 「ブラック」

アルバム「ブラックレディオ」でグラミー賞の
最優秀R&Bアルバムに輝いたジャズ・ピアニスト、
ロバート・グラスパー。

ジャズ、R&B、ヒップホップ。ジャンルの垣根を
彼ほど巧みに飛び越えるミュージシャンはあまりいない。

情報のスピードが加速する今、人々の集中力はすごく短い。
音楽も時代の変化に適応すべきだ、と彼は言う。

 ジャズは過去の歴史に囚われすぎて、
 お互いをコピーしあってばかりいる。
 僕はそれを変えたいんだ。

グラスパーが好きな音楽、
それはみんなが聞きたい音楽だそうだ。

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佐藤理人 17年10月21日放送

171021-04
Brian McMillen
カラー・オブ・ジャズ 「イエロー」

西洋音楽の楽器と理論。アフリカ音楽のリズムとスタイル。
それらがひとつになって生まれた、ジャズ。

日本人にもっとも縁遠いこの音楽で、
世界中から尊敬される日本人がいる。

 秋吉敏子

1956年、日本人で初めてバークレー音楽院に入学。

1973年には夫のルー・タバキンとビッグバンドを結成。
ジャズと日本古来の和楽を融合した

 「ロング・イエロー・ロード」

で大ヒットをとばす。

以後、彼女は14回ものグラミー賞ノミネートや
日本人初の国際ジャズ殿堂入りなど華々しい活躍を続ける。

しかし2003年、30年間続けたバンドを突如解散する。
その理由は、

 一人でもっとピアノを練習したいから

だった。

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佐藤理人 17年10月21日放送

171021-05

カラー・オブ・ジャズ 「グリーン」

同じフレーズの繰り返しは気持ちがいい。

その事実に初めて気づいたジャズ・ギタリスト、
グラント・グリーン。

複雑なテクニックやフレーズに走る
他のミュージシャンとは異なり、
彼は心地よい単音のフレーズを延々と繰り返した。

 反復の快感

それは後のソウルやファンク、ヒップホップなど、
クラブミュージックに通じる偉大な発見であった。

物事に対して常にオープンで柔軟だったグリーン。
彼は自分をジャズ・ギタリストだと思っておらず、
いつもR&Bばかり聴いていたという。

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奥村広乃 17年10月15日放送

171015-01

ニーチェ 膨大な時間

173年前の今日は、
哲学者ニーチェが生まれた日。

彼は、
活発に遊びまわるよりも、
家の中で静かに一人で過ごすことを好んだ。
今風に言えば「引きこもり
だったそうだ。

スマホもネットもない時代。
彼は膨大な時間を
考えること、そして書くことに費やした。

彼はこんな言葉を残している。

「高く昇ろうと思うなら、自分の足を使う。
 高いところへは、他人に運ばれてはならない。」

24歳という異例の若さでバーゼル大学の
古典文献学の教授に抜擢。
生涯で多くの本を出版したニーチェ。
自らの努力を信じていたのだろう。

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澁江俊一 17年10月15日放送

171015-02

ニーチェ 強さの奥にあるもの

173年前の今日は、
哲学者ニーチェが生まれた日。

神は死んだ。
このあまりにも有名で強烈な言葉だけで
ニーチェを遠ざけるのはもったいない。

ニーチェがこの言葉に込めたのは
神は死んだのだから
人間らしく生きようという
人生を肯定する希望のメッセージだ。

超人。
これもニーチェの強烈な言葉だが
みんながやるからやるという基準ではなく
どんなに意味のない世の中でも
妬みや、恨みを持たず
自分のルールで物事を判断すれば
前向きに生きられる、
そんな人間になれというメッセージだ。

どんな常識にも流されず
本質を深く深く掘り当てたニーチェの言葉は
情報が溢れすぎた現代に
生きていく勇気をくれる。

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澁江俊一 17年10月15日放送

171015-03
Huss Khzam
ニーチェ 価値の転換

173年前の今日は、
哲学者ニーチェが生まれた日。

キリスト教の「隣人愛」は
自分よりも他人を愛しなさいと教える。
しかしニーチェはどうすれば自分が
もっと快活に生きられるかを徹底的に考え抜いた。

そんなニーチェの人生は苦悩に満ちていた。
激しい恋の末の失恋。親友との決別と孤独。
精神が壊れるギリギリの状態を
苦しみ切ることでたどり着いたのは
よりよい人生を生きるための価値の転換だった。

自分はいつか人類に最大の贈り物をするんだ。
そう自負して出版した「ツァラトゥストラ」は
しかし、ほとんど見向きもされなかった。
世界が彼の言葉の真の価値に気づいたのは、
ついに精神を病んだニーチェの死後、半世紀以上後のこと。

 大きな苦痛こそ
 精神の最後の解放者である。

苦しみの底でも
希望を捨てなかった男の言葉は重い。

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奥村広乃 17年10月15日放送

171015-04

ニーチェ 病気について

173年前の今日は、
哲学者ニーチェが生まれた日。

彼は病気がちだった。
赤痢や、ジフテリア。
大学を辞職したのも、
持病の悪化があったからだと言われる。

彼は病を患っている人について、
こう考えていた。

重い病気に苦しむ人は、
体力こそ十分ではないが、
とても冷静な眼差しで
物事を見つめることができる人だ、と。

ニーチェは晩年、
その魂を削るようなハイペースで
執筆活動を行なった。

彼はこう残している。

「自分を破壊する一歩手前の負荷が、自分を強くしてくれる。」

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