大友美有紀 17年10月7日放送

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「プラネタリウム解説員/河原郁夫」ボール紙の望遠鏡

86歳の現役プラネタリウム解説員、河原郁夫は、
幼い頃、貧しくて食べるものもない時代、
星がきれいだったことが救いだった。

 あの星の光が地球に届くまで何年かかるのだろう。
 あの惑星には生物はいるだろうか。
 そんな想像をしながら星を眺めていると
 辛いこともみんな忘れられました。

小学校5年生になると河原少年は、
自分で望遠鏡を作って星の観察を始める。
筒はボール紙、三脚はカメラのもの。
合計10台ぐらい。
家の物干し台を「河原天文台」と呼んで
観測基地にしていた。
夢中になれるものがある。
それは幸運だと、河原はいう。

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大友美有紀 17年10月7日放送

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「プラネタリウム解説員/河原郁夫」プラネタリウムとの出会い

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昭和15年、河原郁夫は小学4年生、
父親に連れられて、有楽町に出来たばかりの
プラネタリウムにでかけた。
こんなに素晴らしいものがあるのかと思った。
星空を映す大きなドーム。
真ん中にはドイツ製の大きな投影機。
BGMは「ツィゴイネルワイゼン」。
河原少年はその空間すべてが気に入ってしまった。

 当時、戦時中で灯火管制をしていましたから、
 空が真っ暗で、星がよく見えたものです。
 本当にプラネタリウムで教わったとおりに見えた。
 おかげでたちまち星座を覚えました。

河原郁夫、86歳。
「かわさき宙(そら)と緑の科学館」で
プラネタリウム解説員を務めている。

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佐藤延夫 17年10月1日放送

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住まいが語るもの/谷崎潤一郎

近代文学の作家は、
引越しを好む者が多かったが、
その中でも群を抜くと言われているのは
谷崎潤一郎だ。

三人目の妻、松子夫人と暮らした住居、倚松庵は、
転居に次ぐ転居の中で、比較的長く滞在したと言える。
応接間は全てフローリング。
ドアにはステンドグラスがはめ込まれ、
冬は備え付けの薪ストーブに火を入れた。

「細雪」を執筆した当時の住まいであり、
部屋の細部まで作中に描写されている。

家は、作品に奥行きを与える。

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佐藤延夫 17年10月1日放送

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住まいが語るもの/坪内逍遥

作家、坪内逍遥が晩年、居を構えたのは
熱海の水口村だった。
それまでの仕事場だった荒宿は
少しずつ騒がしくなり嫌気がさしていた。
閑静な場所を選び、
自ら図面を引いた新たな住まい。
そこには立派な柿の木が二本立っており、
双柿舎と名付けられた。

母屋は茅葺の二階建て。
応接間のほかに十畳の客間、
七畳の茶の間があり、
二階は書斎となっている。

「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。」

そんな言葉を残した逍遥。
全てを俯瞰で見つめる作品は、
こだわり抜かれた一室で突き詰められた。

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佐藤延夫 17年10月1日放送

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住まいが語るもの/武者小路実篤

武者小路実篤が晩年に暮らしたのは、
調布、仙川の住まいだった。
モダンな木造平屋建て。
玄関を入ってすぐの応接間には
洋風の調度品が並べられ、
編集者や画商など、客人が耐えなかったそうだ。
そして、当時はまだ珍しかったという
広いテラスやサンルーフも備えられている。

「自分の仕事は、自分の一生を充実させるためにある。」

実篤は、武蔵野の自然とともに
亡くなる前の年まで創作活動に没頭した。
現在もこの住まいは、実篤公園に残されている。

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佐藤延夫 17年10月1日放送

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住まいが語るもの/夏目漱石

文豪 夏目漱石は、
生涯、借家暮らしだった。

ロンドンからの帰国後、
文京区千駄木に居を移す。
かつて森鴎外も暮らしたというその家は、
いわゆるオーソドックスな日本家屋で、
六畳の居間と書庫、八畳の座敷、
女中部屋の前には中廊下が備えられている。
ここで漱石は名作「吾輩は猫である」を執筆した。
鼠と戦った台所、猫のためのくぐり戸など、
作中に家の様子を垣間見ることができる。

「私は家を建てる事が一生の目的でも何でも無いが、
 やがて金でも出来るなら、家を作って見たいと思つている。」

漱石の思いが叶うことはなかったが、
「猫の家」と呼ばれるこの住居は、
愛知県の明治村に移築、公開されている。

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佐藤延夫 17年10月1日放送

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住まいが語るもの/石川啄木

詩人、石川啄木は、
生涯、貧しさとともに暮らした。

啄木と妻、そして母の三人で
農家の住まいを間借りする生活。
二階の板の間が、彼らに与えられた
たったひとつの空間だった。
啄木の日記には、こう記されている。

「この一室は、我が書斎で、又三人の寝室、食堂、応接間。」

のちに上京し、新聞社の校正係に採用された啄木は、
本郷で六畳二間の部屋を借りて創作に励んだ。
もちろん、妻と母も一緒に暮らした。

当時一階にあった床屋は、
今もなお営業を続けている。

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佐藤延夫 17年10月1日放送

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住まいが語るもの/江戸川乱歩

作家、江戸川乱歩が晩年に暮らした
池袋三丁目の住居は、
ミステリアスな彼のイメージそのものだった。

母屋の奥に、純和風の土蔵があり、
二階の書斎で多くの作品を執筆した。
彼もお気に入りの場所だったが、
冬の寒さは耐え難いものがあったという。

「現世は夢。よるの夢こそまこと。」

乱歩は家を移るごとに
住居の見取り図を丁寧に作っていた。
これも推理小説のトリックに利用したのだろうか。

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永久眞規 17年9月30日放送

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翻訳のはなし 堀達之助

1853年、日本に激震が走ったペリー来航。
その得体の知れぬ船に近づき、
交渉を進めた勇敢な男がいる。

彼の名は、堀達之助。
船の下から、唯一喋れる英語の文章を叫んだ。

I can speak Dutch!

堀は長崎で育った、オランダ語の通訳士だった。
流暢なオランダ語で話を進め、
日本は開国へと向かっていく。

その約10年後、1962年。
堀を中心に日本初の印刷された英和辞書、
「英和対訳袖珍辞書」が刊行された。

たった10年。
独学で学んだ彼の英語は、
日本における英語普及の基礎を築くまでになっていた。

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福宿桃香 17年9月30日放送

TheMezzanine

翻訳のはなし 岸本佐知子

会社になじめなかったからという理由で、翻訳家になった女性がいる。
ミランダ・ジュライの『いちばんここに似合う人』や
ニコルソン・ベイカーの『中二階』など
英語圏の現代小説を数々訳してきた岸本佐知子のことだ。

岸本は、幼い頃から現実を受け入れることが苦手だった。
「どうして人は時間を守るのだろう」
「でたらめな方がいいのに、何故きちんとしようとするのだろう」
OLとして働き出してからも
社会の根本的なルールが理解できなかった岸本は、
やがてほとんどの仕事を取り上げられてしまう。
みんなと同じようにできない自分を申し訳なく思い、
他に居場所を探そうとたまたま辿り着いた場所
それが、翻訳学校だった。

それから三十年余り。今や日本の翻訳界を牽引する存在となった岸本は、
翻訳をつづける理由を次のように語っている。

自分がやっても人に迷惑がかからないと思える唯一のことが、翻訳なんです。

「生きててすみません」とさえ思っていたという岸本が、
はっきり言い切った言葉。
心から好きだと思えるものをやっと見つけた喜びに溢れていた。

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