佐藤日登美 17年9月17日放送
美味なるイタリア料理 ベリーニが生まれた店
ヴェネチアの名物レストラン、ハリーズ・バー。
ベリーニというカクテルは、この店で生まれた。
搾りたての白桃を3分の1。
イタリア生まれのスパークリングワイン、プロセッコを3分の2。
コツは、搾った白桃を最初にグラスに注ぐこと。
カクテルの名前は、
ルネサンス期の画家、ジョヴァンニ・ベリーニの名前から拝借したという。
30年以上ハリーズ・バーでバーテンダーを務めるクラウディオ・ポンシオは言う。
お客さまが好むお酒は、時間帯によって変わる。
でも、ベリーニだけはどんな時間にも、どんな季節にも合う。
だから結局みんな、ベリーニを飲んじゃうんだ。
森由里佳 17年9月17日放送
美味なるイタリア料理 飽きないという驚き
はじめてローマに着いたとき、
シェフ・落合務は「ゴミゴミしたところ」だと思ったそうだ。
フレンチを志していた彼にとって、
イタリア料理はどれも同じでがさつな感じ。
それでも、滞在している数日間、
飽きずに食べている自分に気づいたときの衝撃は、
彼の志を変えるのに十分だったようだ。
イタリアの飯は、毎日食べても飽きない、
これは目からウロコだった。
食事とは本来そういうものだと、初めて気が付いた瞬間だった。
落合務。
今、イタリアンの世界で彼の名を知らない人はいない。
森由里佳 17年9月17日放送
美味なるイタリア料理 たった10人の客
イタリア料理どころか、
「パスタ」という言葉さえ知られていなかったときのこと。
シェフ・落合務はイタリアンレストラン「グラナータ」をオープンした。
しかし、それがまったくふるわない。
たった10人しかお客さんが来なかった夜、
ついに自信を失いかけていた落合に、オーナーがこう言った。
「お前は、来てくれた10人を満足させて帰したのか?」
落合はハッとした。
それまでの僕は「たった10人しか来ない」とボヤくばかりで、
その10人をいかに満足させるかなんて考えたこともなかったんだ。
心機一転、反省した落合に転機がやってくる。
イタリア政府観光局の人が訪れ、絶賛してくれたのだ。
彼の口コミで、グラナータは名店への道を駆けあがることになった。
森由里佳 17年9月17日放送
mike wilson
美味なるイタリア料理 自分のための仕事
イタリアンのシェフ・落合務。
彼が料理をつくるモチベーションは意外なところにあった。
お客さんに喜んでもらう。でも、そんなのは当たり前のこと。
何のために働くかというと、自分のためなんだよ。
お客さんが喜んでくれたら、それが自分の喜びにもなるでしょ。
ということは、結局、自分のためなわけだよ。
「世のため、人のため」もいいけど、それも自分のためじゃないと、
少しうまくいかないだけで誰かのせいにしちゃうからね。
つらい修行を前にしても、
お店に人がこなくても、
落合はずっと戦い抜いてきた。
成功の隠し味は、どうやら自分と向き合う力らしい。
伊藤健一郎 17年9月16日放送
臨終の話 チャールズ・チャップリン
チャールズ・チャップリン。
世の中を鋭く風刺しつつも
決してユーモアを忘れない彼は、
喜劇王と称された。
そんなチャップリンは1977年、クリスマスの朝に息を引きとった。
老衰による静かな死だった。
彼の訃報が日本に届いた、25日の夕刻。
東京有楽町のニュー東宝シネマ1では、
チャップリンの伝記映画「放浪紳士チャーリー」が上映中だった。
ラストシーンの途中、その死が場内マイクで伝えられると、
客席は一瞬静まり、やがて彼を称える万雷の拍手が起こった。
チャップリンらしい、見事な幕引きだった。
伊藤健一郎 17年9月16日放送
臨終の話 トーマス・エジソン
発明王、トーマス・エジソン。
彼は、1929年10月。白熱電灯発明50周年の祝典で、
フーバー大統領をはじめとする、多くの来賓から賛辞をおくられた。
けれど、エジソンは、彼らと満足に会話をすることができず、
短い感謝を述べると崩れるように椅子にすわった。
胃がんと糖尿病、さらに腎炎と高血圧を患い、ギリギリの状態だったのだ。
1931年10月18日、いよいよそのときが近づくと、
エジソンは昏睡状態から目を覚まし、妻のミーナにこう言った。
「いいお天気だね」まだ夜があけない暗い時間だった。
ミーナがエジソンに「苦しいですか」とたずねると、
彼は一言「いや、待っているだけだ」とこたえ、
ほどなくして、息を引きとった。
伊藤健一郎 17年9月16日放送
臨終の話 フランツ・カフカ
フランツ・カフカは、
労働局災害保険局で働きながら、小説を書いたという。
まじめで、自分にきびしいカフカは、
過労で体を壊すほど仕事にのめりこんだ。
彼は、34歳で、結核を発症する。
そして、壮絶な闘病生活をおくる中、41歳で生涯を終えた。
カフカの死後に発見された友人への手紙には、こう記されている。
「最後の願いだ。僕の遺稿のぜんぶ、日記、原稿、手紙のたぐいは、
ひとつ残らず、なかみを読まずに焼き捨ててくれたまえ」
カフカの死顔は、彼の精神があらわれたように、
きつく、きびしく、近寄りがたかったという。
伊藤健一郎 17年9月16日放送
臨終の話 魯迅
中国近代文学の父、魯迅。
彼はあるとき、自叙伝を書くことをすすめられると、こう答えた。
私の生涯には、とりたてるようなことは何もない。
私の伝記程度なら、中国では四億も集まり、図書館を満たすことだろう。
伝記として残ることを拒んだ魯迅だが、遺書をしたためたことはある。
そこには、こう記されている。
キリスト教徒は、臨終ですべてを許すそうだが、私には敵が多い。
恨むなら恨め。こちらも誰ひとり許しはせぬ。
一刻者だった魯迅の葬儀には、六千人の学生や労働者が参集したという。
伊藤健一郎 17年9月16日放送
臨終の話 アルフレッド・ノーベル
ダイナマイトを発明した化学者、アルフレッド・ノーベル。
彼は晩年、持病のリューマチが高じて、心臓に障害を起こした。
これは、療養中のノーベルが友人にあてた手紙の一部。
皮肉なことに、医師は私の内服薬として、
ニトログリセリンを処方しています。
ニトログリセリンとは、
ノーベルが生み出したダイナマイトの原料である。
一方で、血管を広げる作用もあり、
現代でも狭心症や心筋梗塞の妙薬とされている。
ノーベルは、ニトログリセリンで治療を重ねるも回復せずに、
はげしい心臓発作を起こして死んだ。
澁江俊一 17年9月10日放送
紋章の人間国宝
メートル・ダールをご存知だろうか。
それは日本の人間国宝にならって
策定されたフランス版人間国宝の名称である。
その一人、エマニュエル・バロワは
革新的なガラス作家。
その経歴は、かなり異色だ。
農学を学んだのちに人道援助セクターに勤務、
その後は写真家となり多数の雑誌で活躍する。
撮影中にガラス職人と出会い、
独学でガラス細工を学び始める。
農学を学んだ彼のガラスは、
確かに大きな植物のようだ。
ガラスとはなんて自由な素材なのだろうと
ただただ驚くしかない。