佐藤延夫 17年9月2日放送

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Kotomi_
椅子の話 ウィリアム・モリス

サセックス・チェア。
黒塗りのブナ材を、ほぞ組みにしたシンプルな椅子。
座るところは、い草編みになっている。

この椅子が生まれたのは、19世紀のイギリス。
モダンデザインの父、ウィリアム・モリスの設立した
モリス商会が販売を始めた。
それは、大量生産や商業主義に異を唱え、
職人による手作りの作品を啓蒙するものでもあった。
ウィリアム・モリスは語る。

「役に立たないもの、美しくないものを家に置いてはならない。」

100年以上前のデザイナーは、シンプルライフを知っている。

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佐藤延夫 17年9月2日放送

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Yanajin33
椅子の話 チャールズ・マッキントッシュ

ヒルハウス・ラダーバックチェア。
梯子のようにそびえ立つ背もたれに目を奪われる。
高さは、141センチ。

1902年に誕生したこの椅子は、
スコットランドの建築家、
チャールズ・レニー・マッキントッシュによるものだ。
彼が優先したのは、使い勝手よりもデザイン。
マッキントッシュは語る。

「建築はあらゆる美術の総合であり、全ての工芸の集合である。」

ヒルハウス・ラダーバックチェアは、
座るというよりも、観賞用がふさわしい。
ニューヨーク近代美術館の所蔵作品になっている。

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佐藤延夫 17年9月2日放送

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sailko
椅子の話 ヘリット・リートフェルト

レッドアンドブルー・チェア。
名前の通り、真っ赤な背もたれに、青の座面。
この椅子は、直線と平面だけで構成されている。

作者は、オランダの建築家、ヘリット・リートフェルト。
20世紀前半、オランダでは、
芸術を急進的に革新するムーブメントが巻き起こった。
彼はその主要メンバーに名を連ねている。
作品もまた、伝統的な様式を排除し、
肘掛けが片方だけのベルリンチェア、
印象的なフォルムのジグザグチェアなど、
今までにない実験的な椅子を数多く手がけた。
リートフェルトは語る。

「建築が想像するのは空間である。」

余白を使いこなしてこそ、一流。

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佐藤延夫 17年9月2日放送

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Lars Plougmann
椅子の話 アルネ・ヤコブセン

エッグチェア。
椅子本体は、硬質発泡ウレタン製。
卵を連想させるデザインが印象的で、数々の映画にも登場している。

デンマークの建築家、アルネ・ヤコブセンは、
新素材を使った椅子を多く手がけている。
一体型の成形合板を使用したアントチェアは、
人々の注目を一身に集めた。
その後、アントチェアの奥行きと幅を広げたセブンチェアを設計。
世界で500万本以上も販売する大ヒット商品となっている。
そんな彼の言葉。

「美しいものを作るのではなく、必要とされているものを作る。」

計算され尽くした彼のトータルデザインは、時を経ても色褪せない。

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佐藤延夫 17年9月2日放送

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Jim
椅子の話 ミース・ファン・デル・ローエ

バルセロナ・チェア。
特徴は、エックス字型のフレームと革張りのシート。
オットマンとのセットがまた美しい。

1929年、バルセロナ万博のドイツ館に置かれたこの椅子は、
ドイツの建築家、ミース・ファン・デル・ローエによって
デザインされた。
当時のスペイン国王、アルフォンソ13世が来館した際に
座ってもらう予定だったが、国王は訪れなかったそうだ。
ミース・ファン・デル・ローエは、
バウハウスの3代目校長を務めたのち、
アメリカに亡命し、ニューヨークの超高層ビルを設計した。
そんな彼の言葉。

「神は細部に宿る。」
「より少ないことは、より豊かなこと。」

デザインだけでなく、数々の名言も残している。

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礒部建多 17年8月27日放送

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陽気な王様

最も歴史あるフラの競技会、
「メリー・モナーク・フェスティバル」

「メリー・モナーク」とは英語で、「陽気な王様」という意味。
19世紀のハワイ王国時代のデビッド・カラカウア王の愛称である。

彼は、「ハワイの言語」を復活させるなど、
積極的に文化の保護を進めた。

そして国王の力を使い、伝統フラを復活させ、
新たに西洋音楽を導入したフラを奨励するなど、
フラを消滅の危機から救ったのだ。

「フラは心の言葉、すなわちハワイ人民の鼓動そのものなのです。」

デビッド・カラカウアの陽気さは、
フラを通じて、今もハワイアンの心に継承されている。

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松岡康 17年8月27日放送

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最高のサーファー

今やオリンピック競技となり、多くの人が楽しむサーフィン。
実は一度、この世から消えそうになった歴史がある。

1821年、ハワイに来航したキリスト教宣教師たちによって
サーフィンなどのハワイ独自の文化は迫害を受けた。
その影響で、20世紀初頭ごろには
サーファーはほとんどいなくなったという。

だが、一人の英雄の登場によって、
サーフィンは再び市民権を得ることとなる。
近代サーフィンの父、デューク・カハナモク。
1912年に競泳でオリンピック金メダリストとなった彼は、
ハワイ固有の文化であったサーフィンの復興と普及に努めた。

彼の活動によって、
サーフィンは世界の各地で急速に発展し、復興を遂げた。

デューク・カハナモクはこんな言葉を残している。

最高のサーファーとは最も楽しんでいる人です。

今日も世界中のビーチで、
最高のサーファーたちが波に乗っている。

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澁江俊一 17年8月27日放送

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Hakilon
空港の名前

あなたはダニエル・イノウエを知っているだろうか?
ハワイの玄関であるホノルル空港の
正式名称になった日系人である。

イノウエは若い頃、
第二次大戦中に
ドイツ軍との激しい戦いで右腕を失った。

「あいつらは、何をしでかすかわからない」

常にアメリカ国家から、
その行動を疑われていた日系人。
それでも国家に忠誠を尽くし
がむしゃらに戦うことが
イノウエの選んだ道だった。

親が生まれた国と、戦うこと。
自分が生まれた国に、疑われ続けること。
どちらも今の私たちには
想像もつかないほどの苦しみだ。
その苦しみを引き受けて
戦後は上院議員として次々と、
大きな仕事を成し遂げたイノウエ。
葬儀ではオバマ大統領が
「アメリカは真の英雄を失った」
と追悼した。

ほんの少しでもいい。
楽園ハワイに行くときは
イノウエの生き方に
思いを馳せてみてほしい。

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礒部建多 17年8月27日放送

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伝説的ウォーターマン

サーフィンのメッカ・ハワイにおいて、
最も権威ある大会と位置付けられているのが、
「Memory of Eddie AIkau(メモリーオブエディーアイカウ)」

エディーとは、伝説的なライフガードである。
ワイメアベイという世界有数のサーフスポットで、
何百人もの命を救った英雄。

ジェットスキーも足ヒレもない時代。波はビルのような高さ。
それでも臆せず、エディーは溺れたサーファーを助けに向かったのだ。

そんなエディーを讃えるように、
サーファーたちが日常的に使う言葉がある。

「Eddie would go.(エディーウッドゴー)」

「どんな困難も、きっとエディーなら立ち向かっていたよ。」
その精神は、今もハワイアンたちを鼓舞し続けている。

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澁江俊一 17年8月27日放送

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Tomas Carlo E. Carrasco
メインストリートの名前

世界中からハワイに集まった人々で賑わう
ワイキキのメインストリート「カラカウア通り」。
その名になったカラカウアとは
どんな人だったのだろう?

太平洋の真ん中で
大国アメリカと渡り合いながら
ハワイ王国存続の道を探し続けた王で、
キリスト教宣教師に禁止されていた伝統の踊り
「フラ」を復活させたのがカラカウアだ。

明治政府が生まれたばかりの
日本にも訪れているカラカウア。
有色人種でありながら近代化を果たし、
自立していた日本に、ハワイの未来を重ねていた。
だからこそ日本からの移民を
彼は積極的に受け入れた。

ハワイの独立は叶わなかったが
彼が残したハワイの文化や精神は
今も世界中の人々が愛している。

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